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第二部 第三章
片耳の男
しおりを挟む「これはまずいのう……」
アデルは額に浮かんだ汗を袖で拭い、目を細めた。ベルンハルトと呼ばれていた男が一歩こちらへと進み出てくる。男は被っていたフードを落とし、その顔を顕わにしていた。
骨太のがっしりとした顔つきだ。歳は四十過ぎだろう。よくよく見れば右の耳が欠けてしまっている。右頬には細かな斑点がいくつも刻まれていた。
アデルは左手を上げてベルンハルトを制した。
「これ、落ち着かんか。まさかこんな場所で暴れるつもりではなかろうな?」
「暴れるつもりなどない。すぐに済む」
「アホか! わしを痛めつけるつもりか知らんが、暴力はいかん」
などと言って通じる相手でないのは理解できた。この男はおそらく軍人だったのだろう。頬の斑点は銃を撃つ時に火薬が飛んで出来たものだ。
その体格から察するに、体術のほうも腕が立つのだろう。
アデルはちらりと視線を若い男へ向けた。この男をけしかけた若い男は、机の上に突っ伏してしまっている。どうやら眠気が頂点に達したらしい。
煽るだけ煽っておいて自身は眠りの世界へ行こうとしている。
「これ起きんか馬鹿者!! このアホを止めてやってくれ!」
あの若い男の命令でベルンハルトなる大男が動いているのだ。ならばもう一度命令してもらおうかと思ったが、あの若い男はもはや意識がはっきりしていない。
こうなったら違う方向から争いを止めるしかないだろう。
「これ、ベルンハルトとか言ったな。おぬしのご主人さまは眠ってしまったようじゃ、今なら命令を無視したところで何も怒られはせん。後で適当にわしをぶん殴ったことにしておけばよかろう。そもそも、今晩のことをその若者が覚えておるかもわからん」
「知ったことではない。俺は命令されたことを行うだけだ」
「ならばせめて表に出ようではないか、わしはこの店に迷惑をかけたくないでの」
「いいだろう」
アデルはポケットから財布を取り出し、ロルフのほうへと投げた。
「すまんがロルフ、そこからわしの分を払っておいてくれ」
「それはいいけどアデル、お前……」
「なに、心配はいらん。すぐに済むでな。さて、なんじゃ、ベルンハルトさんよ、外に出ようではないか」
「ああ、ただし、お前が走って逃げるのなら、代わりに痛めつけられる奴が出るかもしれないがな」
「アホか、わしは逃げたりせん」
どうやらバレていたようだ。外に出た後、一目散に逃げてやろうと思っていたのだ。自分が本気で走れば誰も追いつけはしないだろう。
しかも自分には土地勘がある。町の中であればまだ灯りもあるし、こんな男であれば簡単に撒くことができただろう。
しかし、男はこちらが逃げるかもしれないと思ったようだ。
アデルは扉を開けて店の外へと出た。冷たい空気が体を潰しにかかってきた。
「おお、寒いのう」
ベルンハルトも外に出てきたが、特に寒がってはいない。いくらなんでも寒いとは思っているはずだが、いちいちそれを表に出そうとはしないのだろう。
おそらく、多少の痛みが走ってもこの男が表情を変えることはないはずだ。
アデルは頭を掻き、ベルンハルトと距離を取って向かい合った。
「さて、わしを少々痛めつけるよう命令されておったが、痛めつけるというのはどういうことをするんじゃ? 何度か殴るくらいでよいのか?」
「そのつもりだ」
「そうか、酷い奴じゃのう……」
多少殴られて済むのであればそれに越したことはない。ただ、目の前の男はどうも人を殴りなれているように見える。おそらく、この男の拳はなかなか強烈だろう。
頑丈さには自信があるが、打ち所が悪ければ相当な痛みが残るはずだ。もしかしたら治らない怪我を負う可能性もある。
どうしたものか。
居酒屋の中から男たちがぞろぞろと出てきた。その中の一人は松明を持っている。その灯りでこちらを照らしていた。
薄暗かったからちょうどいい。出てきた男たちの中にはロルフとハンスの姿もあった。ロルフは心配そうに表情を曇らせているが、ハンスは暢気なものだ。
