名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

喧嘩の終わり

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 ベルンハルトの顔が松明の黄色い灯りに揺らめいていた。彫りの深い顔をしているせいで、随分と凹凸が強調されているように見える。

 風呂屋で散々溜め込んだ温もりは時間と共に失われ、今では寒気を感じるほどだった。居酒屋の外にまで出て、どうしてこんな争いをしなければいけないのだろう。



 暴力的な手段を用いたくないと考えていたが、今は少々考えを変えた。いい加減、こんな男に付き合ってはいられない。

 今日は気心の知れた友と心ゆくまで酒を飲み交わし、語り合い、食の楽しみを謳歌しようとしていたのだ。それにも関わらず、今は初対面の男に殴られたり蹴られたりで痛い思いをしている。

 それで状況が収まるのなら我慢も出来るが、どうやらベルンハルトは甘い仕打ちで済ますつもりは無いようだ。





 アデルは溜め息を吐いた。息が白く濁った後、黒い夜へと溶けてゆく。



「ベルンハルトさんとやら、おぬしは頑丈じゃろ? 少々やりすぎても恨まんでくれ」

「何をほざく」



 アデルは地を蹴った。暗闇を食らうかの如く口を開き、雄たけびを上げ、ベルンハルトとの距離を蹴り飛ばす。ベルンハルトはたじろがない。構えたところからベルンハルトが拳を繰り出す。

 その動きは見えた。ベルンハルトの拳が頬を掠めて横へと流れる。アデルは拳を握り締めた。



「わしの拳骨は少々痛いぞ」



 両脚から、腰から、背中から、力の流れが脈々と伝わってくる。細い支流が集まり大河を為すように、ひとつひとつの力が一箇所へ向かって流れ込む。

 拳が撃ち出される。ベルンハルトの顎の前で砲弾のように硬くなり、その顎を一気に飛ばす。



「がはっ?!」



 ベルンハルトにはよく見えなかったのかもしれない。自身の拳が愚かな農民の顔面を砕く様を脳裏に描いていたのだろう。だが、その絵は網膜に写らない。代わりに現れたのは夜空。何故空を仰いでいるのかさえベルンハルトにはわからない。



 アデルは倒れそうになったベルンハルトの胸倉を右手で掴んだ。



「おっと、倒れてはいかんぞ」

「な……、こ、この野郎」



 さすが歴戦の猛者だけあって、ベルンハルトの表情に怯みは見られない。怒りで燃え立っているにも関わらず、すぐさま拳を振るうような愚挙は犯さなかった。

 腕を取られる気がした。それでも構わない。アデルはベルンハルトの胸倉を右手で掴んだままその顔を睨んだ。



 ベルンハルトの頬がわずかに持ち上がる。それもそうだろう。戦いに慣れた者であれば、利き手で胸倉を掴んでくるような馬鹿を簡単に制圧できるはずだ。ベルンハルトは膝蹴りを警戒してか腰を回し正中線を外へ向けた。

 視界の端からベルンハルトの手が伸びてくる。その手はアデルの手首を掴み、同時に逆の手がアデルの肘を取った。



 投げ技だ。手首を内側に曲げようとしている。ベルンハルトからすれば、素人を投げ飛ばすことなど造作も無いのだろう。

 胸元を掴んでくるような素人なら、すぐさま撃退できるに違いない。だが、それでも投げ技を選ぶのは間違っている。

 アデルはベルンハルトの腕を左手で殴りつけ、同時に右腕を引き抜いた。

 ベルンハルトが目を見張る。



「なっ?!」

「どうせそう来ると思っておったからのう」



 投げを選んだのは、自分を地面に転がしたかったからだろう。その上で痛めつけるつもりだったのだ。肉体的な痛みだけでなく、精神的に屈服させたかったのだろう。

 だからこそ投げを選んだ。その後で散々嬲るつもりだったに違いない。



 アデルは左拳をベルンハルトの腹へと叩き込んだ。胃袋を破裂させるほどの勢いで押し込む。



「ごはっ?!」



 ベルンハルトの体が後ろへと流れる。これでも倒れないことに少々驚いてしまう。そのまま吐くか、それでなくても呼吸がままならなくなるはずだ。しかしベルンハルトは厳しい表情でこちらを睨み、腕を上げて構えている。

 これほど頑丈な男は随分と久しぶりに見た。感心している場合ではない。



「ゆくぞ」



 アデルは腕を上げて構え、ベルンハルトとの距離を詰めた。間合いが詰まったところで左拳を繰り出す。ベルンハルトは腕でこちらの拳を払いつつ、足捌きで距離を取ろうとしていた。



