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第二部 第三章
凄いところ
しおりを挟む森の中に少し開けた場所があった。その中央では、シシィが炎の魔法を使っている。炎とはいえ、その姿は普通とは違っていた。普通の火であれば、明るく揺らめくものだが、シシィが出している炎はまるで夕日のように空間が揺らめいているだけだ。
「あれが難しいのじゃ」
遠くからシシィの姿を指差して示す。リディアは首をシシィのほうへと向けた。シシィは今はトンガリ帽子を被り、上に着ていたローブを脱ぎ去っている。
シシィの前のほうで橙色の火の玉が蜃気楼のように揺れていた。
「普通の火じゃないの?」
「あれは普通ではないのじゃ。説明するより……うむ、妾が実演して見せるとするのじゃ」
一旦ダンゴムシはやめて立ち上がる。お尻をパンパンと叩いてから、魔法の杖を取った。リディアから少し距離を取り、ゆっくりと息を吸い込む。
「普通の火の魔法というものはこうなのじゃ」
少し離れた場所に火の玉を浮かべた。黄色い炎が空中でふわふわと漂っている。
「そして、これを大きくするとこうなるのじゃ」
拳大の大きさだった火の玉は、空中で膨らんでゆく。その大きさは一抱えの樽ほどにもなった。さきほどより大きくなり、表面の至る所で火の尾を振り回している。
「少々できる魔法使いであればこのくらいは容易いのじゃ」
「ふーん」
「しかし、ここからが難しいのじゃ」
炎の温度をグングン上げてゆく。それと同時に風の魔法で空気を操り、炎の周囲に空気の壁を作り出した。そうすると、炎から派手さが失われた。おとなしく、ゆらゆらと揺蕩う陽炎。
だが、実際は先程の派手な炎よりよほど温度が高い。
「これは炎の温度もさっきより高いのじゃ。しかも、その周りの空気を遮断し、新たな空気が入らぬようにしておる」
「よくわかんないけど、凄いってことね」
「そうなのじゃ。つまりこれは窯の中を再現しておるのじゃ」
「窯ねぇ……」
リディアには今ひとつピンと来ないようだ。無理もない、自分も実はよくわかっていない。最初は普通の炎で、温度もそれほど高くはなかった。時間が段々経つに連れて炎の温度を上げ、しかも空気を遮断するような魔法まで同時に使わなければいけなかった。
「これがとてつもなく難しいのじゃ」
「でもソフィもやってるじゃない」
「うむ、妾も優れた魔法使い。このくらいのことはどうにかなるのじゃ」
「じゃあいいじゃない」
「いや、さすがの妾でもこれを保ち続けるのは難しいのじゃ。例えるなら、両手で同時に字を、しかも違う言語で書き続けるようなものなのじゃ」
「そんなの無理でしょ」
リディアがそう思うのも無理はない。大体、利き手でない手で字を書くだけでも普通は難しい。それにも関わらず、右手で文字を書きながら左手で母語とは違う言語の文字を書き続ける。
こんなことは常人には不可能だ。
炎の温度をあれだけ上げるというだけでも難しいはずだ。しかしシシィは涼しい顔でやってのけている。自分もどうにか似たようなことはできた。しかし、シシィのように安定はしない。
文字で言うなら、ところどころで書き間違えたり、手が止まったりするようなものだ。普通はそうなるはずだ。しかし、シシィはまったく間違えない。
まるでそうなることが初めから決まっていたかのように続けている。
「あのような真似は妾には難しい。しかし、妾も天才。ここで諦めてはならんと踏ん張ったのじゃ」
「えらいわね」
「今は及ばずとも、いずれはシシィにも追いつけるはずと思っておったのじゃ」
「追いつけるんじゃないの? ソフィも凄いんでしょ」
「うむ……、しかし。妾はさすがに一時間もあのような炎を出し続けられなかったのじゃ」
途中から炎が暴れだした。空気を操ることができなくなり、高温の炎に外の空気が流入しだした。その途端に炎が暴れだし、四方八方に火の粉を散らす。炎の形は保てず、真っ黒な煙が吹き出し、ついには力尽きた。
リディアはうんうんと頷いている。
「ま、仕方ないわ。これから練習して上達すればいいのよ」
