名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

頼れる男

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 アデルは濡れて重たくなった土の上を歩いた。にわか雨も過ぎ去り、空には雲ひとつ無い。薄い青空は高く伸び上がり、近づく夕暮れに少しずつ色を奪われてゆく。

 急な雨のせいで随分と予定が狂ってしまった。今日中には麻縄作りを終える予定だったがそれも終わらなかった。それより先に大雨で村に被害が出ていないかを調べるほうが先決だったのだ。

 怪我人がいなかったのは幸いだが、柵や小屋がいくらか壊れていたためその対処に追われることとなった。



「おお、寒くなってきたのう……」



 速足で歩きながら家へ向かう。重たい土が靴底にへばりつき、歩みを妨げる。

 家は大丈夫だろうかと心配になってしまう。雨漏りなどしていないだろうか。



「うーむ、まだ葺き替えたばかりじゃから大丈夫のはずじゃが」



 屋根を葺き替えたのは去年のことだから、雨漏りにはまだ早すぎるはずだ。しかしあの豪雨では楽観できない。

 段々と足早になる。急に寒くなったことも歩みを速める原因になっていた。



「日が落ちるのも早いのう……」



 冬至が近づくにつれて太陽は力を失くしてゆく。今年の冬はどれほど寒くなるのだろうか。冬への備えはまだもう少しばかり残っている。

 今年は自分とソフィだけでなく、リディアとシシィの分も考えないといけない。芋は十分すぎるほどあるから飢えることは無いはずだが、それだけでは食卓が寂しい。



 年末にはご馳走も必要になるだろう。だが、その日は少しだけ前倒しする必要があるかもしれない。

 今年の年末は出稼ぎに行くつもりでいる。自分のような男もついに家を建てることになった。そうなると随分と金が必要になる。残念ながら富とは縁の無い生活をしているので、いきなり家を建てるとなってもその費用が捻出できない。



 しかし、年末から年始にかけて海で荷運びをすればかなり稼ぐことができる。港湾労働はただでさえ稼げるのに、時期的なものもあって賃金はさらに跳ね上がるのだ。

 仕事は辛いが、自分のような力持ちには向いている。

 極寒の海は灰色に染まり、風が吹けば冷たい潮風が体に降り注ぐ。細かな飛沫が顔や髪にへばりつき、やがて乾いて塩を落とす。夜は大勢の男たちが大きな部屋に詰め込まれ、転がるように眠りにつく。