「おーいアデル、大丈夫か?」
「ハンス、おぬしは黙っておれ。と、いうかもう帰れ、十分飲んだであろう」
「はぁ? 飲んでたのはお前ばっかりじゃねぇか、俺はまだそんなに飲んでねぇし。そのオッサンさっさとブッ飛ばして飲みなおそうぜ」
「気軽に言ってくれる……」
今まで色々な相手と喧嘩をしてきたが、目の前の男はその中でも上位に入るだろう。思い切りやりあってもすんなり勝てるのかどうか怪しい。
「これベルンハルトさんよ、わざわざ寒い外に出てアホな農夫を殴って、それでおぬしは満足か?」
「俺は命令されたことをするだけだ。もういいのか?」
「ふーむ……」
どうやら話し合いは通じない。いつのまにか観客が湧いてきたようで、居酒屋から出てきた男だけでなく、道を歩いていた男たちまでもが集まり始めていた。
およそ二十人くらいの男が事の推移を見ている。なんとも悪趣味な連中だ。
その中の一人がいきなり大声を上げた。
「ベルンハルト?! もしかしてあの男、片耳のベルンハルトじゃないのか?!」
ふと視線を向けると、居酒屋から出てきた男の一人が目を大きく開いているのが目に入った。どうやらベルンハルトという名前に覚えがあるらしい。
「なんだお前知り合いか?」
「いや知り合いじゃないが……、聞いたことがある。片耳のベルンハルトって言えば有名な傭兵だったはずだ」
「傭兵? そんな男がなんでこんなとこに」
「いやそれは知らんが……、どっちにしても、化け物のように強くて、あの傭兵戦争を生き抜いたとか」
何やら見物客たちが話している。目の前の男はそれなりに有名な人物だったようだ。
アデルは鼻の頭を掻きながら尋ねた。
「ベルンハルトさんよ、なんじゃおぬし有名なようじゃな。そんな人がこんなところで農民を殴って一体何がしたいんじゃ」
「命令されたことをやるだけだ」
「なんじゃい、有名な男とはいえあんな若造の飼い犬か。おぬしはこんなところで農民をいじめて自分の誇りや名が傷つくとは思わんのか?」
「もう御託はいいだろう。いい加減寒い、さっさと終わらせてやる」
ベルンハルトは一度左腰の辺りに手を添えた。それからすぐに左足を前に出すと半身になって構える。左手も右手も軽く開いている。最初から拳を握るわけではないらしい。
こういう相手は面倒くさい。殴るだけでなく、攻撃のために他の手段も持っている。足技、投げ、関節技、どういうものかはわからないが厄介極まりない。
ベルンハルトが地を蹴る。暗がりの中でベルンハルトの体が膨張する。顔面に目掛けてベルンハルトの左手が飛んでくる。
アデルは体を捻って左手を躱した。
「なんと」
殴りかかってくるのではなく、いきなりの目潰しだった。拳を握らず、指先で目を狙ってきたのだ。あわよくば同時に鼻へ掌底を叩き込もうとしていたのだろう。
避けて体勢が崩れたところへ、ベルンハルトはアデルの左わき腹へ右拳を叩き込んだ。
「ぐおっ?!」
こちらの体勢が崩れると最初から読んでいたのかもしれない。右拳を叩き込まれ、アデルは大きく距離をとった。
わき腹を押さえ、目を細める。松明の灯りの中でベルンハルトが薄い笑みを浮かべていた。
アデルは両踵を軽く浮かせ、じりじりとすり足で後ろへと下がる。
「おお、痛い痛い。もうよかろう、こんな良いものを貰ってはもう動けん」
「なかなか硬い奴だな。あれで倒れないとは」
「単なる痩せ我慢じゃ。もうよかろう、おぬしの目的は達せられた」
「いや、まだだ」
ベルンハルトが距離を詰める。さきほどと同じく半身に構えながら、何度か足を細かく継いで間合いを測っていた。
なんとも厄介な男だ。間合いを潰しながらこちらに圧迫感をかけてくる。
「くそっ!」
アデルは思い切り右拳を握り締め、ベルンハルトの顔面に向かって突き出した。だが、ベルンハルトは左手でアデルの右拳を軽く払う。アデルの体が前のめりになったところで、ベルンハルトが右拳をアデルの頬へと叩き込んだ。
アデルの体が薄闇の中へと飛ぶ。ベルンハルトは手を緩めない。距離を取ろうとしたアデルへ足を進め、間合いを詰めたところでさらに拳を繰り出してきた。
