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第二部 第三章
シシィの本
しおりを挟むソフィは蔵の中で冷たい空気をゆっくり吸い込んだ。鼻の奥がつんと痛む。
今は何かしら色々な感情が心の中で渦巻いていた。しかし、それをどのような形で表に出せばいいのかがわからない。
外の天気は良いはずなのに、蔵の中を漂う冷たい空気でソフィは一度体を震わせた。
リディアは椅子に腰掛けて、のんびりとしている。もう話は終わったとばかりに脚を組んで背もたれにもたれていた。
きっとこれ以上何かを話すつもりはないのだろう。そう思った瞬間にリディアが口を開いた。
「あっ、そうだわ、あたしも掃除しなきゃ」
急にそんなことを言うものだから、その言葉の意味をすんなりと受け取ることが出来なかった。リディアは椅子から立ち上がると、自分のベッドのシーツなどを畳み始めた。
どうやら掃除をするつもりのようだ。
リディアが今思いついたかのようにそれを口にしたのは、これでこの話は終わりにしたいからだろう。
こちらにも気持ちの整理をするように促しているのだ。これからもリディアと一緒に暮らしてゆくのだから、変なわだかまりを抱えたままというのは確かに気分が悪い。
ソフィは軽く首を振った。
何かが変だと思ってはいるが、それが何なのかさっぱりわからない。それなのに何かを主張するのは間違っているのだろうか。
リディアは自分の姉貴分として様々なことを教えてくれるし、こちらを傷つけるようなことはしてこなかった。
きっと、出会った頃からは想像も出来ないほど、大切にされている。リディアが何か間違ったことをしているわけでもない。
それにも関わらずリディアの言い分は心にすっと染み込むこともなく、澱のように淀んで重たく溜まっていた。
リディアはもう掃除に取り掛かっていて、荷物の整理を始めている。きっと冬が来る前に色々とやってしまおうと思っているのだろう。
それを手伝う気にもなれず、ソフィはシシィのベッドの端に腰掛けた。
シシィのベッドもシーツは畳まれていて、空いた場所に何かよくわからない物が並べられていた。ガラスの小瓶や、カビが生えていそうな本、服や革の手袋などが広げられている。
小さなガラス瓶は合計で10本近くあり、中身もそれぞれ異なっているようだった。乾燥した植物らしきものが入っているものもあれば、粘り気のある液体らしきものが入っているものもある。
興味は惹かれたが、勝手に触るのはまずいだろう。そう考えてソフィは首を振った。
本を読んで勉強するべきかと、ソフィはシシィのベッドの上にあった一冊の本に目を留めた。本の紙は長い時間を生きてきたかのように擦り切れていて、軽く触れただけでも破れてしまいそうに見える。
ソフィは本を傷つけないようにそっと本を手に取った。厚さはソフィの親指の爪の幅くらいしかなく、この程度の量であればさほど時間をかけずに読めるような気がした。
本の背は紐で閉じてあり、気をつけて開かないと頁に変な癖がついてしまいかねない。紙は日照りで乾いた土のように茶色がかっていて、下手をすればぽろぽろと崩れてしまいそうだった。
「ふむ……」
表紙には題字も無かったので何の本なのかはわからない。ソフィはゆっくりと表紙をめくって、並んでいる文字に目を落とした。
例え古語で書かれていたとしても多少は読めるはずだと思っていた。しかしソフィは目をぎゅっと細めて眉を寄せた。さらに顔をぐっと本に近づける。
「な、なんじゃこれは?」
古語ではなかったが、あまりにも難しすぎて何が書いてあるのかさっぱりわからない。もちろん読める場所も多々あったが、意味のわからない単語が多すぎて理解が出来なかった。
さらに奇妙な記号が何度も何度も登場し、それらの意味を理解していないと何が書かれているのかわからないようになっている。
所々の単語は古語のものが使われているが、見たことも無い単語が多かった。文字は印刷ではなく手書きで非常に読みづらい。
ソフィは顔を本に近づけてみたが、それで読めるようになるはずもなかった。どんなことが書かれている本なのかさえ理解ができない。
どこか読める場所はないかと頁をめくって眺めてゆくが、所々しか理解が出来なかった。
「……哲学の石? なんじゃそれは……」
ラピス・フィロソフィアエという文字を見つけてソフィは首を傾げた。古語で書かれている単語なので読めることは読めるが、その単語だけでは一体何のことだかよくわからない。