あっさりとした調子でリディアが言う。その言葉は間違っていない。
「そこまであれば妾もまだ頑張ろうと思ったかもしれんのじゃ。しかし、シシィはとんでもないことをしおった」
「なによ?」
「妾がついに力尽きたことで、妾の分の焼き物に火が入らなくなったのじゃ。シシィはそれを見て、なんともうひとつ炎を出しおった」
これには呆気に取られた。自分では結局制御しきれなかった魔法を、シシィは何事もなくもうひとつ作り出したのだ。
そこで気づいた。あれはシシィにとっては全力などではなかった。凄いところを見せると言っていたから、あれはシシィにとっても難しいことに違いないと思っていた。
しかし、シシィは事も無げにもうひとつ炎の玉を作り出し、力尽きた自分の後を引き継いだ。
もはや理解が及ばなかった。自分とシシィの間にある差は、もはや測れないほどに大きい。
「妾があれだけ苦労したことを、シシィはあっさりと」
両手で字を書き続けるような精密さが要求される。シシィはそれを長時間続けた。自分ではそのように精密な魔力の操作をするのは不可能だった。
炎の形や温度が安定しなかった。最終的にもはや頭が割れそうなほど神経が磨り減り、それ以上は炎を保てなくなったのだ。
「もはや妾の誇りはボロボロ。打ちのめされたのじゃ」
「ふーん、大変ねぇ」
まったく心のこもってない言葉だった。確かにリディアは魔法使いではないからよくわからないかもしれない。しかし、そこで少しくらい慰めの言葉があってもいいはずだ。
「しかも、シシィはさらにとんでもないことをしおった」
「まだあるの?」
「うむ、炎が熱かったせいか、シシィは上に着ていたローブなどを脱いだのじゃ。薄着になったかと思えば、今度は風の魔法を使って自分の体を冷やしにかかったのじゃ」
「余裕ねぇ」
「しかも薄着になってそんな風を当てておるから、横から見ておるとシシィの巨大な乳がユッサユッサと揺れておるのが目に入ったのじゃ。妾がこれから成長したとしても、あんなに大きくはならんのじゃ」
「でしょうね」
「あっさり頷くでない!」
まだ成長の余地はある。
「ともかく、今日はシシィに凄いところをまざまざと見せつけられたのじゃ」
「ふーん。でもソフィに凄いところ見せて尊敬させようとして意味あるの?」
「無さそうなのじゃ」
自分にとってシシィは尊敬できる先生でもあるかもしれない。しかし、それ以上に、一緒に暮らしている家族であって、尊敬や憧れだけで繋がっているわけではない。
リディアは袋に仕舞った剣を肩に担いだ。それからシシィのほうへ向かって歩いていく。
まだ昼を少し過ぎた頃だが、太陽は随分と傾いていた。影も本体より長く伸びている。そろそろ帰り支度をしたほうがいいだろう。
リディアの後ろを歩いてシシィのほうへと向かう。シシィは杖を持ったまま立っている。薄着になっているせいで、見ているとこちらまで寒くなってくる。しかしシシィが寒さを感じているようには見えなかった。
リディアは歩きながらシシィに声をかけた。
「シシィ、それまだ時間かかるの?」
「……もう少し」
「ふーん、何焼いてるのよ」
リディアが火の魔法を見ながら目を細めた。リディアほど視力の良いものでも、さすがに炎の中を見通すことはできないようだ。まるで熔けた夕日のように丸い炎塊の中で、陶器がその形を揺らしている。
リディアの質問でようやく気づいた。
「そういえば妾も何を焼いておるのか知らんのじゃ。食器にしては変な形をしておるし、食器などわざわざ作って何がしたのじゃ?」
「これは、鶏のエサを入れるためのもの」
「なんと! そんなもののために妾はあんな苦労を!」
大体、鶏のエサを入れるものなら他にいくらでもあるだろう。わざわざこんな森の中に来て陶器を焼くようなことをしなくてもよかったはずだ。
シシィは一度トンガリ帽子を持ち上げてから被りなおした。どうやら少し汗をかいているらしい。
「これは練習、本当に必要なものはまた今度作る。それと、この形は鶏のエサのついばみ方に合わせて作ってある。鶏は首を動かしながらエサを食べるから、普通の器を使うとエサが散らばる。これはそれを避けるために両側をやや高くして、薬研のような形にしてある」
