552 / 586
第二部 第三章
味見
しおりを挟む正午の影が鋭く北を指している。薄い空の下を歩いていると体温も段々と上がってきた。カールは額に浮かんだ汗を袖で拭い、それから後ろへと視線を向けた。
ソフィが何か真剣な表情をしながら歩いている。その小さな肩には束ねた枝が乗っていた。さっき林で集めてきたものだ。
こうやってソフィにも持たせるつもりはなかったのだが、ソフィも持つと言い出したのでこうなった。おかげで沢山の枝を一度に運べることになったが、それでも垣根を作るにはまだまだ足りないかもしれない。
空気は冷たくて気持ちよい。もう少し肌に直接触れさせてやりたかったが、ソフィの前でそういう姿を見せるべきではないだろう。
アデルの家の前まで到着すると、ソフィは背負っていた粗朶を放り投げた。疲れているからか、庭の長椅子に腰掛けて一息ついている。
自分も粗朶を肩から降ろした。この量ではまだまだ広い囲いを作ることはできないだろう。
大事にしていた鶏をアデルが引き受けてくれることになった。もうこれ以上生きていけないはずの家畜を、アデルはなんの利益も無いのに育ててくれることになったのだ。
アデルがそこまでしてくれたのは、きっと自分に同情したからだろう。その上、アデルは鶏のためにわざわざ小屋まで作ってくれると言う。
本当にありがたいことだった。自分のためにそこまでしてくれたのだから、自分もアデルの力にならなければいけない。もちろん、アデルは人格者だから見返りなどは求めていないだろう。
それに、今の自分ではアデルの力になることはできない。まだ力も弱く、頭も良いわけでもない。ただ、いつまでもそんな自分でいてはいけない。もっと仕事を覚えて、アデルの役に立てるようになるのだ。
そんなことを考えていると、蔵のほうからアデルが歩いてくるのが見えた。アデルは片手を上げると、爽やかな笑みを見せた。
「おお、二人ともお疲れさん。うむ、いい感じに枝を拾ってきてくれたようじゃな」
「でもまだまだ量が足りないから。少し休んですぐに」
「いやいや、そう焦るでない。まずは昼食にしようと話しておってな。カールも食べてゆくとよい」
「え? でも、もっと枝を拾わないと」
「ハッハッハ、そんなに急いでも仕方あるまい。それに、わしも腹が、いやお腹が空いたでのう。カールも手伝ってくれんか」
「うん、手伝うよ」
アデルが手伝いを求めているのなら、手伝わない理由はない。自分も料理のお手伝いなら時々やっているから、アデルの力になれるだろう。
他のことならともかく、ここならアデルにも頼られるくらいのことはできるかもしれない。
そう思って一人でほくそ笑んでいた時、すぐ隣にソフィが立っているのが視界の端に入った。
「うわっ!」
急に隣に立たれて驚いた。ソフィはじとーっとした目でこちらを見ている。一体どうしてそんな顔をしているのかはよくわからない。
ソフィは呆れているのか、温度の低い声で言う。
「カールよ、そこまで張り切らんでよいのじゃ」
「え? そ、そうかな。でもやっぱり役に立ちたいし」
「殊勝な心がけなのじゃ。しかし、調子に乗るでない」
「え?」
何を言っているのかよくわからない。ソフィは言うことは言ったとばかりに家の中へと引っ込んでしまった。
その後を追おうとしたところで、アデルに肩を掴まれた。
「カール、先に枝をこっちに運んでくれんか」
「あ、うん」
確かに庭に放りっぱなしはよくなかった。アデルに言われた場所に枝を運ぶ。どうやらアデルはこのあたりに鶏小屋を建てるつもりらしい。
小屋作りは順調なのだろうか。さすがのアデルでも鶏小屋を一日で建てるのは難しいかもしれない。そうなると明日も手伝いに来たほうがいいだろう。
フライパンの中でベーコンが脂汗を流していた。パチパチと小さな音を立てながら気泡が弾ける。ベーコンはじっくりと弱火で炒められ、身は段々と固くなってきているようだった。
その表面は少しずつ暗い色へと転じ、弾力も少しずつ失われている。
アデルは短冊に切ったベーコンを木べらで動かした後、頷いた。
「うむ、良い感じじゃ。見ろカール、これぐらいまでしっかり火を入れたほうがよい」
「うん」
