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第二部 第三章
返却
しおりを挟む正午だというのに太陽は低い位置を遠慮がちに通っていた。肌寒さを感じて、アデルが体を縮こまらせる。
「寒いのう」
隣を歩く村長はまるで牛が歩むかのごとき遅さで、このままでは目的地に着く前に村長の寿命が尽きてしまうのではないかと思えるほどだった。
道は乾いていて歩きやすいし、天気も良いから遠くを見渡すことも出来る。だからこそ自分たちの進みの遅さが際立って感じられた。
路傍の草も今では殆どが色を失って褐色へと至り、か弱い風にすらその体を震わせるほどに軽くなっている。
村長は杖をついたまま黙々と歩き続けている。どこへ行こうとしているのかはまだわからなかった。
これから、あの銃弾を放った相手と会うことになるかもしれない。村長にはその犯人が誰なのかが判ったらしいが、自分にはとんと見当が付かなかった。
アデルは村長の小柄な体を見下ろして呟いた。
「ふーむ、心配じゃのう」
こんな銃弾のことなど放っておけばいいのに、村長はわざわざ犯人に会いに行くのだという。
村長がそんな考えに至ってしまったのには自分にも責任がある。あの銃弾を見つけたのは自分で、それがどのように木へ撃ち込まれたのかを説明したのも自分だ。
その結果、村長はその銃弾を放った者が誰なのか見当がついたようだ。
「村長よ、やはりやめておいたほうがよいのではないか?」
「心配する必要はない。黙ってワシについてこい」
「そうは言われてものう……」
銃を所持している相手に、今からその罪を突きつけようというのだ。こちらにはまったく証拠らしきものはないし、下手をすればただの言いがかりだと受け取られかねない。
そうなれば村長の目論見は失敗に終わる。
それだけならまだいい。最も恐ろしいのは、銃を持った相手が逆上することだ。
さすがに銃など持ち出されてしまえばこちらには手の打ちようがない。最悪の場合は自分も村長も冷たい死骸になってしまう。
咄嗟の事態に対応できるよう、年甲斐もなく木登りなどして体の調子を整えた。体の動きは悪くない、しかし今はこうやってのんびり歩いているせいで体が冷えてきていた。
折角暖めた体は段々と硬くなり、これでは咄嗟の時に最大限の力を出せるのかどうかわからない。
ここは村長を急かしたほうがよいに違いない。アデルは隣を歩く村長を見下ろした。
「村長、もう少し急ごうではないか」
「無茶を言うな馬鹿者、ワシはこの速さで精一杯じゃ」
村長にとってはこれ以上速く歩くというのは難しいようだ。さすがに急かすのは無理だろう。
こうなったら、村長を背負って歩くのがいいかもしれない。少々軽いが、重りを背負って歩けば体ももう少しは温まる。
アデルは村長へわずかに歩み寄って小声で言った。
「うーむ、ならばわしが背負うてやるから」
「いらんお世話じゃ、お前に背負われるほどワシは衰えてはおらん」
村長は苛立たしげに視線を向けてきた。その頑固な態度にアデルが溜め息を吐く。
「はぁ……、まったくこれじゃから老人というのは頑固でいかん」
「やかましい」
遅い足取りではあったが、ようやく目的地らしき場所へと到達した。アデルが目を細めて一軒の家を見上げる。
二つ隣の村で、うちの村とも縁が深い。まさかここに来るとは思っていなかった。そもそも村長の推測が正しいのかどうかも今のところはわからないのだ。
しかもこの家は、この村の長を務めるグスタフさんの家だ。入会地での猟が禁じられていることは当然知っているだろうし、むしろ逆にそのようなことが起こらないように努めなければならない立場にある。
立派な二階建ての建物はその表面が白い漆喰で覆われていた。浮き立つ血管のようにところどころで木材が斜めに走り、大きな建物をがっしりと支えている。
玄関の扉は飴色のオーク材で、表面には彫刻が施されていた。この扉だけでも結構なお金がかかっているだろう。こんな金持ちが銃弾をぶっ放すような真似をしたのだろうか。
アデルは重たげな扉に目を向けてぐっと強く拳を握り締めた。軽く叩いたくらいではあまり音がしなさそうに思えてしまう。
気合を入れて叩こうとしたその瞬間に村長が制止の声をかけてきた。
「いや待てアデル」
「は?」
今まさに叩こうとしていたので、気勢が殺がれてしまう。何事かと思えば、村長は一度家の横に回ってあちこちを眺めだした。
庭のほうにも目を向け、それから壁、薪の積まれた一角、古びた道具が無造作に積まれた小屋などを見て回る。
何をしたいのかはよくわからなかったが、村長はそれで満足したようだった。
「よし、では行くとするか。アデル、お前は静かにしておればよい」
「いや静かにとか言われてもじゃな……」
「余計なことはするな」
「む……」
村長が何を考えているのかはよくわからないが、言う通りにしておいたほうがよいだろう。その後、アデルは村長に銃弾を渡し、重たげな扉を拳で叩いた。
