名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

カールの朝

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 鶏の長鳴きが朝を告げる。冷たく澄んだ空気の中、雄鶏はあらん限りの力を振り絞って声をあげていた。

 カールはその声を聞くのとほぼ同時に起き上がった。いつもこの鶏の泣き声に合わせて起きるのだ。



 起床して身支度を整えた後は、家の鶏小屋を訪れる。肌を刺すような冷たい空気に肌がピンと張り詰める。寒さで頬が紅潮し、唇から漏れ出る息は微かな白さを残して消えた。



 まずは小屋から鶏たちを出し、巣箱にあった卵を回収する。



「やった、今日は沢山ある」



 巣箱の中には今朝産まれたばかりの卵があった。まだ暖かく、白い湯気をほくほくと上げている。回収した卵の表面を気をつけながら綺麗な布で拭き取った後、鶏たちのエサを用意する。



 鶏たちにも序列があり、朝一番に鳴く雄鶏がこの中でも特別偉そうにしている。体も雌鳥たちと比べれば随分と大きく、頭の位置はカールの腿にまで達していた。



「ほら、慌てないで」



 雄鶏は催促するように短い間隔で鳴いている。エサを用意し、それから村の水場で水を汲んで新しい水を用意した。その後で鶏小屋の掃除にかかる。

 鶏小屋の底の板は横から抜くことが出来るようになっている。それを引き抜き、底に溜まった鶏糞を木べらで引っかいて落とす。



「結構溜まってきたなぁ」





 鶏の糞は肥料になる。箱に詰めておいたが、そろそろ溢れそうになっていた。先にこの鶏糞を持っていったほうがいいかもしれない。

 カールは箱を抱えてロルフの家のほうへと向かった。ロルフの家の裏手のほうでは村で使う肥料を作っている。そこへ鶏糞を入れておけば、やがて肥料になるのだ。



 あちこちの家で炊煙が上がっていた。景色は少しだけ靄がかかっていて、遠くのほうは白く霞んでいた。

 朝の爽やかな空気に、人々の暮らしの音が少しずつ混じってゆく。カールは心が弾むのを感じた。天気が良いし、こうやって一日が始まってゆく様を感じられるのは楽しい。

 それに、今日は卵が沢山あったから、お小遣いも期待できる。



 祭りまでに少しでも多くお金を貯めておきたかった。お小遣いは貰えるし、アデルもいくらか出してくれると言っていたが、やはりそれに頼らず自分の分は自分で賄いたい。

 今年の祭りはソフィと一緒に行くことになっている。ソフィを楽しませるためにはいくらかのお金が必要になるだろう。せっかく色んな出し物があったり、出店があっても、お金が無ければ十分楽しむことができない。





「よーし」



 気分が良くなると足取りも軽くなった。鶏糞の入った箱も心なしか軽く感じられる。

 今年の祭りでソフィにはいっぱい喜んでもらいたい。そうしたらきっと笑顔を見せてくれたりもするだろう。

 心の中にぼんやりとソフィの姿が浮かんだ。



 そしてソフィの笑顔を想像しようとしたが、上手く想像できない。



「あれ?」



 ソフィがたおやかに笑みを浮かべる姿を想像したかったが、ソフィのそんな姿を想像できなかった。それもそのはずだ。よくよく考えれば、ソフィがそうやって笑っている姿を今まで見たことがなかった。





「そ、そんな……。え?」



 ソフィとは一年近い付き合いがあるのに、ソフィが穏やかな笑みを浮かべているところを見たことが無い気がした。少なくとも、記憶に残るソフィは麗しい笑みを浮かべてはいない。

 そういえば、確かにソフィはそれほど笑うことが少ない気がした。別にソフィの気性が暗いというわけではない。それなりに社交的な性格をしているし、村の人たちをもよく付き合っている。