「やげん? なんじゃそれは」
聞いたことが無い単語だった。シシィが説明しようとした時、リディアが口を開く。
「つまり船みたいな形ってことでしょ」
「そうとも言う」
シシィには悪いが、リディアの例えのほうが簡潔で要点を捉えているような気がした。
もっとも、薬研というものを知っていればまた違う感想を持ったかもしれない。
そこで妙なことに気づいた。
「うむ? なんじゃ、今は火の玉はひとつしか出しておらんのじゃ」
シシィは自分が焼いていた陶器の分も引き受けたはずだ。だから火球は本来二つなければいけない。しかし、今は橙色に輝く火球はひとつだけだった。
さすがのシシィといえども、さすがにあれを維持するのは不可能だったに違いない。
シシィも人の子ということだろう。
シシィは杖を持っていない左手で地面を指差した。
「ソフィの分は爆発した」
「なんと?!」
シシィが指差した先には、破裂したと思しき陶器があった。
「おそらく土の練りが甘くて空気が入っていたか、もしくは余計なものが混入していたか」
「な、なんと……」
よくわからないが、自分が頑張って作ったほうは破裂してしまったらしい。
あれだけ苦労したというのに、残念な結果に終わってしまった。いや、苦労するほど難しいから失敗して当然だったのかもしれない。
リディアはこちらの動揺などまったく意に介した様子もない。
「で、シシィ、それはいつ終わるの?」
「もう少し。今はもう温度を下げている段階。もういいかもしれない」
そう言うとシシィは火球を消した。それと同時に周囲の土が盛り上がり、シシィが焼いていた陶器をすっぽりと覆ってしまった。火の属性の魔法のみならず土の属性の魔法もこれだけ使いこなせるのだからすさまじい。
さすがリディアと共に闘ってきた猛者だけはある。
シシィは一度帽子を被り直した後で、持ってきていたローブを着込んだ。まだ熱いのか、前は開けたままにしている。
それを見て、リディアが頷く。
「さて、そろそろ帰りましょ」
すでに影の長さは身長をも超えて遠くへと伸びている。まだ日が沈むまで時間はあるが、森の中を通るのなら早いに越したことはないだろう。
リディアの意見にシシィが首を振った。
「まだすべきことがある」
「何するのよ?」
「ソフィにわたしの凄いところを見せる。つまり、わたしにとっても難しい魔法を実際に使って見せようと思っている」
シシィは事も無げにそう言って豊かすぎる胸を張った。その言葉をそのまま受け取るのであれば、つまり、シシィはさきほどあれだけ高度な魔法を使っていたが、それは別に凄いところを見せようとしていたわけではなく、シシィにとっては普通のことだったということになる。
あんなものはただの野暮用であって、それが終わったのでこれから凄いところを見せようと考えているわけだ。
血の気が引くような思いになってしゃがみこんだ。
「あっ、ちょっとソフィ、またダンゴムシになってるじゃないの! しっかりしなさい!」
「妾は所詮ダンゴムシなのじゃ」
「シシィ! あんたが変なこと言うからソフィがダンゴムシになっちゃったじゃないの!」
「ダンゴムシ? 何故?」
シシィはわずかに首をかしげている。
「ほらソフィ、ダンゴムシになってないでシャッキリしなさい!」
「妾は可愛いダンゴムシなのじゃ。シシィにはまったく及ばぬダンゴムシなのじゃ」
「しっかりしなさい、ほら、ダンゴムシじゃないわよ」
魔法ならシシィにもそれほど引けを取らないと思っていたが、大間違いだったようだ。
自分も優れた魔法使いだが、シシィは魔法を使うということに関して途方も無いほど先にいる。
それほど離れていないと思っていた自分が恥ずかしい。こんな自分はダンゴムシに違いない。
リディアが励ましの言葉をかけてくれているが、耳に入らない。
しばらくの間、ダンゴムシになることしかできなかった。
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