名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

文字の大きさ
上 下
494 / 586
第二部 第三章

若い娘さんたち

しおりを挟む


 外の冷たい空気でさえもが今は心地よく感じられた。体の芯に残る熱は今も肌の下に満ちていて、衰えることを知らない。

 吐き出した息が白く濁って空気の中へ消えてゆく。火照った体を冷たい空気に晒しながら、アデルはもう一度大きく息を吐き出した。



「ふぅ、たまらんのう……」



 一人で先に風呂屋の外へと出てしまった。ハンスとロルフはまだ着替えを終えていない。着替えるより先に牛乳を飲んだりと何やら寛いだ様子だった。

 自分としてはすぐさま居酒屋へ繰り出したかったが、のんびりしている二人を急かすのも気が引けた。

 どうも自分は変なところがせっかちなようだ。



 一人で先に火照った体を冷ましていると、後ろから誰かが出てくるのに気づいた。

 ロルフたちが出てきたのかと思ったが違った。



「こんばんはアデルさん」



 出てきたのはマリエだった。小柄な体をわずかに折り、頭を下げている。

 どうやらマリエも風呂屋に来ていたらしい。そばかすがぽつぽつと乗った顔は血色がよく色づいている。茶色の髪はくくっておらず、肩の高さあたりにまでまっすぐ流していた。



「おお、こんばんは。奇遇じゃのう」

「そうですね」



 風呂上りのせいか、マリエの表情はどこか艶かしく見えた。きっと十分すぎるほど風呂に浸かっていたのだろう。

 一人で来たのかと思いきや、マリエの後ろからぞろぞろと女の子たちが出てきた。友達同士で誘い合わせてやってきたのだろう。



 さっきまで自分も浴室にいたわけだが、薄い板の壁を隔てた向こう側にこの娘さんたちが居たのだと思うと妙な気分になってしまう。

 これではハンスと同じだ。アデルは軽く唇を引き締めた。



 そのまま離れていくのかと思ったが、マリエはやや俯いた後で上目遣いにこちらを見上げてきた。

 何か言いたいことがあるのだろうか。どこか小動物じみたマリエにそうやって見上げられると少々どぎまぎしてしまう。



「あ、あのっ、アデルさん!」

「な、なんじゃ?」



 マリエは意気込んだ様子で両拳をぐっと握り締めて胸の前へと持ってきている。そんな風に迫られてついたじろいでしまう。

 どうやら自分に何かを言いたいようだが、その内容がまったく想像できない。

 もしかすると、ハンスに関することだろうか。またハンスに言い寄られて不快な思いをしたから、自分を通じてハンスに何か言って欲しいのかもしれない。



 その線はありそうだ。ここは真面目に話を聞いてやったほうがいいに違いない。



「うむ、何やらわしに言いたいことがあるようじゃな。よければ聞かせてくれんか?」

「あ、はい……、あの……、実はわたし、さっき女湯にいまして」

「ふむ」



 そりゃ男湯にいたら困る。



「そこで、アデルさんたちが話してるのがちょっと聞こえまして」

「聞こえておったのか」



 あの薄い板越しならそれも当然かもしれない。それに仕切りの上のほうは空いているのだから、声くらいなら届くだろう。

 そうなるとハンスの声も向こう側に届いていたはずだ。



「ふむ、ハンスのことかのう? あの細くて眠たげな顔をした男じゃ」

「あ、はい、そうです」



 やはりハンスのことか。ハンスからは何も聞いていないが、町で再びマリエを見かけてしつこく声をかけたのかもしれない。

 それでマリエが迷惑しているというのなら、ハンスには迷惑をかけないようにと伝えたほうがいいだろう。



 マリエは口元を片手で覆うと、もじもじと体を揺らし始めた。それから何度かちらりと上目遣いにこちらを見てくる。

 それを見ていると、自分の推測は間違っているような気がしてきた。迷惑をかけられているのならこんな態度は取らないはずだ。



 よくわからないが、とにかくマリエの話を促したほうがいいだろう。そうしなければ何も判断できない。



「ふむ、で、ハンスがどうかしたのかのう?」

「あの……、あの人がアデルさんの家に行って、それで入れてもらえなかったって大きな声で言ってましたけど……、やっぱり、わざわざ家にまで来たんでしたら、ちゃんと入れてあげるべきだと思います」