アデルの隣に立ってフライパンの中身を覗き込む。料理の手伝いを申し出たのだが、手伝いというよりはアデルの教えを受けているような状況になった。一方、後ろでは美女三人が小麦粉と芋を練って団子を作っている。
手伝いというのはああいうのを指すのではないかと思えた。
「さてカール、ここで一旦ベーコンを取り出す。その皿を取ってくれ」
「うん」
言われた通りに皿を渡すと、アデルは炒めたばかりのベーコンを皿へと移した。ベーコンの表面はまだ泡立っている。
「よい薫香じゃ。ベーコンもやはりカリカリしたところを作らねば楽しくないでのう。このぐらいがわしの好みじゃ」
「そうなんだ」
アデルは再びフライパンを火にかけた。中にはもう脂しか入っていないのにどうしてそんなことをするのだろう。
そう思っていると、アデルが言った。
「カール、少々離れたほうがよい。わし、今からワインを入れるでの」
「ワイン?」
「うむ、ほれ、このフライパンの底、焦げ付いておるじゃろ?」
「うん」
「この焦げ付きがうま、……いや、この焦げ付きが旨味でな。美味しいところなわけじゃ。で、この焦げ付きを落とすためにワインを注ぐっと」
そう言いながらアデルはフライパンの上にワインを注いだ。その瞬間に激しく水分が爆ぜた。これが危ないから離れてくれと言ったのだろう。そう思った時、フライパンが激しく燃え上がった。
「わわっ!」
「ハハハ、そこまで怖がらんでもよかろう」
「べ、別に怖がってないよ」
そう強がった。アデルはそれ以上からかうつもりはないらしく、さらに説明を続けた。
「ワインというものには酒精というものが入っておってな、それはこうやって熱くすると飛ばすことができる。今のでワインの酒精を飛ばしたわけじゃが、酒精というものはよく燃えるでな。今のように火が立つ。別に火を出さねばならんというわけではないが、こっちのほうが早いし香りも立つでな」
アデルはそう言ってから木製のスプーンを手に取った。フライパンの火はすでに消えて、中にはベーコンの脂とワインの混ざった液体が残っている。
アデルはスプーンでその液体を少量掬った。それからそのスプーンの先をこちらの顔のほうへと持ってくる。
「まぁ言葉で言ってもわからんじゃろ。ほれ、まずは味見じゃ」
「うん」
確かに言葉だけでは伝わらない。百回聞くよりも一度味見をしたほうがいいはずだ。
そう思って少しばかり首を伸ばした瞬間、アデルと自分の間にぬっとソフィの顔が現れた。
「うわっ?!」
急に現れたソフィに驚いて、ついのけぞってしまう。しかしソフィは何食わぬ顔でスプーンに食いついた。スプーンに乗っていた液体を口に含み、何度か唇を動かす。
「うむ、塩っけが足らんのじゃ」
「いやソフィ、この段階で味を決めるようなことをしては後で困るでな。今はまず焦げをワインで落としたことで生まれる味の複雑さを見ねば」
「複雑? なんじゃ、味が複雑とか言われてもわからんのじゃ」
「まぁそうかもしれん。しかしこういう複雑さが味に深みを出すわけで、それが料理をさらに美味しくするわけじゃ」
「ふむ、よくわからんがアデルがそう言うのであればそうなのじゃろう」
ソフィは頷いた後、こちらに目を向けてきた。
「これカールよ、何を驚いておるのじゃ」
「そ、そういうわけじゃないけど」
いや、ソフィの顔がぬっと現れて驚いたのは事実だった。あんな近い場所にソフィの顔があったら驚かずにはいられない。
対してソフィには特に動揺した様子もなかった。
「カールよ、味見がしたければ妾が手伝ってやるのじゃ」
「ええ?!」
ソフィはスプーンをフライパンの中に突っ込み、中に入っていた液体をすくい上げた。それからそのスプーンの先をこちらの顔の前へと持ってくる。
そのスプーンを見つめて固まってしまう。なぜなら、そのスプーンはさっきソフィが思い切り口に含んだもので、きっとソフィの唾液がついていることだろう。自分がそのスプーンに口をつけたなら、当然ながらソフィの唾液も自分の口の中に入ってくる。
それが嫌なわけではない。むしろ嬉しいというか、是非ともそうしたいと思う。ただ、ソフィの目の前でそんなことをすれば、ソフィはどう思うのだろう。
そもそもソフィは自身が口をつけたスプーンをこちらの口に突っ込んでもなんとも思わないのだろうか。
