名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

特訓

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 カールは道の上で膝をつき、両手を地面についた。そのままの体勢で動けずにいると、寒々しい空気に背筋が震えた。昼に差し掛かった頃合にも関わらず、動いていないと体が冷たく凍りつきそうだった。

 もっとも、今の気分のせいというのもあるかもしれない。



「負けた……」



 カールはそう呟いた。さっき、ソフィと駆けっこで勝負をしたのだ。自分は足が速いほうだったから、女の子のソフィに負けるとは思ってもみなかった。

 本気で走ったのに追いつけない。どれだけ強く地面を蹴っても、ソフィの揺れる三つ編みは遠くなるばかりだった。



「うう……」



 剣を振るだけでなく、普段から力を鍛えているのに、駆けっこで負けてしまった。ソフィを守るだけの強さが欲しいのに、そのソフィは自分より足が速い。

 ソフィの朗らかな笑顔が見たかったのに、さっき見たのは嘲りを含んだ高笑いだった。



「カールちゃん、諦めるのは早いわ!」

「ええっ?!」



 急に声がして辺りを見渡した。立ち上がって周囲を見ていると、木陰から一人の女性がスッと進み出てきた。その顔を見てカールはつい体を強張らせてしまう。

 木陰から出てきたのはまるで女神のように美しい女だった。紅の長い髪をなびかせ、その美しい顔には快活ささえ感じられる笑みが浮んでいる。



「リディアさん、い、いつから」



 なんでそんなところにいるんだろうと思わずにはいられなかった。

 リディアは音もなくこちらへと歩き寄ってくる。美人が近づいてくると、つい緊張してしまう。体が強張り、目が乾いてしまう。

 こんなことではいけない。



「カールちゃん、見てたわよ。ソフィと駆けっこして負けたのね」

「う……」



 どうやらさっきの勝負を見ていたらしい。そうなると、自分が負けたことも、すっ転んだことも知っているはずだ。恥ずかしくなって顔が熱くなった。

 しかしリディアは気にした様子もなく頷いた。



「まったく、ソフィったら負けたカールちゃんをあんな風に笑っちゃって、ほんと性格悪いわよね。ね、そう思うでしょ?」

「え? いや、それは」



 同意したい気持ちもあったが、同意してはいけないのだろう。負けた相手をああやってあざ笑うのはあまり性格が良いとは言えないことは確かだ。



「ソフィったら、あんな風に育ったらどんどん性格が曲がっちゃうわ。それはダメよ、あたし、調子に乗って失敗する人見たことあるもの。ああいうのはダメだわ」

「はぁ……」

「そういうわけだからカールちゃん、練習よ。あたしが走り方教えてあげるから、今度は勝ちなさい」

「え?」

「心配しなくてもいいわ。あたしね、速く走る方法を聞いたことがあるもの。カールちゃんがそれを覚えれば、ソフィなんかすぐ抜かせるわ」

「は、はぁ……」



 リディアはもう決まったとばかりに頷いている。しかし、速く走る方法を知っていると言っているが、少々信じがたかった。

 走り方なんて殆どの人が同じだろうし、それで大きく変わるとは思えない。



「あ、カールちゃん、疑ってるわね」

「いや、その」

「でも心配いらないわ、前にも教えてあげたでしょ、剣の振り方」

「それは、確かに」





 以前、麦の播種をしていた日のことだった。最後の日、自分はリディアの前で木剣の素振りをしないことにした。しかし、リディアはそれが気にかかったようだ。

 おそらくリディアはこういう暴力的な行為が嫌いだから、今日はやめておくつもりだと告げると、リディアは首を振ったのだ。

 それから、リディアは人から聞いた話だとして、剣の振り方を教えてくれた。

 人から聞いたような話が役に立つとは思えなかったが、熱心なリディアの顔を立てるつもりで取り組んでみた。そうすると以前とは比べ物にならないほど剣先が鋭い音を立てるようになったのだ。

