540 / 586
第二部 第三章
丹羽
しおりを挟む昼前の青白い空を速足で進み、アデルはカールの家へと向かった。そこでは多くの鶏が飼育されていて、この村や町に卵を提供している。
卵というものは必ず売れるし保存も利くので、鶏を飼育することはかなり多くの利点があった。
「わしの家でも鶏を飼おうかのう……」
足早に進みながらそんなことを考える。以前の自分は独り身だったし、独り身ゆえの身軽さで時折遠くへ仕事に出かけることも多かった。
そんな生活だから、家畜を飼うことはできずにいた。しかし今は違う。今なら家畜を飼っても問題はないだろう。
家族が増えてから何度か考えたが、これからもう少し真剣に考えたほうがいいかもしれない。
「ヤギも良いのう」
ヤギは飼いやすい上に乳も出る。しかも牛や馬と違ってそれほど多くのエサもいらないのだ。
牛一頭を養うエサでヤギなら七頭は養える。
「綿羊も良い気がするのう」
羊はやはりその毛が高く売れる。しかしもう少し乾いた土地でないと飼うのは難しいかもしれない。近くに羊を多く飼う村があるが、そこはやや標高が高く、気候がこの辺りよりも冷涼だ。
「うーむ、いや、やはり鶏かのう……」
色々と考えが浮ぶ。まずは数羽から初めて、慣れてきたら増やしていけばいいだろう。しかし、今の自分には鶏の飼育に関する知識が足りない。
そのあたりはこれから蓄えていけばいいだろう。
カールの家の前についたところで、ちょうどカールの父親の姿が目に入った。カールの父親はもうそろそろ四十に達しようという男だ。カールの父だけあって整った顔をしているが、顎を完全に覆う髭のせいで涼しげな輪郭が隠されてしまっている。
髭の色は収穫を迎えた麦のような薄い金色だった。今は庭先で腰をかがめて何かをしている。
中年ではあったが、その腹周りには脂肪は溜まっていない。どういうわけか昔からすっきりした体型を保っている。
彼の名前はグスタフと言う。
グスタフがいるのならちょうどいい。彼と交渉して鶏を売ってもらおう。
「こんにちはグスタフさん、ちょっといいかのう」
そう声をかけたところでグスタフがこちらに顔を向けた。整った顔立ちの中で、一際目を引くのが美しい青の瞳だった。結構な歳に達しているが、グスタフの顔にはまだ目だった皺が無い。
グスタフは片手を上げた。
「ああ、アデルか。こんにちは、どうしたんだ」
「実は頼みがあってのう。鶏を一羽売ってくれんか?」
「……そうか、アデル、ちょっとこっちで話そう」
「は?」
グスタフは何らかの作業を切り上げ、両手をパンパンと叩いた。それから家の裏のほうへ向かって歩き出す。グスタフはついて来いとは言っていないが、こっちが後に続くだろうと確信しているようだ。
グスタフが歩いていったほうへ自分も向かう。どこへ行くのかと思えば、家の裏手にある鶏小屋だった。
飼われている鶏は小屋から出て庭を歩き回っている。庭は垣でしっかりと囲まれていて、鶏が外へと逃げ出さないようになっていた。
多くの鶏たちがコッコッコと鳴いている。殆どの鶏は茶色で、人間の頭よりも大きい体をしていた。鶏たちはエサを啄ばんだり歩き回ったり、思い思いに過ごしている。
庭の一角には子どもの膝の高さほどの小山があった。その上に一際大きな鶏が立っている。
ああいう小山には何か意味があるのだろうか。
「グスタフさん、それでなんじゃ、どれを選んでもよいのか?」
「まぁ待てアデル、焦るな。ちょっと話でもしようじゃないか」
「ふむ、そうじゃな、グスタフさんと話すのも久しぶりじゃしのう」
正直なところ、早く鶏を手に入れて調理に取り掛かりたかった。何せガラを煮込むとなればそれなりに時間がかかる。それに鶏を絞めるのも解体するのも同じく時間のかかることだ。
しかし、グスタフは何かを話したいようだ。グスタフはそれほどお喋りな男ではない。人といても黙っていることが多い。しかし喋らないというわけでもないのだ。