「ぬおおっ!」
アデルは両腕を前に持ってきて、次々と繰り出される拳を防いだ。殺しきれない衝撃が腕に伝わってくる。ベルンハルトが足を振り上げた。蹴り、腕で防ぐ。ロルフやジルのような巨体と衝突したかのような荷重が腕を押し流す。
「ぐっ……」
腕がひりひりと痛む。
アデルはベルンハルトを睨みつけながら歯を食い縛った。打撃はどうにか受けていられたが、これ以上ベルンハルトの攻撃を許すと辛いことになるだろう。
打撃ならともかく、投げや極め技を仕掛けられるとまずい。
「これベルンハルトさんよ、もうよかろう。わしは痛くて痛くて泣きそうじゃ。わしを痛めつけるという目的ならもう達したであろう」
「フン……、それだけ受けておいてよく言う」
「そんなもんたまたまじゃ、ほれ、腕が痛くて、これでは明日の仕事に差し支える。腕は農民の数少ない財産じゃ、これ以上痛めつけんでくれ」
そう頼み込んでみるが、ベルンハルトは頬をわずかに持ち上げて笑みを見せるだけだった。暗くてよく見えないが、髪には随分と白髪が混じっているらしい。
歳は四十半ば頃のはずだが、それでもこの強さなのだから若々しいとしか言いようが無い。戦場を生き残った頑健さは未だに健在ということだろう。
「ベルンハルトさん、あんたは戦場で多くの敵と戦ったのであろう。そんな御仁がじゃな、こんなところで農民をいじめて何になるというんじゃ?」
これ以上ベルンハルトに攻撃を許すと、いくら頑丈な自分でも耐え切れないだろう。殴られるとか蹴られるとかならまだ大したことがない。最も怖いのは投げと極めだ。ある程度強い相手にこれを許せば動けなくなる。
ベルンハルトは片方の頬だけをわずかに引きつらせた。単なる冷笑ではなく、そもそも左側の頬しか上手く動かないのかもしれない。
「農民いじめか。そんな遊びなら何度も繰り返してきた。農村を襲わなければ生活が成り立たないんでな」
「……外道じゃのう」
「お前ら農民も生活のために邪魔な雑草は抜くだろう。俺も生活のために雑草を焼いてただけだ。まぁ嗜虐的な趣向を凝らしたことは一度や二度ではないがな。何人か見せしめに吊るしておかないと雑草どもが余計なことをするからな」
ベルンハルトの左頬がさらに持ち上がる。何を考えているのかなど知りたくもないと思えた。
傭兵が農村を襲うなど珍しいことではない。傭兵でなくとも、兵士が遠くで活動するためには大量の食料がいる。それらを得るために弱い者から略奪するのは基本的なことなのだろう。
戦争の影では弱い者たちが虐げられ、奪われ、利用される。
ベルンハルトは間合いを取りながらお喋りを続けた。
「今の雇い主は気が長くてな、ここしばらくは暴れようにも暴れる場所が無かった。だが、今日は少しばかり楽しめそうだ」
「ははっ、弱い者をいたぶって何が楽しいんじゃ?」
「自分が思い通りになる対象が多ければそれだけ愉快だろう。女でも、部下でも、戦場でも、人でも、何でもだ。そもそも、思い通りに壊せるものが何も無い奴ってのはどうやって日ごろの憂さを晴らしてるんだ?」
「決まっておるじゃろう、大切な人と過ごす日々が全てを癒してくれる。頼れる年寄り、信頼できる友、愛すべき女、導くべき幼き者、それらを持つ幸福は何よりも尊い」
「くだらんな。弱者の幻想に過ぎん」
「この歴史の中でその弱者が生きてこられたのは、幸福を、そして他者を求める心があったからじゃ」
「違うな、強い奴が生き残って上に立ち、弱い奴を生かして搾り取ってきたからだ。お前ら農民など家畜や穀物と大差ない、強者のために生かされているだけだ」
「はっはっは、もうよい。何発か殴られて穏便に済まそうかと思っておったが、もうよい。わしはおぬしから少々学ぶとしよう」
アデルは軽く頭を振ってベルンハルトに鋭い視線を向けた。いつの間にか人だかりは増え、今では自分たちを丸く厚く取り囲んでいる。
何かを解決する手段として暴力など用いたくはない。
だが、もういい。
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