どうすればいいのだろう。ソフィがこうやって差し出しているのだから、言われた通りにしたほうがいいのだろうか。しかし、自分が澄ました顔でそんなことができるとは到底思えなかった。
顔が赤くなって、うろたえてしまうことだろう。そうすればソフィに変に思われるのは確かだ。
やはりここは拒否したほうがいいのだろうか。それはそれで意識しすぎではないかと思われてしまうかもしれない。
ごくりと唾を飲み込んだ。目の前のスプーンにじっと視線を向ける。
こんな機会はもう無いかもしれない。ソフィが味見しろと言っているのだから
「そ、そんな、僕」
「なんじゃ、妾がこうやって差し出すのでは不満と言うのか」
「そういうわけじゃなくて……」
「フン、まったく困った男じゃ」
こうなったからにはそのスプーンにかぶりつくしかない。覚悟を決めた瞬間、ソフィはもう諦めたのかスプーンをすっと引いた。それからそのスプーンをアデルの口に突っ込む。
アデルは唇でスプーンを挟んだ。ソフィがスプーンの柄から手を離したが、スプーンはアデルの口から落ちることはない。
「なんじゃその顔は」
ソフィが目を細めている。今の自分はどんな顔をしていたのだろう。鏡が無いから断言はできないが、きっと残念そうな顔をしていたのだろう。
そんな顔をソフィに見せるわけにはいかない。どうにか心を落ち着けて表情を整える。
こちらの様子を見て、ソフィがじとーっとした視線を向けた。
「ちょっとソフィ、遊んでないで手伝いなさい」
「別に遊んでおらん。妾は味見をしておったのじゃ」
「はいはい、後で味見すればいいでしょ。ソフィもお団子作るの手伝うの。ただでさえソフィの作ったのは大きさがバラバラで全然ダメなんだから、練習しないと」
テーブルの上ではリディアが小麦粉と芋とチーズを混ぜたものを団子状に丸めている。慣れているのか、団子の大きさもよく揃っていた。
その隣でシシィが指の節を使って丸い団子の中央を潰している。ああやって平たくすることで火がすぐに通るようになるのだろう。
シシィとはまったく関わりが無いので、あまり喋らない人だということくらいしかわからない。金色の髪は肩のあたりまでで止まっている。わずかに波打ったその髪に、今は小さな三編みの房が揺れていた。
白い肌は透き通るようで、唇は血色がよく、まるで子どものそれのようだ。
とても綺麗な人だと思えた。同時にまるで現実の人だと思えないほどに儚く見えてしまう。画家がシシィを描こうとすれば針先のように細い筆を使わなければいけないに違いない。
おとぎ話の中から出てきたかのような容姿は、いつまでも見ていたくなるほどだったが、さすがにジロジロと見ていては失礼だろう。
ソフィはしぶしぶといった様子で団子作りの作業に戻っていった。
「よしカール、そろそろ次の作業に移るでな」
「あ、うん」
アデルはもうこれ以上余計な時間を使うつもりはないらしい。きっとアデルの中は料理にどれだけの時間がかかるのかを計算しているのだろう。急いでいるということは少し遅れ気味なのかもしれない。
遅れの理由のひとつはこうやって自分に料理を教えていることにもあるのだろう。
足を引っ張らないようにしないといけない。そう思って気を引き締めた。
0
お気に入りに追加
253
あなたにおすすめの小説
愛されなければお飾りなの?
まるまる⭐️
恋愛
リベリアはお飾り王太子妃だ。
夫には学生時代から恋人がいた。それでも王家には私の実家の力が必要だったのだ。それなのに…。リベリアと婚姻を結ぶと直ぐ、般例を破ってまで彼女を側妃として迎え入れた。余程彼女を愛しているらしい。結婚前は2人を別れさせると約束した陛下は、私が嫁ぐとあっさりそれを認めた。親バカにも程がある。これではまるで詐欺だ。
そして、その彼が愛する側妃、ルルナレッタは伯爵令嬢。側妃どころか正妃にさえ立てる立場の彼女は今、夫の子を宿している。だから私は王宮の中では、愛する2人を引き裂いた邪魔者扱いだ。
ね? 絵に描いた様なお飾り王太子妃でしょう?
今のところは…だけどね。
結構テンプレ、設定ゆるゆるです。ん?と思う所は大きな心で受け止めて頂けると嬉しいです。
完結 お飾り正妃も都合よい側妃もお断りします!