 冬でなければシラミやらダニで酷いことになっていたに違いない。冬でもあまりの臭さに鼻が曲がりそうになるのだ。

 時には荒っぽい男たちが諍いを起こすこともある。

 高給ではあるが、それだけ辛い。だが、何より辛いのはそんな環境ではない。



「しかし……、家を離れるのものう……」



 やはり家を離れるのが辛い。みんなと離れて一人で荷運びに精を出すというのは実に寂しいことだ。



「いや、いかんぞわし、そのくらいのことに耐えねば」



 首を振った。いくら寂しいからといって、出稼ぎに行かないわけにはいかない。そうでもしなければ家を建てることはできないだろう。

 今年の冬だけ耐えればいいのだ。



「よし、気合じゃ」



 みんなのためにも、頼れる男であるところを見せなければいけない。

 女々しい気持ちを振り切るように胸を張った。













 家の扉を開けると、その向こう側からリディアが現れた。まるで待ち構えていたかのようにこちらに顔を向けて立っている。

 紅の長い髪は首のあたりでゆるくひとつに束ねられているらしい。



「おかえりなさい」

「お、おお、ただいま」



 リディアは明るい笑顔を浮かべている。いつもと変わらず美しい顔立ちをしていて、血色の良い肌はほんのり赤く染まっている。

 こうやってリディアを見ていると、昨夜のことを思い出してしまう。昨夜、この美人の服を脱がし、その体を抱き締め、肌と肌を触れ合わせた。

 その時の記憶が脳裏で雷のように激しく光を放つ。目が眩むような美しさに呆然としていると、リディアがすっと右手を伸ばしてきた。



「はいアデル、味見お願い」

「は?」



 何をするのかと思えば、リディアは自身の人差し指をこちらの口に近づけてきた。慌てたせいで思わず開いた唇の間に、リディアの人差し指が差し込まれる。

 舌先に指の感触。それだけでなく、柔らかな何かを感じた。どうやら潰した芋らしい。後を追うように塩気が訪れ、味の輪郭がはっきりと浮かび上がってきた。

 しかし、味を判断するほどよく味わえていない。もう少し味を確かめようと舌を動かす。



「むむ……」

「やん」



 リディアはくすぐったそうに身をよじらせた。その艶かしい曲線の動きが、男の欲を刺激する。

 もう少しリディアを見ていたい。そう考えた瞬間、リディアの後ろから怒声が響いた。





「こりゃ!! 何をやっておるのじゃ!!」



 ソフィが眉を吊り上げこちらに向かってきた。その剣幕に押されて、リディアの指を口から離す。



「おのれ隙あらばイチャコラ、禁止じゃ! イチャイチャは禁止なのじゃ!」

「待て、落ち着いてくれソフィ」



 ソフィは怒りの表情を浮かべたままリディアとこちらの間に割って入った。そしてこちらを見上げ、キッと強い視線を向けてくる。



「おのれアデルめ、でれでれしおってからに」

「しておらん……はずじゃ」



 驚きのほうが勝っていたから、頬が緩んだりはしていなかったはずだ。しかしソフィにはそう思えなかったらしい。

 とにかくソフィを宥めようと思った矢先、奥に立つリディアの姿が目に入った。



 リディアはこちらの目をまっすぐに見ながら、自身の右手の人差し指を舌でぺろぺろと舐めだした。指を口に含むのでもなく、舌を伸ばし、その赤く色づいた肉の先で硬く伸ばした指先を舐め上げた。

 その艶かしい姿を見て、心臓は焼けた地面でのたうつミミズのように跳ね回る。



 思えば、昨夜はあの美しい女を裸にしてその体を抱き締めたのだ。



「っと、いかんいかん」



 頭の中がリディアの裸体で埋まりそうになり、慌てて首を振る。ソフィはその様子を見て満足したように頷いた。



「反省したか。まったく、油断も隙もないのじゃ」



 尊大に胸を張り、ソフィが腕を組む。何やら誤解が生じているようだが、わざわざ訂正する必要もないだろう。

 テーブルの上に視線を移すと、ボウルの中に潰した芋が入っているのが見えた。



「おお、夕食の準備をしておったのか」

「そうなのよ。ソフィと一緒に茹でてたの、ね、ソフィ?」



 リディアはソフィの後ろから小さな両肩の上に両手を置き、こちらへ向かって微笑んだ。

 そうやって仲良く料理をしているというのは喜ばしい。



「うむ、こうやって料理をしてもらえるというのは助かるのう」

「でしょ? ソフィったらね、屁理屈ばっかり捏ねるようになっちゃって、もう、そんなの捏ねるより茹でた芋をコネコネしないって言ってね」



 リディアはそうやって話を続けた。立ちっぱなしでいる必要もないので、椅子に腰掛ける。ソフィはソフィでリディアの言い分に反論し、リディアもそれに言い返す。

 猫同士のじゃれあいを見ているようで微笑ましい気分になった。しかし、ひとつ気になることもある。



「ところでシシィはどうしたんじゃ?」



 そう尋ねるとソフィが神妙な顔で頷いた。



「うむ、シシィならば今は難しい問題に取り掛かっておるのじゃ。しばらく考える時間が欲しいと言っておった」

「難しい問題? それはなんじゃ、どういう意味で難しいんじゃ?」

「哲学的な意味で難しいのじゃ」

「ふむ……、それはなんじゃ、人生に迷っておるとかそういう意味ではなく、学問という意味でかのう?」

「当然そうなのじゃ」

「ならばよいが……」



 シシィが取り掛かっている問題がどのようなものかは分からないが、きっと難しいものなのだろう。そのまま集中させてやったほうがいいのか、それともそろそろ呼びに行ったほうがいいのか。