向こうから何か言い出すかと思ったが、グスタフは押し黙っている。
話したいことがあるようだが、切り出しにくいようだ。こういう時は自分が何か適当に話してやったほうがいいだろう。
「鶏は良いのう……。実はわしも鶏を飼おうかどうか考えておってな、鶏を飼うのは難しいかのう?」
そう尋ねるとグスタフは自身のヒゲを撫でた。顔立ちのせいでヒゲがまったく似合わない。グスタフは鼻から長く息を吐いた。
「それほど難しくはない。まぁ過ごしやすいように気を使ってやったり、習性を考えてやったりしなきゃいけないが」
「ほう」
「そうだな、鶏ってのは実に非道徳的なことに、一羽のオスが何羽ものメスを囲うのが普通だな」
そう言いながらグスタフがこっちに視線を寄越す。
「ハハハ、けしからん話じゃのう。しかしまぁ動物の世界にはよくあることじゃ」
「フッ、そうだな。まぁともかく、鳥のオスというのは気性が荒くてな、他のオスと喧嘩をして序列を決める。メスも同じように序列を決める。エサを食べる順番だとか、鳴く順番だとか、そんなものも序列に従ってやってる」
「ほう……」
そういえばカールが似たようなことを言っていた。なんでも、一日の最初に鳴くオスはいつも決まっているらしい。
雄鶏の気性が荒いというのもどこかで聞いたことがあった。確か、雄鶏同士を戦わせる競技があるのだという。
「そうじゃ、闘鶏と言ったか。なんじゃ、鶏というのは平和そうにしておるが意外と好戦的なんじゃのう」
「そうだな、そうやって一番強いオスを決めて、そのオスが何羽ものメスを独占するわけだ。まったく、とんでもない話だよなアデル」
「ハッハッハ、いやまったくじゃな」
「とはいえ、群れの頭になった雄鶏もメスを守るために戦ったりはする。例えば蛇が入ってきたとかな」
「ほう、なんじゃ仲間思いじゃのう」
「もしかしたら性欲のせいかもしれない。何羽ものメスを囲っている不道徳な奴だからな。実によくないことだと思うだろアデル」
「ハッハッハ、いやまったく」
「まぁ冗談はともかく、人間の都合としてはそうやって一羽のオスが何羽ものメスを独占するのは悪い話じゃない。なにせ飼うオスの数を減らせる。オスは卵を産まないからな、無駄に飼育すればエサ代がもったいない。そういうわけで、序列の低いオスの鶏は若いうちに肉として処分するわけだ」
「不憫なことじゃのう」
鶏というものは歳を取れば肉が硬くなって、まともに食べられなくなる。そういうわけで、肉用の鶏というのは若鶏が主流だ。それは当然ながら、卵を産まないオスが圧倒的に多い。
メスの相手は出来ない上に若いうちに殺されるのだから、雄鶏というのは不憫極まりない。
グスタフはヒゲを撫でながら鶏たちを端から眺めた。
「とはいえ、一羽のオスだけにメスを独占させ続けるのもよくない。いつかオスを入れ替えないとな」
おそらく近親相姦のことを言っているのだろう。オスを減らしすぎるとそれはそれで不慮の事態に対応できなるわけだ。
「今の闘鶏はただ鶏を戦わせて賭けたりするものだが、昔は多分生き残らせる強いオスをそれで決めてたんだろうな。色んな養鶏者が鶏を持ち寄って、そこで雄鶏を交換したりして強い鶏を残そうとしてたんだろう」
「鶏も大変じゃのう」
暢気にコッコと鳴いているだけに見えるが、人間の都合でいいように振り回されているわけだ。
グスタフは溜め息を吐いた。
「それで、ちょうどこの時期に鶏を入れ替えるわけだ。雌鳥も冬は卵を産まないから、歳を取ってもう沢山卵を産めない雌鳥は冬が来る前に売るなり潰すなりする」
「ふむ、来年卵を産まない雌鳥にエサをやってもあまり意味が無いからのう」
「ああ、そういうわけで、この時期は櫛の歯が抜けるように鶏が抜けていく」
「まぁよいではないか、卵を産めぬ雌鳥など大した値段にはならんかもしれんが、売れんよりはマシじゃろ」
「そうだな……」
グスタフは再び鶏に目を向けた。鶏たちは暢気に首を振って歩き回ったり、エサを啄ばんだり、砂浴びをしたりと気ままに過ごしている。
