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第二部 第三章
若い娘さんたち
しおりを挟む外の冷たい空気でさえもが今は心地よく感じられた。体の芯に残る熱は今も肌の下に満ちていて、衰えることを知らない。
吐き出した息が白く濁って空気の中へ消えてゆく。火照った体を冷たい空気に晒しながら、アデルはもう一度大きく息を吐き出した。
「ふぅ、たまらんのう……」
一人で先に風呂屋の外へと出てしまった。ハンスとロルフはまだ着替えを終えていない。着替えるより先に牛乳を飲んだりと何やら寛いだ様子だった。
自分としてはすぐさま居酒屋へ繰り出したかったが、のんびりしている二人を急かすのも気が引けた。
どうも自分は変なところがせっかちなようだ。
一人で先に火照った体を冷ましていると、後ろから誰かが出てくるのに気づいた。
ロルフたちが出てきたのかと思ったが違った。
「こんばんはアデルさん」
出てきたのはマリエだった。小柄な体をわずかに折り、頭を下げている。
どうやらマリエも風呂屋に来ていたらしい。そばかすがぽつぽつと乗った顔は血色がよく色づいている。茶色の髪はくくっておらず、肩の高さあたりにまでまっすぐ流していた。
「おお、こんばんは。奇遇じゃのう」
「そうですね」
風呂上りのせいか、マリエの表情はどこか艶かしく見えた。きっと十分すぎるほど風呂に浸かっていたのだろう。
一人で来たのかと思いきや、マリエの後ろからぞろぞろと女の子たちが出てきた。友達同士で誘い合わせてやってきたのだろう。
さっきまで自分も浴室にいたわけだが、薄い板の壁を隔てた向こう側にこの娘さんたちが居たのだと思うと妙な気分になってしまう。
これではハンスと同じだ。アデルは軽く唇を引き締めた。
そのまま離れていくのかと思ったが、マリエはやや俯いた後で上目遣いにこちらを見上げてきた。
何か言いたいことがあるのだろうか。どこか小動物じみたマリエにそうやって見上げられると少々どぎまぎしてしまう。
「あ、あのっ、アデルさん!」
「な、なんじゃ?」
マリエは意気込んだ様子で両拳をぐっと握り締めて胸の前へと持ってきている。そんな風に迫られてついたじろいでしまう。
どうやら自分に何かを言いたいようだが、その内容がまったく想像できない。
もしかすると、ハンスに関することだろうか。またハンスに言い寄られて不快な思いをしたから、自分を通じてハンスに何か言って欲しいのかもしれない。
その線はありそうだ。ここは真面目に話を聞いてやったほうがいいに違いない。
「うむ、何やらわしに言いたいことがあるようじゃな。よければ聞かせてくれんか?」
「あ、はい……、あの……、実はわたし、さっき女湯にいまして」
「ふむ」
そりゃ男湯にいたら困る。
「そこで、アデルさんたちが話してるのがちょっと聞こえまして」
「聞こえておったのか」
あの薄い板越しならそれも当然かもしれない。それに仕切りの上のほうは空いているのだから、声くらいなら届くだろう。
そうなるとハンスの声も向こう側に届いていたはずだ。
「ふむ、ハンスのことかのう? あの細くて眠たげな顔をした男じゃ」
「あ、はい、そうです」
やはりハンスのことか。ハンスからは何も聞いていないが、町で再びマリエを見かけてしつこく声をかけたのかもしれない。
それでマリエが迷惑しているというのなら、ハンスには迷惑をかけないようにと伝えたほうがいいだろう。
マリエは口元を片手で覆うと、もじもじと体を揺らし始めた。それから何度かちらりと上目遣いにこちらを見てくる。
それを見ていると、自分の推測は間違っているような気がしてきた。迷惑をかけられているのならこんな態度は取らないはずだ。
よくわからないが、とにかくマリエの話を促したほうがいいだろう。そうしなければ何も判断できない。
「ふむ、で、ハンスがどうかしたのかのう?」
「あの……、あの人がアデルさんの家に行って、それで入れてもらえなかったって大きな声で言ってましたけど……、やっぱり、わざわざ家にまで来たんでしたら、ちゃんと入れてあげるべきだと思います」
「は?」
予想外の言葉にアデルは顎を落とした。それからすぐに軽く首を振る。予想外ではあったが、マリエが何やら心を決めて話しているのは事実だ。
そこで自分がこんな態度を取っては失礼だろう。
「ふむ、よくわからんが、あれはハンスが大袈裟に言っておるだけじゃ。ちゃんと入れてやったでな」
「入れたんですか?!」
マリエがくわっと目を見開いた。そのままこちらに迫ってくる。湯上りの娘さんから白い蒸気が立ち上り、湯に入っていただろうハーブの匂いがふわっと漂ってきた。
驚いたのはマリエだけではなかった。後ろにいた娘さんたちもにわかに盛り上がり始めている。
まったく意味がわからない。
「な、なんじゃ? 入れてはまずいのかのう?」
「いえ! 全然大丈夫で! もうガンガン入れてあげてください!」
「お、おお……」
マリエは拳をぐっと握り締めてそう力説した。一体どうしたというのだろう。この娘さん、実はハンスに対して憎からず思っているのだろうか。こうやってハンスの身を案じてやるくらいだから、悪くは思っていないはず。
もしそうだとすれば、ハンスにも春が来るかもしれない。
ハンスもそろそろ着替え終わっているはずだ。この際だからハンスをマリエに会わせてやったほうがいいのかもしれない。
「ところで、ハンスに用があるのであればわしが取り次ぐが」
「あ、いいです」
「……そ、そうか」
一瞬で断られてしまった。マリエはハンスに対して興味など抱いていないのだろうか。それとも照れているだけなのか、判断はできない。
ここでは寒いし、一旦風呂屋の中に戻ったほうがいいのではないかと思ったが、マリエが明るい声で別れを告げてきた。
「それではアデルさん、また」
「ああ、うむ、湯冷めせぬよう気をつけるんじゃぞ」
それに合わせて後ろにいた娘さんたちもマリエの後に続いた。川べりを去ってゆく若い娘さんたちの後姿を見送る。
若いだけあって随分と元気なようで、きゃっきゃと騒ぎながら夜の町のほうへと歩いていった。
その後になってようやくロルフとハンスの二人が外へと出てきた。十分に湯を堪能したせいか、二人とも随分と血色が良い。
まるで茹で上がったばかりの芋のように体から蒸気を噴き出している。
ハンスは目を細めながら首元を手で扇いでいる。
「ふー、気持ちよかった。あ? どうしたアデル? 暇そうにして」
その緩んだ顔を見ながら、アデルは顎に手を添えた。マリエがハンスの身を案じていたことをハンスに伝えておくべきか、それとも黙っておくべきか。
伝えておくと、ハンスは調子に乗ってマリエにグイグイ迫るようなことになるかもしれない。そうなると上手く行くものも上手く行かないだろう。
ここは黙っておいたほうがいいに違いない。ただ、助言くらいは出来るはずだ。
「ハンスよ、よいか、日々真面目に生き、そして誠実な態度で人に接するようにするんじゃ。そうすればきっと良いことがある」
「は? なんだよいきなり、頭茹で上がってんのか?」
「わからずとも良い、とにかく、あまりグイグイ行かぬよう気をつけるんじゃ。そうすればすぐに春が来る」
「いやこれから冬本番だろ、何言ってんだ」
アデルはハンスの肩を軽く叩き、ハンスに向かって頷いた。
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