 もう日が暮れようとしているが、まだ夕食には少々早いかもしれない。しかし、夕食がまだでも一緒に過ごすほうがよいに違いない。



「さて、夕食にはまだ少々早いかもしれんが、シシィを呼んでくる」



 椅子から立ち上がろうとした瞬間、リディアが慌てて声をあげた。



「あっ、それだったらあたしが行ってくるわよ。アデルはゆっくりしてて」

「それは助かるが……」

「うん、ちょっと行ってくるわ」

「悪いのう」



 リディアを行かせたような格好になってしまった気もする。リディアはささっと家を出て蔵のほうへと向かって行った。

 ソフィは暖炉の前でぬくぬくと火にあたっている。とりあえずこの間に着替えを済まし、それから蝋燭を燭台に立てた。



「そういえばソフィ、今日の雨は大丈夫じゃったか?」

「妾は問題ない。すぐにロルフの家に逃げ込んで難を逃れたのじゃ」

「そうか、わしもちらっと見てはおったが……。あの赤ずきんちゃんの手を引いて走っておったのう」

「うむ、イレーネを置いてゆくわけにはいかん」



 ソフィはなんだかんだで小さい子の面倒見が良い。



「ソフィも随分成長したものじゃのう……」

「なんじゃそれは、妾はもう十分に大人なのじゃ」

「それはさすがに無理があるが成長したのう」



 しみじみと実感してしまう。年下の成長を見ていると自分が停滞しているような気がした。これから同じような体験を何度も重ねるのだろう。

 ソフィにはまだ危なげがあるが、それも段々と落ち着くに違いない。

 この様子なら、年末の出稼ぎに出かけても問題ないだろう。リディアとシシィもいるし、ソフィには何の危険も無いはずだ。



 新しい家もいいが、そろそろ家畜を飼うのもいいかもしれない。

 今までは一人暮らしだったし、出稼ぎで家を空けることもあったから家畜は飼っていなかった。

 しかしこれからは違う。リディアやシシィもいるし、ソフィもいる。

 ソフィなら家畜の世話もきっちりやってくれるかもしれない。どうやらソフィは今のところ家の役に立っていないことを心苦しく思っているらしいが、家畜の世話を続ければそういう感情も無くなるだろう。

 そうなると何を飼うかが問題になる。



「ふーむ、ヤギがよいか鶏がよいか」

「なんじゃ、ご馳走の話か? 妾は魚がよい」

「いや食べるほうではなく、いや、食べることは食べるが」



 自分でも何を言っているのかよくわからなくなった。



 将来のことを考えていると、急に扉が開いた。向こうからリディアが明るい表情で入ってくる。その後にシシィも続いた。

 シシィは何か意気込んでいるかのように唇をきゅっと結んでいる。

 きっと難しい問題とやらを真剣に考え続けたのだろう。



「おお、なんぞ考え事をしておるところ悪いのう。しかし、夕食までみんなでお喋りしながら過ごすのもよいでな」



 そう話しかけた瞬間、シシィの動きが止まった。こちらに視線を向けていたが、その顔がみるみる赤く染まってゆく。それだけでなく、急に目を逸らし、まるでどこに視線を置けばよいのか分からず迷っているかのようだった。