「どうしたんじゃベルンハルトさんよ、わしのような農民に敵わんというのか?」

「ほざけ」



 そろそろだろう。アデルは左拳を何度か繰り出していたが、一気に左足で前に踏み込んだ。腰を回し、右拳を前へ突き出す。



 バチッ! 空中で拳が弾かれた。そこには何も無い。拳は見えない壁にぶつかったかのように止まり、それと同時にアデルは拳に痛みを感じた。



「なんじゃ?!」

「もう終わりだ、調子に乗ったことを後悔しろ」



 思った通りだ。ベルンハルトは左手に杖を持っていた。その長さは手を広げたほどで、太さは指にも満たない。

 ベルンハルトは左手に杖を持ったまま距離を詰めてくる。蹴り、ベルンハルトの右足がまるで大鎌のように鋭い軌跡を描く。命をも刈り取るような蹴り。アデルは咄嗟に身を引いたが、間に合わない。腕で受ける。それでも痛みは走る。



「ぐっ、なんと……」

「今更許してもらおうとは思わないことだな」

「そうか」



 薄々そうではないかと思っていた。ベルンハルトはそれなりに有名な傭兵らしい。度重なる戦争を何度も生き抜いてきたのだろう。それなら、魔法が使えてもおかしくはない。

 それに、ベルンハルトは喧嘩の前に一度左手で左腰の辺りを確かめていた。そこに杖が差してあったのだ。



 左手に杖を持ち、防御魔法で身を守る。それに合わせて体術で敵を圧倒する。これは以前シシィがやっていたことと同じだ。

 おそらく魔法使いの常套手段なのだろう。ならば、ベルンハルトがしようとしていることは、シシィがやったことと同じに違いない。



 アデルは拳を体の前に持ってきて左拳を打ち出した。しかし、ベルンハルトの防御魔法によって弾かれる。



「ハッハッハ!! 無駄だ! お前如きでは俺の防御魔法を破れはしない!」

「そのようじゃのう」



 ベルンハルトは蹴り、右拳など、攻撃を繰り出してくる。防御魔法を使っているからか、その攻撃もやや大振りになっていた。反撃を受けるわけがないと考えているに違いない。

 どうにかベルンハルトの攻撃をいなす。



「どうしたんじゃベルンハルトさんよ、魔法まで使っておいて雑草ひとつ刈り取ることも出来んのか?」

「フン、そんな軽口もこれで終わりだ」



 ベルンハルトは雑草を焼くなどと言っていた。当然だが、雑草だけを選んで焼くようなことは出来ないし、根から取り除かなければまた雑草が生えてしまうので無意味だ。

 だが、農業とは無縁のベルンハルトにはよくわかっていないのだろう。

 左手に持った杖をこちらへと向けた。片頬だけが引きつるように持ち上がり、その目に愉悦の色が浮かんだ。



「死ね」



 杖の先から炎が溢れる。夜を消し飛ばすかのように、炎の光が周囲を照らす。突然の炎に辺りで悲鳴が上がった。

 アデルの体が沈みこむ。ベルンハルトが魔法使いとしてどれほど優れているのかは知らない。だが、詠唱無しで炎を出すくらいのことは出来るようだ。





 この男がやろうとしていることはシシィと同じだ。一人を相手に戦うのであれば、炎のように攻撃範囲が広いものは非常に有効だろう。

 相手は確実に恐怖を覚えるだろうし、必死で炎から逃れようとする。この方法を採るのは正解のはずだ。

 両脚を大きく開く。地面に向かって顔を近づける。ベルンハルトは自分の出した炎で目が眩んでしまっている。暗い中でそんな明るいものを目の前に出したのだ。

 冷静であったなら片目を閉じるなどの対応が出来ただろうが、ベルンハルトは目を見開いてしまっている。

 ベルンハルトにはもはや自分の姿は見えていないようだった。



 腰より低い位置から、アデルは一気に伸び上がった。ベルンハルトがこちらに気づく。それでもまだ油断をしている。

 どんな攻撃をされても防御魔法で防げると思っているのだろう。



 立ち上がったアデルはベルンハルトへと微笑みかけた。



「おおベルンハルトさんよ、肩にゴミがついておるぞ」

「は?」



 アデルはベルンハルトの肩に右手を置いた。それから左手でベルンハルトの左手首を掴む。戦場を生き抜いた男の表情が驚愕で強張った。目じりが裂けるほど目を開き、こちらを凝視している。



 歴戦の猛者もまたこの事実を知らなかったのだろう。防御魔法は攻撃の意図が無ければすり抜けることが出来る。そして、触れてしまえばもはやこちらのものだ。

 アデルはベルンハルトの左手首を外側から強く握り、手首を内側へと折り曲げた。それと同時に右足でベルンハルトの足を払う。右手を引き、その体を地面へと引き倒す。



 ベルンハルトの目はまだ炎の明るさで焼けたままだろう。地面ですら暗くて見えないはずだ。そこへ向かって倒れこむのはどれほどの恐怖だろう。

 地面と体がどれだけ離れているかもわからないはずだ。そして、ベルンハルトの胴体が地面と衝突した。



「がはっ?!」



 アデルはすかさずベルンハルトの手首を折り曲げ、その手から杖を落とした。

 地面に倒れたベルンハルトへ声をかける。



「しばらく硬いものは食えんぞ」



 アデルはベルンハルトの手首を掴んだままだった。足元で倒れているベルンハルトを見下ろし、その顎を踵で踏み抜いた。

















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