 両手剣を使う時は左手を主体にしたほうがよいと、その時になって初めて知った。



 リディアはもう決まったとばかりに隣に並んできた。



「ほらカールちゃん、特訓よ。あたしが教えてあげるから頑張りましょ」

「え? は、はい」



 美人に微笑まれたらどんなことだって頷いてしまう。















 それからリディアの指導が始まった。リディアが言っていることは到底受け入れがたいことで、まったく効果があるとは思えなかった。



「いい、カールちゃん、速く走る時は踵を地面につけないの。足の指の付け根あたりで着地して、踵をつけず、足で地面を蹴ったりしないで跳ねるの」

「でもそんなことしたら、前に進まないんじゃ」



 人が前に進むためには地面を後ろに蹴らなければいけないはずだ。しかしリディアは首を振った。



「大丈夫、心配しなくてもいいわ。ほら、あたしが言う通りにまずは足踏み、こうよ」



 そう言ってリディアは実践してみせた。しかし、リディアはスカートを履いている。太腿が腰の高さにまで上がると、それに合わせてスカートがひらひらと舞った。

 ついにはリディアの白い太腿までもがチラチラと見えてしまう。さらにリディアの豊かな胸が上下に揺れていた。



「あわわ」



 思わずリディアから目を逸らしてしまった。



「ほら、ちゃんと見て覚えるの! 余所見してちゃダメよ!」

「で、でも……」

「こんな感じで、あんまり腰の位置が変わらないようにするの」



 リディアの言うことを聞かなければ終わらないだろう。リディアの言葉通りに動いてみる。踵を地面につけず足踏みを繰り返した。



「ダメダメ、足を開いちゃダメよ」

「え?」

「ちょっと足先が開いてるのよ。男の人ってそういう足の動かし方するけど、走る時はダメよ。ちゃんと太腿から足をまっすぐにして、膝もちゃんと前に向けないと」

「はぁ……」



 足が開いているような実感は無かった。とりあえず足を内側にしてみるが、リディアは気にいらなかったようだ。



「そうじゃないの、ここよここ、太腿の骨ってこの腰のところから伸びてるの。ここから内側に回すの」



 リディアは自身の腰の横を叩いた。そんなところを回せと言われてもどうすればいいのかよくわからない。結局、リディアが満足するまで色々と試すことになった。



「そうそう、よくなったわ。それから腕の振り方ね、肘は直角にするの。ちゃんと大きく動かすのよ」

「は、はい」



 足踏みをしているだけなのに、段々と疲れてきた。こんな調子で本当に足が速くなるのだろうか。速く走るためにはやはり足で地面を蹴る強さを上げるしかないような気がした。

 しかしリディアはこうやって熱心に教えてくれているわけで、それを無碍にするのも悪い気がしてしまう。



「うんうん、それよそれ、その動きを続けて」

「はい」



 ひたすら足踏みをしていると、リディアが後ろに回った。何をするつもりなのかと思っていると、いきなり腰を前へと押された。



「ええっ?!」



 まるで牛に体当たりされたかのように体が前へと出る。体が急に飛び出たせいで、体が仰け反った。



「そのまま足踏み!」



 リディアが後ろで声を張った。そのまま足踏みと言われて、さっきまでと同じ動作を繰り返す。すると思いがけないことが起こった。体がどんどん前に進むのだ。

 足踏みをしているだけだから、体が前に進むはずがないと思っていたが、体はまるで滑るかのように前へ前へと進んでいく。それだけではない、今までに体験したことが無いほどに速く前へ進んでいるのだ。

 地面すれすれを飛ぶ燕のように、体は地表を流れてゆく。



 しかし、すぐ体に限界が訪れた。呼吸は苦しくなり、太腿は意思から遅れてゆく。たまらなくなって速度を落とそうとしたが、なかなか遅くならない。

 四肢が吹き飛んでしまいそうな圧力の中で、どうにか速度を落とした。

 両膝に両手をついて息を吐く。



「はぁ……、はぁ……」

「そうよ、その調子よ」

「うわっ?!」



 いきなり後ろから声をかけられて、飛び上がりそうになった。今、自分は未だかつて無いほどの速さで走ったのだ。誰かがついてこれるような速さではなかった。

 しかし、リディアはすぐ後ろにいた。それは、リディアがほぼ同じ速さで走って来たからに他ならない。それにも関わらずリディアの呼吸はまったく乱れていない。



「うんうん、いい感じよカールちゃん。もしかしたらもうソフィより速いかもしれないわね」

「本当ですか!」



 さっきの速さを考えると、確かにソフィより速いかもしれない。しかし、リディアは首を振った。



「でもこれだけじゃまだまだよ。もっと練習しないと」

「はい」

「その意気よ。ところでカールちゃん、教えてあげるんだから代わりにちょっとあたしの頼みを聞いてほしいの」

「頼みですか?」

「そうそう、別に大したことじゃないから」

「えっと、何をすれば?」

「まぁそれは今度話すわ。さ、練習の続きよ」



 背中をパンと叩かれた。話を逸らされたような気がしたが、もう一度尋ねてもリディアは答えてくれないような気がした。

 一体何を頼むつもりなのだろう。もちろん、リディアの頼みなら喜んで引き受けたい。しかし、わざわざ断りを入れるということは何か大変なことなのだろうか。

 もしそうだったとしても、リディアが頼んできたら思わず頷いてしまいかねない。

 それに、こうやって教えてもらうっているのだから、もう対価を何か差し出さなければいけない状況になってしまっている気もした。

 ただ、自分に何を頼むというのだろう。自分に出来るようなことであればアデルにも出来るだろうし、わざわざ子どもに頼むようなことがあるとは思えない。

 あれこれ考えても、リディアが何を考えているのかはわからなかった。



 なんだかもやもやした感情が残ったが、今はそれを気にしている場合ではない。

 もっと速く走れるかもしれないのだ。そう思うと体が段々と熱くなってきた。









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