「な、なんじゃ?」



 シシィの様子がおかしいのでさらに顔を近づけて顔をまじまじと見つめた。ふとシシィと視線が合う。

 翡翠のように美しい瞳がこちらに向いた瞬間、シシィは腕で胸元を覆った。

 身をよじり、こちらの視線から少しでも逃れようとしている。



「だ、だめ、恥ずかしい」

「なんじゃ?! どうしたんじゃシシィ?!」



 ただ事ではない様子を見て心配になってしまう。シシィは胸元を抱いたまま後退した。

 妙な様子を察したのか、ソフィが声を荒らげた。



「こりゃアデル! シシィに何をしたのじゃ!」

「いやわしは何もしておらん」



 していないはずだ。しかしソフィは何かを疑っているらしく、ジトッとした目でこちらを見上げてくる。



「さてはアデル、シシィの胸を触りたそうな目で見ておったのじゃな!」

「そりゃ、触りたくて仕方がないからのう……、って、思っておらんわそんなこと!!」



 思わず本音が出そうになった。慌てて否定したら、今度はシシィが目を見開いた。



「どうして? あなたが触りたいと思わないのは、困る」

「いやいや待ってくれシシィ、今のはあれじゃ、ソフィがわしをこう、スケベ扱いしようとしたからであってじゃな」

「触りたい?」



 紅潮した顔のまま、シシィは二の腕を寄せて自身の豊かな胸を挟んだ。それだけで巨大な果実は柔らかく形を変える。服の上からでもその大きさがはっきりと見てとれて、思わずずっと見ていたくなった。

 ごくりと唾を飲み込み、胸元に落ちた視線を強引に引っ張り上げる。



「……触りたいとは思うが、ここはソフィがおるでな」



 小声でシシィにそう言ってみたが、ソフィにも聞こえていたらしい。



「こりゃアデル! なんじゃ、嘘をついておるのか!」

「いや違うぞソフィ、まぁ落ち着け、わしは紳士じゃでな、そのような目でシシィを見たりはしておらんはずじゃと思う今日この頃じゃ」

「ええい! はっきりするのじゃ! シシィの胸を触りたいのか触りたくないのか!」

「それはほれ、なんじゃ、色々あるじゃろ」



 言葉を濁していると、シシィがこちらの袖を引っ張ってきた。

 シシィの頬は赤く、目が合うとまるで弾かれたように視線を逸らした。

 それでも伝えたいことがあるようで、瑞々しい唇をふわりと開く。



「わたしは、あなたが触りたいと思ってくれてるほうが、嬉しい。だから、そのほうが、いいと思う」



 可愛らしい声でそんなことを言われては、脳が茹で上がってしまう。

 シシィをずっと見つめていたい気になった。しかし、脛を蹴られた痛みで意識が現実に戻る。



「おのれアデル! なんとだらしない顔をしておるのじゃ!」

「いや待てソフィ! 落ち着け」



 だらしない顔をしていたかどうかは分からないが、ソフィから見ればそうだったのだろう。

 どうにか場を収めたいが、頭の中身は煮込みすぎた芋のようにグズグズに溶けてゆく。



 結局、見るに見かねたリディアが仲裁に入ってくれるまで、ひたすらおろおろすることしか出来なかった。
















 冬はどれだけ夜を好いているのだろうか。待ちきれないとばかりに地上に夜を連れて来て、太陽を追い出してしまった。

 おかげで蔵の中は真っ暗で、自分の手さえもまともに見ることができない。シシィは夜が更けてゆく中、ベッドの上で仰向けになっていた。



「うむ、それで一体どうなるのじゃ?」



 ベッドには自分ひとりではなく、ソフィもいた。さらにリディアもいる。

 リディアのベッドでソフィを間に挟んでいる格好だった。今日の昼、ソフィは哲学に関する問いを自分にぶつけてきた。その場で答えるのではなく、自分なりに色々と考えた上で夜に答えるとソフィに告げていた。



 その約束を果たすため、ベッドの中で哲学談義に励むこととなった。リディアはそんな話をすることに反対し、折角だからもっと愉快な話をしようと提案していた。

 気持ちは理解できたが、ソフィが反対したため結局哲学的な話をすることになった。こうなるとリディアの出番はまったく無くなってしまい、結果としてリディアはさっきから一言も喋っていない。