音爽(ネソウ)
恋愛
正妃サハンナと側妃アルメス、互いに支え合い国の為に働く……なんて言うのは幻想だ。
頭の緩い正妃は遊び惚け、側妃にばかりしわ寄せがくる。
都合良く働くだけの側妃は疑問をもちはじめた、だがやがて心労が重なり不慮の事故で儚くなった。
「ああどうして私は幸せになれなかったのだろう」
断末魔に涙した彼女は……
悪役令嬢の双子の兄、妹の婿候補に貞操を奪われる
アマネ
BL
重度のシスコンである主人公、ロジェは、日に日に美しさに磨きがかかる双子の妹の将来を案じ、いてもたってもいられなくなって勝手に妹の結婚相手を探すことにした。
高等部へ進学して半年後、目星をつけていた第二王子のシリルと、友人としていい感じに仲良くなるロジェ。
そろそろ妹とくっつけよう……と画策していた矢先、突然シリルからキスをされ、愛の告白までされてしまう。
甘い雰囲気に流され、シリルと完全に致してしまう直前、思わず逃げ出したロジェ。
シリルとの仲が気まずいまま参加した城の舞踏会では、可愛い可愛い妹が、クラスメイトの女子に“悪役令嬢“呼ばわりされている現場に遭遇する。
何事かと物陰からロジェが見守る中、妹はクラスメイトに嵌められ、大勢の目の前で悪女に仕立てあげられてしまう。
クラスメイトのあまりの手口にこの上ない怒りを覚えると同時に、ロジェは前世の記憶を思い出した。
そして、この世界が、前世でプレイしていた18禁乙女ゲームの世界であることに気付くのだった。
※R15、R18要素のある話に*を付けています。
あなた方はよく「平民のくせに」とおっしゃいますが…誰がいつ平民だと言ったのですか?
水姫
ファンタジー
頭の足りない王子とその婚約者はよく「これだから平民は…」「平民のくせに…」とおっしゃられるのですが…
私が平民だとどこで知ったのですか?
オーガ転生~疲れたおっさんが城塞都市で楽しく暮らすようです~
ユーリアル
ファンタジー
世界最強とも噂される種族、オーガ。
そんなオーガに転生した俺は……人間らしい暮らしにあこがれていた。
確かに強い種族さ! だけど寝ても覚めても獣を狩ってはそのまま食べ、
服や家なんてのもあってないような野生生活はもう嫌だ!
「人間のいる街で楽しく暮らしてやる!」
家出のように飛び出したのはいいけれど、俺はオーガ、なかなか上手く行かない。
流れ流れて暮らすうち、気が付けばおっさんオーガになっていた。
ちょこっと疲れた気持ちと体。
それでも夢はあきらめず、今日も頑張ろうと出かけたところで……獣人の姉妹を助けることになった。
1人は無防備なところのあるお嬢様っぽい子に、方や人懐っこい幼女。
別の意味でオーガと一緒にいてはいけなさそうな姉妹と出会うことで、俺の灰色の生活が色を取り戻していく。
おっさんだけどもう一度、立ち上がってもいいだろうか?
いいに決まっている! 俺の人生は俺が決めるのだ!
巻き戻り令息の脱・悪役計画
日村透
BL
※本編完結済。現在は番外後日談を連載中。
日本人男性だった『俺』は、目覚めたら赤い髪の美少年になっていた。
記憶を辿り、どうやらこれは乙女ゲームのキャラクターの子供時代だと気付く。
それも、自分が仕事で製作に関わっていたゲームの、個人的な不憫ランキングナンバー1に輝いていた悪役令息オルフェオ=ロッソだ。
しかしこの悪役、本当に悪だったのか? なんか違わない?
巻き戻って明らかになる真実に『俺』は激怒する。
表に出なかった裏設定の記憶を駆使し、ヒロインと元凶から何もかもを奪うべく、生まれ変わったオルフェオの脱・悪役計画が始まった。
モブ兄に転生した俺、弟の身代わりになって婚約破棄される予定です
深凪雪花
BL
テンプレBL小説のヒロイン♂の兄に異世界転生した主人公セラフィル。可愛い弟がバカ王太子タクトスに傷物にされる上、身に覚えのない罪で婚約破棄される未来が許せず、先にタクトスの婚約者になって代わりに婚約破棄される役どころを演じ、弟を守ることを決める。
どうにか婚約に持ち込み、あとは婚約破棄される時を待つだけ、だったはずなのだが……え、いつ婚約破棄してくれるんですか?
※★は性描写あり。
俺の異世界先は激重魔導騎士の懐の中
油淋丼
BL
少女漫画のような人生を送っていたクラスメイトがある日突然命を落とした。
背景の一部のようなモブは、卒業式の前日に事故に遭った。
魔王候補の一人として無能力のまま召喚され、魔物達に混じりこっそりと元の世界に戻る方法を探す。
魔物の脅威である魔導騎士は、不思議と初対面のようには感じなかった。
少女漫画のようなヒーローが本当に好きだったのは、モブ君だった。
異世界に転生したヒーローは、前世も含めて長年片思いをして愛が激重に変化した。
今度こそ必ず捕らえて囲って愛す事を誓います。
激重愛魔導最強転生騎士×魔王候補無能力転移モブ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる