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第二部 第三章
同じ幸せ
しおりを挟む暖炉から橙色の光が飛び出て壁に大きな影を塗りつけていた。影は炎の揺らめきに合わせて形を変える。
静寂の夜は衣擦れさえもまるで騒音のように際立たせた。体が倒れる。
シシィはベッドの上に尻もちをついた。ベッドの軋む音が激しく響き渡る。
「え?」
座り込んだのはアデルの両脚の間だった。
こちらが戸惑っているうちに、アデルは両手を回してこちらの体を逃さないように抱き締めてきた。突然のことで理解が追いつかない。
立ち上がり、アデルの左側に座ろうとしたのだ。その途中で後ろから体を抱きすくめられ、ベッドの上に座り込むことになった。
アデルは口をこちらの耳に近づけ、名前を呼んだ
「シシィ」
熱っぽい声で耳たぶをくすぐられた。アデルの唇は耳朶のすぐ側で優しい音を紡ぎ、低い声で小さな耳穴震わせる。ゾクゾクと肌がざわめく。産毛が立ち上がり、肌の奥にむずがゆさが染み入った。
急にこうやって抱きすくめられ、頭が蒸されたかのように熱くなる。
しかし問題ない。もちろん、後ろから抱きすくめられた場合についても考えてある。
こういう体勢なら、アデルは両手でこちらの体をまさぐってくるわけで、何も問題は無いはずだ。しかし、よく考えればこうやって後ろから抱き締められると、キスがしにくい。
どうしようかと考えていると、アデルは力を緩めた。
「そう固くならんでくれ」
アデルはそう言ったが、自分では体に力が入っているような気はしなかった。そんなこともないだろうと思っていたが、アデルがこちらの両肩に手を置いたことでようやく理解した。
自分の両肩は随分と上がっていて、今にも耳に触れそうなほどだった。
すぐに肩の力を抜いた。何か言わなければいけない。そう思った瞬間に、アデルはこちらの両肩を揉んできた。
アデルの太くたくましい指が、柔らかな肉をもみしだく。指先が肌の奥にまで入ってくるかのようだった。背筋がピリピリと粟立つ。
こうやって肩を揉まれるのは決して不快ではなく、むしろ気持ちが良かった。
「あっ」
「どうにもいかんな、シシィを困らせてしまったようじゃ」
「……わたしは、困っていない」
「そうか、なんじゃ、良い匂いがしたでのう。つい」
どうやら香水の匂いが利いたようだ。
「都会で買ってきたものじゃったかのう?」
「そう、流行っているらしい」
確か、こういった類の香水が流行るきっかけはルイゼだった。香水といえば油脂を用いたものが主流だったが、ルイゼはアルコール主体の爽やかな香りを好んだ。香りも麝香のようないかにも香水という強い香りを放つものではなく、果実の類から取れる甘い匂いを好んだ。
やがて周囲の人たちが真似をするようになり、あちこちで同じような香水が売られるようになったという。
そんなことを考えていると、アデルが後ろから顔を耳に近づけてきた。
「うむ、実に良い香りじゃのう」
すんすんと鼻を鳴らしながら匂いを嗅がれた。急にそんなことをされて、頬が熱くなった。思わずアデルを振り払いそうになり、慌てて体を押し留める。
「そ、そんなに嗅ぐのは」
「おっとすまんすまん、つい」
アデルは顔を離した。女の匂いをすぐ間近で嗅ぐのは失礼だと思ったのだろう。
しかし、こうやって興味を持ってもらえるのは悪いことではない。
「ところでシシィ、どうしたんじゃこんな夜更けに?」
「え?」
まさかここに来た目的を尋ねられるとは思っていなかった。確かに何の用があって来たのかは告げていないが、はっきり言うのも恥ずかしい。
どう答えたものかと考えていると、アデルはこちらの両腕を軽く撫でた。
「内緒話でもあるのかと思ったが、何か言いにくいことやら何やら」
「……そういうわけではない」
「そうか」
どうやら二人きりでないと出来ない話をしにきたと思ったようだ。しかし、そんなつもりはない。こうなると、自分からどう動けばいいのか悩んでしまう。
これ以上待ちの姿勢でいることを諦め、自分から何をしに来たのか告げたほうがいいのだろうか。
「ではシシィは、わしに会いに来てくれたということか」
そう言いながらアデルはその逞しい両腕でこちらの体を抱き締めた。後ろからそうやって抱き締められると、まるで自分の体が小さくなったように感じられてしまう。
アデルのように背が高く、腕や足も太い男からすれば、自分のような娘はきっと幼な子と変わり無い大きさに思えるかもしれない。
「うむ、こうやってシシィを抱きしめていられるというのは、幸せなことじゃのう」
「……そう思ってくれるのは、嬉しい」
「その言葉を聞いてわしも嬉しい」
そう言いながらアデルがこちらの肩の上に顎を乗せた。くすぐったくて耳の産毛が逆立つ。こうやってじゃれあうのも気持ちよいが、そろそろ目的の行為に及びたい。
それを自分から言うのも憚られるが、もうそうは言っていられないのだろう。
アデルの腕に手を添える。
「……あなたと、朝まで一緒に過ごしたい」
「む……」
直接的な言い方ではないが、これですべてを察してくれるはずだ。こちらの言葉を聞いても、アデルは身動きひとつしなかった。