 リディアからすればこうやって三人で並んで寝るのだから、もっと楽しい話がしたかったのだろう。



 わずかな眠気を感じ、目を瞬かせる。

 思考が鈍りそうになって、小さく首を振った。蔵の中は寒いが、こうやって身を寄せ合っているから寒さは感じない。

 この暖かさはありがたい味方もあり、眠気を催す敵でもあった。



 ソフィが持ち込んできた疑問に色々と答えてゆくと、それに対してソフィも何かしらの反応を示す。ソフィは段々と興奮してきたようで、続きをどんどんせがんでくるようになった。

 ソフィはご馳走を前にした美食家のように、咀嚼すべき知識を求めてくる。ソフィには難しい話になるかもしれないと思ったが、何度か噛み砕いてやればソフィは胃の腑へとすぐに内容を流し込む。



 こうやって喜んでくれるのは嬉しいが、もうソフィには眠ってもらいたかった。

 今日はアデルにこの体を捧げるつもりでいる。貞操も、何もかもを捧げ、あの人の物になるのだ。想像するだけで臓物が焼けたように熱くなる。

 まるで戦いに挑む前のような緊張感と、新しい体験に対する興奮が体の中でないまぜになっていた。



 しかし、ソフィは眠りとは程遠い興奮を保っている。



「なるほど、妾はそのように考えたことがなかったのじゃ」



 ソフィのような女の子がこんなことを考えたことがあったら驚きだ。

 そろそろ話を切り上げなければいけないだろう。



「ソフィ、もう遅いからこの辺りで」

「なんと?! まだよいではないか、時間はたっぷりとあるのじゃ」

「わたしも色々と話したいとは思う。ただ、起きるのが遅くなるのは困るから」

「ふーむ、確かにシシィが起きるのが遅かったのは事実なのじゃ。しかし、よいではないか」



 ソフィがなおも食い下がる。何か思うことがあったのか、リディアが口を開いた。



「ほらソフィ、もういいでしょ。みんな朝起きるのが遅かったらみんな怒られるわよ」

「いやアデルは少々遅れたくらいで怒りはせん」

「それでも、女だったらちゃんと朝早く起きて、アデルを起こしてあげるくらいじゃないと」

「しかしアデルは早起きなのじゃ、アデルを起こすほど早起きとなると鶏を懐に入れて寝るしかないのじゃ」



 そうやって二人は少々言い合っていたが、ソフィもついに折れた。あまり遅くまで起きるのもよくないと思ったのだろう。

 また話の続きをすることを約束した。その後、リディアのベッドを出て自分のベッドへと戻る。



 暗いせいでそのわずかな距離を歩くことさえ難しかった。自分のベッドは空気と同じように冷え切っていて、そこに身を委ねることを躊躇うほどだった。

 杖を取って、魔法で灯りを浮かべる。今度は魔法でベッドの中へ熱風を軽く送り込んだ。これで少しは耐えられるだろう。





 ベッドで横になった。

 枕に後ろ頭を沈め、闇に溶けた天蓋を眺めながらひたすら待つ。ソフィが眠ったら蔵を出てアデルのところへと行かなければいけない。

 眠気はそれほど強くないから耐えられるだろう。問題はソフィがいつ眠るかだった。

 ソフィが眠ったらリディアが合図をくれることになっている。それを待つしかないだろう。もし十分に待っても合図が無いのなら、その時はその時でこっそり抜け出すしかない。





 目を開けていても見えるのは深い闇だけだった。しかし、その中に色々な思い出が浮ぶ。

 こんな日が来ることになるとは想像だにしなかった。母が殺され、その後は復讐に生きてきた。多くの人を殺した。

 その傍らで人を生き返らせる術を探していた。心のどこかではそんな方法が無いことに気づいていた。それでも、蜃気楼のような目標が無ければ冷たい砂漠の中でどこに進んでいいのかもわからなかったのだ。