 小さな子の面倒もよく見ているし、子どもたちにも慕われている。



 だが、ソフィが普通の女の子のように笑っている姿は見たことが無い気がした。



「あれ……?」



 愕然としてしまう。今まで一年近く一緒にいたにも関わらず、今までソフィの朗らかな笑顔を見たことが無いのだ。

 こんなことに今まで気づかなかった。自分がとんでもない馬鹿になったような気がして、カールは気分がどんどん落ち込んでゆくのを感じた。



「ど、どうして」



 ソフィの性格は暗いわけではないし、生活の中に楽しみは色々あるはずだ。それなのに、ソフィは声を上げて笑ったりすることもなければ、微笑みを見せるようなこともしない。

 せいぜい、不敵に唇の端を持ち上げるくらいのものだ。





「うーん……」



 自分は見たことがないが、アデルは見たことがあるのかもしれない。ソフィだって女の子らしく普通に笑うことくらいはあるだろう。

 いつかはソフィの笑顔を見てみたい。



「そのために、やっぱりお祭りで頑張らないと」



 祭りには色々な出し物がある。珍しいものや楽しいものを見ていれば、ソフィだって笑顔を見せてくれるに違いない。



「よーし、がんばるぞ!」



 沈みかけた気分を引き戻し、カールはロルフの家の裏手へと向かった。

















 ロルフの家の裏手でロルフと出会い、挨拶を交わした後で鶏糞を引き渡した。それからロルフの家で取れた牛乳を村のあちこちに配達し、その後でバター作りを手伝った。

 家で朝食のパンとベーコンを急いで詰め込み、今度はアデルと一緒になって柵の修繕に取り掛かった。昨日の豪雨で村の中にいくらか被害が出たようだ。

 幸いなことに、家は大丈夫だったし、鶏小屋も壊れてはいなかった。



「すまんカール、そっちを押さえてくれ」

「うん」



 アデルはハシバミの枝を途中でねじり、自在に曲がるようにすると、それを編みこんでいった。ハシバミの太さは大人の親指ほどあって、長さはアデルが両腕を広げたくらいはある。

 これを縦棒に対して波のように編みこんでゆく。端を留めた後、アデルは息を吐いた。



「ふぅ、こんなもんじゃろ。さて、と、お? なんじゃロルフの奴め、馬に乗って見回りとはけしからん」



 アデルは眉をひそめて遠くへ視線を向けた。カールもその先を見る。そこではロルフが馬に乗って悠々と進んでいた。馬はゆっくりと歩いていて、その上のロルフは首をあちこちに向けている。

 何かを探しているのかもしれない。



「村の外の柵なんぞが壊れておらんか調べておるのよ」



 不思議そうにしてたのがアデルに伝わったのか、親切に説明してくれた。



「へー、馬に乗ってたらすぐだよね」

「そのはずじゃが、あの男、馬に乗るのが楽しくてわざわざゆっくりやっておる」

「そうなの?」

「うむ」



 どうしてわかるのだろうと不思議だったけれど、アデルが言うのならそうなのかもしれない。二人の付き合いは長いから、お互いのことが良くわかるのだろう。

 そういう関係は羨ましいと思えた。自分はこの村に同じくらいの年の男がいない。

 違う村に友達はいるけど、毎日のように会えるわけではない。



「ジェク、元気にしてるかなぁ」



 友達のことが脳裏に浮んだ。本格的な冬が来る前に会いに行こう。

 遠くに意識を向けていると、アデルが肩を叩いてきた。



「よし、では残りはカールにやってもらうか」

「うん」



 アデルがやっていた通りにハシバミを折ってゆく。ハシバミの枝は大人の親指ほどの太さがある。それを曲げたり捩ったりするのにはそれなりに力が要る。



「うむ、いい感じじゃ。折り返しのところは入念に柔らかくしておいたほうがいい」

「こう?」

「おお、上手いではないか。そうそう、そうやって順番にな」



 アデルに教わりながらハシバミで柵の補修をしてゆく。まだアデルのように早く進められないが、一人でもどうにかなりそうだ。



「僕ももっと色んなこと覚えないと」

「おお、いい心がけじゃのう」

「うん、鶏小屋を直したりとか、鶏が出ないように柵を作ったりとか、そういうこと出来たらって思って」

「そういえばカールは鶏の世話が得意じゃったのう。ふむ……、実はわしも鶏なり何なり飼ってみようかと思っておってな」

「そうなんだ」

「まだ決まったわけではないがのう」



 アデルが鶏のことについて訊いてきたので、自分も知っている限りのことを答えた。アデルは色々なことを知っているが、鶏の飼育についてはそれほどよく知らないようだ。

 いつもはアデルに色々教わっているが、今回ばかりはアデルに教えられる。



「それでね、一番大きな雄が一番偉くて、朝もいっつも一番先に鳴くんだよ」

「なんと、鶏が朝鳴くのにも順番があるとは」

「うん、やっぱり序列があるみたい。それで、一番大きな声で鳴くから、僕いっつもその声で起きるんだ」

「ほほう、なるほどのう」



 アデルは頷きながら顎を擦っている。



「ふむ、大きな鶏であればさぞ肉も沢山あるであろうな」

「あ……」

「ん?」



 アデルは不思議そうに少し眉を上げた。



「僕は、その……、鶏を殺すところあんまり見たくないから」

「ふむ……」



 こんなことを言うと呆れられるかもしれない。家畜は愛玩動物ではない。農家であれば当然家畜は肉として消費する。肉にするためには当然ながら家畜を殺さなければいけない。

 丹精込めて世話をした鶏も、いずれは肉に変わるのだ。

 それが当然だとはわかっている。自分だって生き物の肉を食べて生きているのだ。

 それでも、自分で世話をした鶏を自分で殺すことは出来ない。自分の心が弱いというのはよくわかっている。

 このままではよくないのも理解している。



 アデルはわずかに明るい声で言った。



「すまんすまん、変なことを訊いてしまったのう」



 変な気を使わせてしまった。アデルはこちらの心の弱さを否定しようとはしない。男のくせに女々しいとは思うが、毎日世話をしている鶏たちが血を流して死ぬところを見るのは辛い。

 いつかは慣れるのだろうか。









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