何を考えているのかわからず、不安になってしまう。喜んでくれているはずだが、まだ言葉にも態度にも表れていない。
「シシィ、体の調子はどうじゃ?」
その言葉でアデルが何を案じているのかがわかった。以前、アデルと睦みあっている中で自分は気が遠くなってしまったことがある。
アデルから見れば、こちらに疲労が溜まっているにも関わらず無理をさせてしまったという苦い経験なのだろう。しかし、今のアデルの心配は杞憂に過ぎない。
体調が万全であることをどうやって伝えようか。そう考え始めた時、家の中が随分と暗くなった。どうやら暖炉の炎が果てようとしているらしい。
「おっと、いかん、こんな時に……」
アデルは体をずらし両脚を広げると器用にベッドから降りた。そのまま暖炉の前に移動し、しゃがみこむ。脇に積んであった薪を暖炉の炎に差し出すが、炎の食欲はそれほど高くないらしく、なかなか炎は大きくならない。
ここは手伝ったほうがいいかもしれない。自然のままに任せていては時間がかかるだろう。こんな些事はさっさと終わらせて、さっきと同じようにアデルの腕の中に戻りたい。
立ち上がり、立てかけておいた杖を手に取る。
「今魔法で火を出す」
「ん?」
アデルの肩越しに声をかけ、それから杖を暖炉の中へと向ける。魔法で暖炉の中に炎を作り出した。赤い光が家の中を鋭く照らす。
程なくして薪が火に捲かれた。家の中は次第に明るくなる。
しゃがみこんでいたアデルが肩越しにこちらを見上げてきた。その表情には驚きの色が現れている。炎を出す魔法くらいでどうして驚いているのかよくわからない。
じっと見つめ返していると、アデルが目を瞬かせた。
「シシィ、その杖で魔法が使えるのか?」
「え?」
「いや、以前言っておったではないか。なんじゃ、胸元に挟んだ杖で魔法を使うとかなんとか」
「ああ……」
確かにそんなことを言った覚えがあるが、これ以上深く尋ねられたくはない。
説明するのが少々難しい。
「わたしは、どちらの杖でも魔法が使える。ただ、どちらの杖で魔法を使うかは人に話したことがない」
「な、なんじゃ?」
「つまり、わたしが今持っている杖を奪われても、予備の杖があればまだ魔法が使える。そして……、逆のことも成り立つ」
「……ふむ、ああ……、いやわかったぞ。つまりあれじゃな、シシィはわしにも嘘を吐いておったと」
「そういうことになる。ただ、その言い方は」
「ハッハッハ、別に責めてはおらん。なんじゃ、ほれ、わしがシシィの杖を捨てて、シシィを縛ったことがあったじゃろ。その時、実はシシィは魔法が使えたということじゃな」
「あの時は使えなかった。杖を手に持たないと魔法は使えない」
「なんと?! そ、それではなんじゃ、縛られておったとき、別に何か勝算があってあのように気丈に振舞っておったわけではないのか?」
特別気丈に振舞ったつもりはなかったが、アデルから見ればそうだったらしい。しかしよく考えれば、縛られて連行された者たちはもう少し見苦しい態度を取っていたような気がする。
それらと比べれば気丈だったかもしれない。
「……勝算は無かった。ただ、あなたがわたしを犯そうとしたなら、その時に何か機が生まれるかもしれないとは考えていた」
「ふむ、わしは胸元に下げたあれで魔法が使えるとは知らんからのう。そう考えれば、どの杖で魔法を使えるというのを伏せておくというのはわからんでもない」
アデルは感心したように顎をさすった。アデルにとっては興味深いことだったのかもしれないが、こんな話題を続けたいとは思わない。
しゃがんでいたアデルの肩に手を置く。
「わたしが今、予備の杖を持っていないことに気づいたのは、あなたが、わたしの胸元を覗き込んでいたから」
「ぶはっ?! い、いや……、まぁ否定はせんが」
「構わない。あなたになら、見られても」
「うっ……」
アデルの肩から手を離し、まずは杖を椅子の脇に立てかけた。それからベッドへと移動し、腰掛ける。右手で自分の右側を軽く叩き、アデルを促した。
しゃがんでいたアデルも立ち上がり、こちらへと歩いてくる。
アデルが右隣に座り込み、ベッドが大きく軋む。並んで座っているのに、お互いに無言。アデルはゆっくりと息を吸いながら、時折ちらちらとこちらを見てくる。
躊躇せずに何でも言ってほしい。
「うーむ、いかん、何か気の利いたことが言えればと思ったが、何も思いつかん」
「それで構わない」
「ふむ、では単刀直入に言うが、わしはシシィを抱きたいと思っておる。このまま朝まで、シシィの温もりを感じていたいと思う。シシィをもっとわしのものにしたい」
率直なその言葉が胸に染み込んでくる。アデルは右手をこちらの顎へと伸ばした。指先で顎を持ち上げられた。
視線が合う。暖炉の炎だけが家を照らしていて、そのせいかアデルの瞳の中にも炎が宿っているように思えた。揺らめいてきらめいて、瞳は妖しく濡れる。
アデルの顔もいくらか赤く見えた。きっと、自分の頬も赤くなっているだろう。
ついにこの時が来たのだと思うと、胸がきゅっと締め付けられた。
アデルは熱っぽい瞳でこちらをまっすぐに見つめてくる。
その顔が少しずつ近づいてきた。
唇に幸せな感触を覚え、目を閉じた。
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