その説明の部分はもっとわからなかった。哲学者を意味するフィロソフスではなく、学問としての意味でフィロソフィアという単語が使われている。
かと思えば、後にラピス・フィロソフォールムという単語も出てくる。これなら哲学者たちの石という意味になるはずだ。
見慣れない単語の意味がわからず、ソフィはなんとなくそれを口にした。
「めるくりうすうぃたえ? ぱらみーるむ? なんなのじゃ一体」
首を捻った瞬間に、正面から声がした。
「何読んでるのよ?」
「のわっ?!」
ふと顔を上げると正面にリディアが立っていた。リディアは柄の短い箒を片手に持ったまま、こちらを見下ろしている。この本が何なのかが純粋に気になったのだろう。
リディアが近づいてきたことにまったく気がつかなかった。首を捻ったまま急に顔を上げたものだから、首の筋肉がわずかに痛い。
ソフィは驚きを押し殺すように胸を片手で押さえた。
「急に出てくるからびっくりしたのじゃ!」
「出てくるって、さっきからずっと蔵にいたのになんでびっくりしてるのよ」
「うむ、いやそれはそうかもしれんが」
リディアからすればこちらが驚いている理由がわからないのだろう。ずっと同じ場所にいたのだから、向こうが気づいていないはずがないと思っていたはずだ。
ソフィは顔を一度本に落とし、どう説明するべきか考えた。
「うむ、この本はシシィの私物なのじゃ。妾には難しくてよくわからんのじゃ」
「へぇ……、ソフィにもよくわからないって、それってもしかして」
妙な笑みを浮かべたリディアがずいっと体を乗り出して本の中身に視線を落とした。そうやって体を乗り出すものだから、リディアの胸元が随分とはっきりとくっきりと近くで見えた。
きっとアデルだったらこうやってリディアの胸の谷間を見て喜ぶのだろう。あのスケベはそういう男だ。
リディアは急に難しい顔で眉を寄せ、書かれている文字を追っている。
「何よこれ、さっぱりわかんないんだけど」
「む? リディアにも見当がつかんというのか」
「あたしが思ってたのとは違うわね」
そうは言いながらも、リディアは何か読み取れないかと本へと視線を落としている。その美しい顔が間近に迫っていて、ソフィはついその表情に見とれてしまった。
リディアは下を向いているので、睫毛の長さがよくわかる。肌は白百合の花のような純白で、この薄暗い蔵の中でも内側から光を放っているかのようだった。
鼻梁はすっと高く通り、唇は艶めいていて潤いに満ちている。
御伽噺から抜け出てきたかのような美人だ。そんな美しい女がたった一人の農夫に惚れて、その美しさをすべて捧げようとしている。
女の身でありながらアデルがうらやましく思えてしまうほどだった。
リディアはこちらの視線に気づいているのか気づいていないのか、まだ本に目を向けていた。
しかし結局その本に何が書かれているのかわからなかったらしい。
「何よこれ、全然わかんないわ」
「うむ、妾にもわからんのじゃ」
おそらくシシィはこの本を読むことが出来るのだろう。シシィと自分では知識量が桁違いだということは十分に理解している。それでもこの本に対して何一つ太刀打ちできないことが悔しい。
忌々しげに文字を睨みつけてみるが、それで何かが変わるわけでもない。知らない単語だらけである以上はもう手のつけようがない。
きっと普通の人ならば使わないような単語が多いのだろう。
どういうことが書かれているのか、シシィに尋ねてみよう。今の自分には難しいかもしれないが、勉強しなければ何も知ることはできない。
そんなことを考えていると、蔵の扉がぎしりと音を立てて開いた。木製の扉は重たいにも関わらず、それを開けた一人の少女は平然としている。
シシィは外の眩しさを背に負って蔵の入り口に立っていた。ふわりとした金髪が揺らめいて跳ねる。
どうやら相談とやらはもう終わったらしい。自分たちを呼びにきたのだろう。
ちょうど都合よくやってきたシシィを見て、ソフィが声を上げようとした瞬間だった。
シシィが急にこちらに向かって走り出した。慌てた様子で目を大きく開いている。
「だめっ」
そう言って駆け寄ってきたかと思うと、シシィはソフィの手元に手をすばやく伸ばし、本を掴んで引っ張り上げた。
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