その時、小山の上にいた一羽の雄鶏が一際大きな声で鳴いた。その声の大きさも長さも立派なもので、村中に響き渡るのではないかと思うほどだった。
グスタフは一度帽子を被りなおし、溜め息を吐いた。
「俺は結婚するのが遅くてな、それでようやく結婚したものの、なかなか子どもが生まれなかった」
「それは知らんかったが」
いきなりそんな話をされても戸惑うだけだ。鶏を買いに来て鶏の話をするのならまだ理解はできるが、グスタフの人生について話されてもどうしていいのかわからない。
「子どもが出来なくて、何度も教会に行って祈って、よくわからない祈祷師に金を払ったり、よくわからない薬を買ったり、そんなことを繰り返したよ。そして、祈りが通じたのかようやく授かった子がカールだ。ただ産まれてくれただけでも奇跡のようだったのに、カールはとても良い子に育ってくれた」
「そうじゃのう、優しくまっすぐじゃし、実に素晴らしい」
「ああ、本当に優しい子に育ってくれた。きっと神様は俺たち夫婦に試練を与えた代わりにカールのような子を授けてくれたんだろう。その後は子に恵まれなかったが、それでも構わないと思っている」
グスタフは本気でそう思っているのだろう。抑制の効いた声には深みがあり、その言葉に偽りが無いことを如実に匂わせている。そもそもグスタフが他人を騙しただとか傷つけたという話は聞いたことがない。
こうやってカールを褒め称えているが、そのカールを育てたのもグスタフなのだ。
「そうやって優しい子に育ってくれた。そしてよく鶏の面倒を見てくれている」
グスタフは一度目頭を揉んで目を瞬かせた。
それから軽く首を振り、話を続ける。
「だからだろうな、どうも鶏に愛情を持ちすぎてる。あの一番大きなオス、あれはヒナから孵してもう五年ほど経つ。まだ小さいカールがヒナから面倒を見てきたオスだ。それはもう大事にしてたよ」
「ほう」
「だが……、鶏は愛玩動物ではなく、家畜だ。いずれ手放さなければいけない」
「……まぁそうじゃな」
「あのオスは強く、群れの頭だった。毎朝最初に鳴き声を上げて、うちの家族を起こしてくれた。だが、もう老いた。見えるか? あいつの尾のほう、少し羽毛が抜け落ちているだろ?」
「ふむ……、ああ、そうじゃのう」
確かに立派な尾羽の下あたりを見ると、そこだけ羽が抜けて肌が見えていた。
もしかすると病気なのだろうか。
グスタフは首を振った。
「病気だと思ってるかもしれないが、違う。あれは他の鶏に突かれた跡だ。鶏は染みを突く習性があるらしくてな、相手がなんであれ斑点をエサだと思って突いてしまう。その結果があれだ。普通のオスならすぐ反撃して身を守るが、もう歳だからな。一旦ああやって禿げてしまうと、また突かれる。その繰り返しで、最後には尻の穴から内臓が飛び出るまで突かれる」
「な、なんじゃそれは……」
思っていたよりも凄惨な話だった。
0
お気に入りに追加
253
あなたにおすすめの小説
愛されなければお飾りなの?
まるまる⭐️
恋愛
リベリアはお飾り王太子妃だ。
夫には学生時代から恋人がいた。それでも王家には私の実家の力が必要だったのだ。それなのに…。リベリアと婚姻を結ぶと直ぐ、般例を破ってまで彼女を側妃として迎え入れた。余程彼女を愛しているらしい。結婚前は2人を別れさせると約束した陛下は、私が嫁ぐとあっさりそれを認めた。親バカにも程がある。これではまるで詐欺だ。
そして、その彼が愛する側妃、ルルナレッタは伯爵令嬢。側妃どころか正妃にさえ立てる立場の彼女は今、夫の子を宿している。だから私は王宮の中では、愛する2人を引き裂いた邪魔者扱いだ。
ね? 絵に描いた様なお飾り王太子妃でしょう?
今のところは…だけどね。
結構テンプレ、設定ゆるゆるです。ん?と思う所は大きな心で受け止めて頂けると嬉しいです。
完結 お飾り正妃も都合よい側妃もお断りします!