 この村に来てから何もかもが変わった。

 アデルとソフィの二人に出会い、穏やかな生活と幸福を手に入れた。人を好きになることを知った。大切な人と生きていきたいと思った。

 何度か破滅に近づいたこともあったが、ついに今日を迎えた。



 胸の奥がふわふわとして落ち着かない。早く時が過ぎればいい。ソフィが眠ってくれればいい。

 そう願った。





 どれほど時間が過ぎたのか自分ではよくわからなかった。しかし、耳が微かな音を捉えた。その音はリディアのベッドのほうから聞こえてきた。

 とても短い口笛の音だった。思わず慌てて跳ね起きそうになってしまう。しかし、今は物音を立てるわけにはいかないのだ。



 衣擦れさえも耳に障る夜の静寂。

 そっと体を起し、靴に足を通した。杖を手にとり、ゆっくりと立ち上がった。

 冷たい空気でさえ妙に心地よい。頬に触れる空気は乾いていて、唇から水分を奪おうとしていた。



 ゆっくりと足を進めて蔵の扉へと近づき、音を立てないように気をつけながらわずかに扉を開いた。その隙間へサッと体を滑らせる。

 外へ出た後、再び音が鳴らないようそっと扉を閉めた。



 凜冽とした空気を鼻から一杯に吸い込む。肺の奥へと辿り着き、胸を内側から冷やした。

 魔法でわずかな灯火を作り出し、前方に浮かべた。足元に注意しつつ歩き出す。



 そして、家の前へと辿り着いた。心が落ち着かない。

 扉を見つめ、それから手を軽く挙げる。拳で扉を小さく三度叩いた。



 家の中で何かが動く音がした。きっとアデルだろう。

 誰が来たのか怪訝に思っているはずだ。



「わたし」



 ややあって、扉が開いた。



「シシィ?」



 アデルが顔を出した。その顔を見て頬が熱くなってしまう。今日の夕方にもアデルと顔を合わせてつい赤面してしまった。

 それまでアデルのことを色々と考えていたから、アデルを見るなり艶かしい情景が脳裏に映し出されてしまったのだ。



「どうしたんじゃシシィ、いや、ほれ、そんなところにおっては寒いじゃろう」



 アデルはそう言ってこちらを促した。

 家の中へと入ると、ほのかに暖かな空気に迎えられた。暖炉の炎はそれほど強くないようだが、それでもいくらか室内を暖めているようだ。

 アデルは暖炉の前に腰掛けてチマチマとした仕事をしていたらしい。



 ただ、アデルは暖炉の前の椅子をこちらに譲ろうとしている。



「シシィ、体が冷えてはいかん。ほら、ここに座りなさい」



 そう言ってくれるのは嬉しいが、誘いに乗るわけにはいかない。杖をテーブルに立てかけた後、アデルのベッドの上に腰掛けた。

 アデルはこちらの様子を見て何かを察したようだ。目を数回瞬かせた後、一度上を見た。

 それからアデルもベッドのほうへと来て、ゆっくりと隣に腰を下ろした。



 アデルは何も言わない。しかし問題はない。今日のために色々と考えてきたのだ。

 本を読んで勉強も済ました。

 そこでハタと気づく。



「あっ……」

「な、なんじゃ?」



 こうやって並んで座る時は、男が右にいるほうがよいと本で読んだ。右利きの男が女の右側に座ると、左手で女を抱き寄せ、利き手で女の体をまさぐることが出来るのだ。

 しかし今は逆になってしまっている。自分が左側に座り、アデルが右側にいた。



 これではアデルもこちらの体をまさぐりにくいに違いない。



「待って」



 一度立ち上がり、アデルの左側に回ろうとした。

 しかし、その瞬間、後ろから体をがしっと掴まれた。







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