その家の中は古びた木材の放つ匂いで満たされていた。柱や床の板も光沢を放つほどに艶々としていて、長い時間を経てきたことが見て取れる。
ロルフの家の匂いとよく似ていた。木の燃えた後の渋い匂いがあちこちに染み付いている。決して不快な匂いではなく、むしろ落ち着きに繋がるようなものだった。
この家の主であるグスタフはこの村で村長を務めている。急な来訪に戸惑ったようではあったが、快く迎えてくれた。
グスタフは口の周りに茶色のひげをぼうぼうに生やしていて、それを撫でながらやや目を丸くしていた。歳は五十の半ばほどではあったが、見た限りでは壮健そのものといった様子だ。
グスタフに促されて村長は椅子に腰掛けた。テーブルを挟んでグスタフと向き合っている。
小男の村長が椅子に座ると、その体躯が余計に小さくなったかのように見えてしまう。その理由のひとつは、おそらくテーブルがかなり立派で大きいものだったからだろう。
グスタフがアデルに目を向け、低い声で尋ねてきた。
「どうしたんだアデル? お前も座ったらどうだ」
「あ、いやわしは結構。わしのようなもんが同席するのは失礼というものよ」
「何を言ってるんだ、遠慮なんかするなよ」
座るように促されたが、ここは是非とも立っておきたい。座った状態から何かの行動に対処するのは難しい。もし何かがあったとしても、立った状態であればすぐ動きだせる。
アデルは神経が緩まないように呼吸を整え、素早くあちらこちらへと視線を向けた。さすがに銃は見当たらない。どこに置いているのかはわからないが、少なくともすぐ撃てる状態ではないだろう。
これならなんとかなるはずだ。アデルがそう考えていると、村長がアデルに言った。
「何をやっておるんじゃ、お前も座れ」
「いやいや、わしのことになど構わんでよいから」
「いいから座れ」
「ぬ……」
ここまで言われて座らなければ、グスタフに変な疑いを持たれてしまいかねない。アデルは椅子を引いて、浅く腰掛けた。テーブルからわずかに距離を取っておき、すぐに立ち上がれるように意識しておく。
グスタフはアデルが座ったのを見て満足したのか、テーブルに体を乗り出した。
「しかし今日は何の用で? 会合ならまだ先のはず」
グスタフの言葉を受けて、村長は服のポケットから銃弾を取り出した。それをテーブルの上にことりと置いてすかさずに言う。
「忘れ物を届けにのう」
テーブルに置かれたのが鉛弾だと気づいて、グスタフの顔色がさっと変わった。眼球が硬直し、わずかに跳ね上がった眉がぴくぴくと痙攣している。
日焼けした顔からは血の気が失われ、どす黒く変色した。
グスタフが何か言おうと唇を動かした瞬間、それを制するように村長が言う。
「確かに返した。まったくあのような場所にこんなものを忘れてゆくとは感心せん話じゃ」
「うっ……」
おそらくグスタフの中では様々な感情が渦巻いているのだろう。すぐさま否定すればよかったのかもしれないが、それも村長に先を越された。
これが何なのかわからないとか、自分の物ではないと言うことも出来たはずだが、思考が追いついていない。
自分もグスタフと似たような経験をしたことがあるから理解できた。何らかの悪さをして村長を相手に誤魔化そうとしても、村長はこちらの言い訳よりもさらに先を考えているのだ。
何よりも、村長が一体どこまで知っているのか、何を知っているのかが判断できないからどうやってしらばっくれればいいのかが思いつかない。
グスタフは顔から冷や汗をだらだらと流しながら、テーブルの上の銃弾を睨みつけていた。
きっと、何故これが自分のものだとわかったのか、どうして見つかったのか、村長はどこまで事情を知っているのか、色々なことを考えているのだろう。
そしてそのどれもグスタフにはわからない。だから、何を言えばいいのかわからない。
村長はふぅと息を吐いて続けた。
「安心せい、このことを知っておるのはワシとアデルだけじゃ」
「うぅ……」
グスタフは村長の言葉に表情を歪めた。安心しろという言葉の意味を理解したのだろう。つまり、グスタフは入会地で銃を撃ったという事実を誰にも明かしてはいないし、知られたくないと思っている。
それを理解したうえで、村長は誰にもこの事実を話していないと告げたのだ。
村長ははっきりとした物言いを避けている。もしグスタフが何かを尋ねようとしても、その質問の内容によってはさらに不利な状況に追い込まれかねない。
グスタフの瞼は瞬きを忘れて硬直し、瞳の先は銃弾へとまっすぐに向けられたままだった。
しばらくそうやって固まっていたが、グスタフは太い喉からたっぷりと息を吐き出した。
机の上に両肘を置き、テーブルの上に体を乗り出す。俯いて頭を抱え、肩を上下させながら大きな呼吸を繰り返した。
グスタフの目は手に隠れて見えなかったが、その口元だけがわずかに見える。
その唇の端が横に引かれ、笑みの形を作った。
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