音爽(ネソウ)
恋愛
正妃サハンナと側妃アルメス、互いに支え合い国の為に働く……なんて言うのは幻想だ。
頭の緩い正妃は遊び惚け、側妃にばかりしわ寄せがくる。
都合良く働くだけの側妃は疑問をもちはじめた、だがやがて心労が重なり不慮の事故で儚くなった。
「ああどうして私は幸せになれなかったのだろう」
断末魔に涙した彼女は……
悪役令嬢の双子の兄、妹の婿候補に貞操を奪われる
アマネ
BL
重度のシスコンである主人公、ロジェは、日に日に美しさに磨きがかかる双子の妹の将来を案じ、いてもたってもいられなくなって勝手に妹の結婚相手を探すことにした。
高等部へ進学して半年後、目星をつけていた第二王子のシリルと、友人としていい感じに仲良くなるロジェ。
そろそろ妹とくっつけよう……と画策していた矢先、突然シリルからキスをされ、愛の告白までされてしまう。
甘い雰囲気に流され、シリルと完全に致してしまう直前、思わず逃げ出したロジェ。
シリルとの仲が気まずいまま参加した城の舞踏会では、可愛い可愛い妹が、クラスメイトの女子に“悪役令嬢“呼ばわりされている現場に遭遇する。
何事かと物陰からロジェが見守る中、妹はクラスメイトに嵌められ、大勢の目の前で悪女に仕立てあげられてしまう。
クラスメイトのあまりの手口にこの上ない怒りを覚えると同時に、ロジェは前世の記憶を思い出した。
そして、この世界が、前世でプレイしていた18禁乙女ゲームの世界であることに気付くのだった。
※R15、R18要素のある話に*を付けています。
あなた方はよく「平民のくせに」とおっしゃいますが…誰がいつ平民だと言ったのですか?
水姫
ファンタジー
頭の足りない王子とその婚約者はよく「これだから平民は…」「平民のくせに…」とおっしゃられるのですが…
私が平民だとどこで知ったのですか?
オーガ転生~疲れたおっさんが城塞都市で楽しく暮らすようです~
ユーリアル
ファンタジー
世界最強とも噂される種族、オーガ。
そんなオーガに転生した俺は……人間らしい暮らしにあこがれていた。
確かに強い種族さ! だけど寝ても覚めても獣を狩ってはそのまま食べ、
服や家なんてのもあってないような野生生活はもう嫌だ!
「人間のいる街で楽しく暮らしてやる!」
家出のように飛び出したのはいいけれど、俺はオーガ、なかなか上手く行かない。
流れ流れて暮らすうち、気が付けばおっさんオーガになっていた。
ちょこっと疲れた気持ちと体。
それでも夢はあきらめず、今日も頑張ろうと出かけたところで……獣人の姉妹を助けることになった。
1人は無防備なところのあるお嬢様っぽい子に、方や人懐っこい幼女。
別の意味でオーガと一緒にいてはいけなさそうな姉妹と出会うことで、俺の灰色の生活が色を取り戻していく。
おっさんだけどもう一度、立ち上がってもいいだろうか?
いいに決まっている! 俺の人生は俺が決めるのだ!
巻き戻り令息の脱・悪役計画
日村透
BL
※本編完結済。現在は番外後日談を連載中。
日本人男性だった『俺』は、目覚めたら赤い髪の美少年になっていた。
記憶を辿り、どうやらこれは乙女ゲームのキャラクターの子供時代だと気付く。
それも、自分が仕事で製作に関わっていたゲームの、個人的な不憫ランキングナンバー1に輝いていた悪役令息オルフェオ=ロッソだ。
しかしこの悪役、本当に悪だったのか? なんか違わない?
巻き戻って明らかになる真実に『俺』は激怒する。
表に出なかった裏設定の記憶を駆使し、ヒロインと元凶から何もかもを奪うべく、生まれ変わったオルフェオの脱・悪役計画が始まった。
モブ兄に転生した俺、弟の身代わりになって婚約破棄される予定です
深凪雪花
BL
テンプレBL小説のヒロイン♂の兄に異世界転生した主人公セラフィル。可愛い弟がバカ王太子タクトスに傷物にされる上、身に覚えのない罪で婚約破棄される未来が許せず、先にタクトスの婚約者になって代わりに婚約破棄される役どころを演じ、弟を守ることを決める。
どうにか婚約に持ち込み、あとは婚約破棄される時を待つだけ、だったはずなのだが……え、いつ婚約破棄してくれるんですか?
※★は性描写あり。
俺の異世界先は激重魔導騎士の懐の中
油淋丼
BL
少女漫画のような人生を送っていたクラスメイトがある日突然命を落とした。
背景の一部のようなモブは、卒業式の前日に事故に遭った。
魔王候補の一人として無能力のまま召喚され、魔物達に混じりこっそりと元の世界に戻る方法を探す。
魔物の脅威である魔導騎士は、不思議と初対面のようには感じなかった。
少女漫画のようなヒーローが本当に好きだったのは、モブ君だった。
異世界に転生したヒーローは、前世も含めて長年片思いをして愛が激重に変化した。
今度こそ必ず捕らえて囲って愛す事を誓います。
激重愛魔導最強転生騎士×魔王候補無能力転移モブ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる