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第二部 第三章
シシィのまどろみ
しおりを挟む覚醒と眠りの間は甘い霧に満たされていた。柔らかく、輪郭の無いまどろみ。
シシィは目を閉じたまま椅子に座り、暖炉から放たれる熱に身を委ねていた。朝から眠気が抜けず、暖炉の前に座ったせいもあって意識は次第に薄れてゆく。
家の中は暖かく、肌に触れる空気は綿のように優しい。
やがて境目もなく眠りの淵へと落ちた。
ふと目が覚めると、ベッドの上に寝ていることに気づいた。体にかかる重みに暖かさを感じる。
目を開けると、アデルが暖炉の前に座っているのが見えた。
アデルは暖炉の中に火かき棒を入れて暖炉の中の薪を動かしている。穏やかな手付きで、まるで炎を撫でているかのようだ。そうやってゆっくりと手を動かしているのは、きっと大きな音を立てないようにと気を使っているからだろう。
椅子で寝ていたはずの自分をベッドに運んだのもアデルに違いない。運ばれたにも関わらず、まったく起きなかった。
こんなことは初めてだ。
今までは、人前で眠ることさえ恐ろしいことだった。自分の身は自分で守らなければいけないのだから、いつでもすぐに戦えるように心がけていた。
それなのに、今はこうやって安心して眠りについている。何も心配せず、何も怖がらず、眠りの中で体を委ねてしまえる。
これが幸福なのかもしれない。
暖炉から放たれる光がアデルの顔を照らしている。音を立てないように、仰向けからゆっくりと体を転がして横になった。そうすることでアデルの姿をまっすぐ見られるようになる。
こうやってアデルの顔を見ていると、心がどんどん暖かくなっていった。
ふとアデルがこちらに目を向けた。
「おや、起きたようじゃな」
気づかれてしまった。仰向けに寝ていたのに横臥になっているのだから、気づくのも当然かもしれない。
もっとアデルの顔を密かに眺めていたかったが、そうはいかないようだ。アデルは火かき棒を暖炉の横へ立てかけると、椅子と一緒にベッドの横へと来た。
アデルが椅子にどっしりと腰掛け、こちらの顔を覗き込んでくる。
「随分と眠そうじゃのう」
「……あなたが寝かせてくれなかったから」
「はっはっは、シシィが可愛すぎるからではないかのう」
そう言って快活に笑う。それからそっと左手を伸ばしてきて、こちらの髪に触れた。大きな手、太い指、髪の間にすべりこむ。
「リディアなど呆れて出ていったでのう」
「……そう」
今日は森へ行く予定だった。しかしリディアは一人で行ってしまったようだ。
リディアにだけ仕事をさせるのは申し訳ない気もする。
時間はわからないが、もう昼近いということはよくわかった。家の中に細く入り込む光線が、太陽の位置を教えてくれる。
起きなければいけない。それでも体を動かしたくはなかった。ベッドの中は自分の体温で温かくなっている。アデルのベッドだから、息をする度にアデルの匂いがした。
鼻の奥から脳へと染み込んでくるかのようだ。アデルの指が頭に触れると、段々眠くなってきた。
ソフィは今日は友達の家へ遊びに行くと言っていた。しばらく帰ってはこないだろう。
アデルの指先が髪の間をすりぬけてゆく。硬い指先が頭皮に触れる。
ゆっくりと手を伸ばし、アデルの手首を掴んだ。子どもでも振り解けるような弱い力で掴んだにも関わらず、アデルは特に振りほどこうとはしなかった。その手首を掴んで、自分の顔の前のほうへと持ってくる。
そして、アデルの中指を自分の唇の前へと持ってきた。アデルの指は自分のような娘とは違って太くて大きい。その硬さもまるで違っていた。
その指先を口の中に含んだ。唇を閉じて、指先を吸う。歯の間にずっと差し入れて、深く咥え込んだ。
「おや」
アデルが声を上げたが、抵抗する気は無いようだった。アデルの指先に舌を当てる。硬い感触が舌先に伝わってきた。
薪の爆ぜる音が聞こえる。その音の合間に、アデルの静かな呼吸の音が聞こえた。きっと外は寒いに違いない。冷たい空気が服の間に入り込んできて、心までも凍らせようとするにだろう。
それに比べて、ここは暖かかった。寒さというものがこの世界から消え去ってしまったかのようだ。
アデルの匂いのする寝具に包まれ、アデルの指を口に含む。
アデルは空いた右手で、こちらの顔にかかっていた髪をそっと払い除けた。その行為に心臓がきゅっと縮まる。甘い痛みが心臓から内蔵へと降りていって、骨盤の間をチリチリと刺激した。
もぞもぞと動いて姿勢を正す。
アデルが右手でそっと頭をなでてきた。
「ゆっくり休むといい」
暖かい声が耳に染み込んでくる。それだけで安らぎが全身に広がっていった。もう何も怖いものが無い。
今までの生活は、危険と隣合わせだった。常に何者かの襲撃に備え、気を張る必要があったのだ。しかし、皮膚の下にまで染み込んでいた恐れが、どんどん溶けて消えてゆく。もう何も恐れる必要はない。
アデルが守ってくれる。暖かなこの場所で生きてゆける。いつまでも幸せに暮らしてゆける。
目蓋の裏が象牙のような淡い白で溢れていった。それにつれて段々と意識が薄れてゆく。それでも何も怖くない。アデルがいてくれるから。
意識という大地はしんしんと降る雪に覆われていく。
アデルがいてくれるから、怖いものは何もなくなった。
けれど、怖いものは本当に無くなったのだろうか。アデルがいてくれるから怖くないのだとすれば、アデルがいなくなったらどうなるのだろう。
思考は段々と覆われてゆく。自分自身が消え去ってゆくかのようだった。それでも怖くない。
アデルにすべてを委ねていれば、何も考えず、何も恐れず、ずっと、幸せに暮らしてゆけるはずだ。
アデルの指を口に含みながら、意識はついに途切れた。
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