「は?」



 予想外の言葉にアデルは顎を落とした。それからすぐに軽く首を振る。予想外ではあったが、マリエが何やら心を決めて話しているのは事実だ。

 そこで自分がこんな態度を取っては失礼だろう。



「ふむ、よくわからんが、あれはハンスが大袈裟に言っておるだけじゃ。ちゃんと入れてやったでな」

「入れたんですか?!」



 マリエがくわっと目を見開いた。そのままこちらに迫ってくる。湯上りの娘さんから白い蒸気が立ち上り、湯に入っていただろうハーブの匂いがふわっと漂ってきた。

 驚いたのはマリエだけではなかった。後ろにいた娘さんたちもにわかに盛り上がり始めている。



 まったく意味がわからない。



「な、なんじゃ? 入れてはまずいのかのう?」

「いえ! 全然大丈夫で! もうガンガン入れてあげてください!」

「お、おお……」



 マリエは拳をぐっと握り締めてそう力説した。一体どうしたというのだろう。この娘さん、実はハンスに対して憎からず思っているのだろうか。こうやってハンスの身を案じてやるくらいだから、悪くは思っていないはず。

 もしそうだとすれば、ハンスにも春が来るかもしれない。



 ハンスもそろそろ着替え終わっているはずだ。この際だからハンスをマリエに会わせてやったほうがいいのかもしれない。



「ところで、ハンスに用があるのであればわしが取り次ぐが」

「あ、いいです」

「……そ、そうか」



 一瞬で断られてしまった。マリエはハンスに対して興味など抱いていないのだろうか。それとも照れているだけなのか、判断はできない。

 ここでは寒いし、一旦風呂屋の中に戻ったほうがいいのではないかと思ったが、マリエが明るい声で別れを告げてきた。



「それではアデルさん、また」

「ああ、うむ、湯冷めせぬよう気をつけるんじゃぞ」



 それに合わせて後ろにいた娘さんたちもマリエの後に続いた。川べりを去ってゆく若い娘さんたちの後姿を見送る。

 若いだけあって随分と元気なようで、きゃっきゃと騒ぎながら夜の町のほうへと歩いていった。







 その後になってようやくロルフとハンスの二人が外へと出てきた。十分に湯を堪能したせいか、二人とも随分と血色が良い。

 まるで茹で上がったばかりの芋のように体から蒸気を噴き出している。

 ハンスは目を細めながら首元を手で扇いでいる。



「ふー、気持ちよかった。あ? どうしたアデル? 暇そうにして」



 その緩んだ顔を見ながら、アデルは顎に手を添えた。マリエがハンスの身を案じていたことをハンスに伝えておくべきか、それとも黙っておくべきか。

 伝えておくと、ハンスは調子に乗ってマリエにグイグイ迫るようなことになるかもしれない。そうなると上手く行くものも上手く行かないだろう。

 ここは黙っておいたほうがいいに違いない。ただ、助言くらいは出来るはずだ。



「ハンスよ、よいか、日々真面目に生き、そして誠実な態度で人に接するようにするんじゃ。そうすればきっと良いことがある」

「は? なんだよいきなり、頭茹で上がってんのか?」

「わからずとも良い、とにかく、あまりグイグイ行かぬよう気をつけるんじゃ。そうすればすぐに春が来る」

「いやこれから冬本番だろ、何言ってんだ」



 アデルはハンスの肩を軽く叩き、ハンスに向かって頷いた。







しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛されなければお飾りなの?

まるまる⭐️
恋愛
 リベリアはお飾り王太子妃だ。  夫には学生時代から恋人がいた。それでも王家には私の実家の力が必要だったのだ。それなのに…。リベリアと婚姻を結ぶと直ぐ、般例を破ってまで彼女を側妃として迎え入れた。余程彼女を愛しているらしい。結婚前は2人を別れさせると約束した陛下は、私が嫁ぐとあっさりそれを認めた。親バカにも程がある。これではまるで詐欺だ。 そして、その彼が愛する側妃、ルルナレッタは伯爵令嬢。側妃どころか正妃にさえ立てる立場の彼女は今、夫の子を宿している。だから私は王宮の中では、愛する2人を引き裂いた邪魔者扱いだ。  ね? 絵に描いた様なお飾り王太子妃でしょう?   今のところは…だけどね。  結構テンプレ、設定ゆるゆるです。ん?と思う所は大きな心で受け止めて頂けると嬉しいです。

完結 お飾り正妃も都合よい側妃もお断りします!

音爽(ネソウ)
恋愛
正妃サハンナと側妃アルメス、互いに支え合い国の為に働く……なんて言うのは幻想だ。 頭の緩い正妃は遊び惚け、側妃にばかりしわ寄せがくる。 都合良く働くだけの側妃は疑問をもちはじめた、だがやがて心労が重なり不慮の事故で儚くなった。 「ああどうして私は幸せになれなかったのだろう」 断末魔に涙した彼女は……

悪役令嬢の双子の兄、妹の婿候補に貞操を奪われる

アマネ
BL
 重度のシスコンである主人公、ロジェは、日に日に美しさに磨きがかかる双子の妹の将来を案じ、いてもたってもいられなくなって勝手に妹の結婚相手を探すことにした。    高等部へ進学して半年後、目星をつけていた第二王子のシリルと、友人としていい感じに仲良くなるロジェ。  そろそろ妹とくっつけよう……と画策していた矢先、突然シリルからキスをされ、愛の告白までされてしまう。  甘い雰囲気に流され、シリルと完全に致してしまう直前、思わず逃げ出したロジェ。  シリルとの仲が気まずいまま参加した城の舞踏会では、可愛い可愛い妹が、クラスメイトの女子に“悪役令嬢“呼ばわりされている現場に遭遇する。  何事かと物陰からロジェが見守る中、妹はクラスメイトに嵌められ、大勢の目の前で悪女に仕立てあげられてしまう。  クラスメイトのあまりの手口にこの上ない怒りを覚えると同時に、ロジェは前世の記憶を思い出した。  そして、この世界が、前世でプレイしていた18禁乙女ゲームの世界であることに気付くのだった。 ※R15、R18要素のある話に*を付けています。

あなた方はよく「平民のくせに」とおっしゃいますが…誰がいつ平民だと言ったのですか?

水姫
ファンタジー
頭の足りない王子とその婚約者はよく「これだから平民は…」「平民のくせに…」とおっしゃられるのですが… 私が平民だとどこで知ったのですか?

オーガ転生~疲れたおっさんが城塞都市で楽しく暮らすようです~

ユーリアル
ファンタジー
世界最強とも噂される種族、オーガ。 そんなオーガに転生した俺は……人間らしい暮らしにあこがれていた。 確かに強い種族さ! だけど寝ても覚めても獣を狩ってはそのまま食べ、 服や家なんてのもあってないような野生生活はもう嫌だ! 「人間のいる街で楽しく暮らしてやる!」 家出のように飛び出したのはいいけれど、俺はオーガ、なかなか上手く行かない。 流れ流れて暮らすうち、気が付けばおっさんオーガになっていた。 ちょこっと疲れた気持ちと体。 それでも夢はあきらめず、今日も頑張ろうと出かけたところで……獣人の姉妹を助けることになった。 1人は無防備なところのあるお嬢様っぽい子に、方や人懐っこい幼女。 別の意味でオーガと一緒にいてはいけなさそうな姉妹と出会うことで、俺の灰色の生活が色を取り戻していく。 おっさんだけどもう一度、立ち上がってもいいだろうか? いいに決まっている! 俺の人生は俺が決めるのだ!

巻き戻り令息の脱・悪役計画

日村透
BL
※本編完結済。現在は番外後日談を連載中。 日本人男性だった『俺』は、目覚めたら赤い髪の美少年になっていた。 記憶を辿り、どうやらこれは乙女ゲームのキャラクターの子供時代だと気付く。 それも、自分が仕事で製作に関わっていたゲームの、個人的な不憫ランキングナンバー1に輝いていた悪役令息オルフェオ=ロッソだ。  しかしこの悪役、本当に悪だったのか? なんか違わない?  巻き戻って明らかになる真実に『俺』は激怒する。 表に出なかった裏設定の記憶を駆使し、ヒロインと元凶から何もかもを奪うべく、生まれ変わったオルフェオの脱・悪役計画が始まった。

モブ兄に転生した俺、弟の身代わりになって婚約破棄される予定です

深凪雪花
BL
テンプレBL小説のヒロイン♂の兄に異世界転生した主人公セラフィル。可愛い弟がバカ王太子タクトスに傷物にされる上、身に覚えのない罪で婚約破棄される未来が許せず、先にタクトスの婚約者になって代わりに婚約破棄される役どころを演じ、弟を守ることを決める。 どうにか婚約に持ち込み、あとは婚約破棄される時を待つだけ、だったはずなのだが……え、いつ婚約破棄してくれるんですか? ※★は性描写あり。

俺の異世界先は激重魔導騎士の懐の中

油淋丼
BL
少女漫画のような人生を送っていたクラスメイトがある日突然命を落とした。 背景の一部のようなモブは、卒業式の前日に事故に遭った。 魔王候補の一人として無能力のまま召喚され、魔物達に混じりこっそりと元の世界に戻る方法を探す。 魔物の脅威である魔導騎士は、不思議と初対面のようには感じなかった。 少女漫画のようなヒーローが本当に好きだったのは、モブ君だった。 異世界に転生したヒーローは、前世も含めて長年片思いをして愛が激重に変化した。 今度こそ必ず捕らえて囲って愛す事を誓います。 激重愛魔導最強転生騎士×魔王候補無能力転移モブ

処理中です...