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第二部 第三章
足踏み
しおりを挟む太陽はすでに地上から姿を消していた。空の端は赤く燃え立ち、その炎だけが地上に光をもたらしている。
影の無い黄昏が村を覆う中、シシィはスティルツの上に乗って立っていた。
ふわふわした金髪は揺れることもなく静止している。シシィは手を伸ばしてアデルの手を軽く握っていた。
スティルツに乗るのが怖いから、アデルの手助けを借りているのだ。
しかし、シシィが何かを恐れている様子はまったく無い。髪の毛ですら揺れることがなく、まるで自身の足で立っているかのようだ。
シシィにとっても初めてのようだし、上手く乗れない可能性もあるかと思っていた。
だが、シシィは安定した様子で歩いている。
その様子を見ているとつい呆れてしまう。
「まったく問題ないではないか」
シシィはアデルに手を引かれながらゆっくりと歩いている。その様は自分の足で歩いているのと変わらないほど危なげが無い。
リディアはつまらなさそうにシシィを見ている。
「シシィ、あんたほんとつまんないわね。そこで笑いを取りに行くくらいのことできないの?」
「リディアを面白がらせるために乗っているわけではない」
シシィはスティルツの上に乗って歩きながらそんなことを言った。恐怖など微塵も感じていないようで、肩にも力が入っていない。
そんなシシィを見て、リディアは溜め息を吐いた。
「はぁ……、こういう時はあれでしょ、すっ転んでスカートぺろーんってやらなきゃ」
そう言うやいなや、リディアは後ろからシシィのスカートに手を伸ばし、その裾を一気にめくりあげた。
「なっ?!」
慌ててシシィがお尻を両手で押さえる。タイツを穿いているのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。シシィは太腿までの長さの靴下を履いていた。
長い靴下がずり落ちないようにするためか、その上の部分にはリボンが通してあり、それを結ぶことができるようになっていた。
いきなりスカートをめくられて、シシィが怒らないわけがない。
シシィはその長いスティルツを蹴り上げた。ヒュンッと鋭い音を立てながら棒が空を切る。
「危ないわねもう」
リディアが涼しい顔でシシィの蹴りを避ける。シシィはなおも脚を振り回し、リディアの体を蹴り飛ばそうとしていた。だが、そのどれも当たらない。
シシィはリディアを追い掛け回していたが、ついに諦めたようだった。
アデルと繋いでいた手はすでに離れていたが、シシィはまったく問題なくスティルツに乗れている。
シシィは少し戸惑ったように視線を一度そらし、それからアデルをちらりと見た。
「見た?」
「いや、わしは隣におったし、背が高いでな、なんにも見えんかった」
「……そう」
シシィは安堵しているのか、それとも残念がっているのかよくわからない反応をしている。
アデルはリディアのほうへと視線を向けると、怒っていることを示すためか眉を吊り上げた。
「これリディア、いきなり人のスカートをめくってはいかん」
「だって、アデルが喜んでくれるかなって思ったんだもん」
反省しているのかわからない態度でリディアがそんなことを言う。
アデルはゆっくりと首を横に振った。
「そんなことで喜ぶわけがなかろう」
「シシィの太腿とかお尻とか見たくないの?」
「そういう話ではなく、シシィがみんなの前で恥ずかしい思いをしておるのに、そんな様子を見て喜ぶのは間違っておるじゃろ」
「そう?」
「そうじゃ」
リディアはそれ以上言い返す気はなかったようだ。しゅんとしている。
シシィはこれ以上スティルツに乗り続ける気もないようで、テーブルの上に腰掛けた。
自分でスティルツを外すこともなく、テーブルに座ったままアデルを見ていた。
その視線に気づいたのか、アデルはテーブルのほうへと近づいて、シシィの脚へと手を伸ばす。
「しかしさすがシシィじゃのう。初めて乗るのに蹴りを出せるとは」
「……大したことではない」
「ははは、謙遜することはなかろう」
アデルはシシィの脚からスティルツを取り外している。その手つきは穏やかで、まるで貴重な物を扱っているかのようだった。
シシィはそんなアデルを見下ろしながらスカートの裾を指で抓んだ。
「あなたが見たいなら……、二人きりの時に、めくってもいい」
「これこれ」
シシィの言葉にアデルは苦笑している。
ソフィは目を細めてシシィの顔を凝視した。
「なんとはしたないことを言っておるのじゃ」
「シシィははしたない女なのよ、いやらしい女なのよ、いやらシシィなのよ」
「いやらシシィとな」
「いやらしい女なのよ」
リディアとそんな話をしていると、シシィは心外とばかりに唇を尖らせた。
「わたしはいやらしくない」
さすがに無理があると思った。
日もすでに暮れようとしていた。太陽の姿はついに見えなくなり、山の裾で足掻くように赤い炎を燃やしている。
空の中央も深く暗い藍色に染まり、その中で星が眠りから覚めて瞬きをしていた。
ソフィはテーブルに立てかけられたスティルツへ視線を移した。
リディアとシシィがやったのだから、次は自分の番だろうか。ただ、自分があんなものに乗れるのかどうかはわからなかった。
背が低い自分にとっては、あの程度の高さでもかなりの高さに感じられるかもしれない。
もし普通に立っている高さで転んだとしても、下手をすれば大怪我をする可能性がある。
あんな棒を足につけていたら、転びそうになっても足を上手く動かせないに違いない。
恐ろしいことこの上ないが、新しい何かに挑戦してみたいとは思う。
リディアはまったく躊躇することなく挑戦していた。自分もこれからの人生で色々な初めてがあるだろう。
それらから逃げ回っていては成長ができない。
怖くはあるが、挑戦してみてもいいかもしれない。
ソフィは唾を飲み込み、息をゆっくりと吸い込んだ。
テーブルのほうへと向かって歩く。怖くはあるが、覚悟は決めた。
アデルに提案しようと思った瞬間、アデルは背を伸ばした。
「さて家に戻るとするか」
それを聞いて思わず転びそうになった。アデルはもう終わったとばかりにスティルツを重ね合わせている。
ソフィはアデルの後ろに立ち、大きめの声で言った。
「次は妾の番なのじゃ」
「いかんいかん、危ない」
アデルは手を振ってこちらの提案を一蹴した。そうやっていきなり拒否されると、折角覚悟を決めたのが無駄になったような気がしてしまう。
ソフィは眉を寄せ、さらに言い返した。
「なんじゃと?! 流れ的には妾の番であろう。妾には乗れぬと言うのか」
「いやいや、危ないじゃろ。もし転んだら大変なことになるではないか」
「リディアとシシィには普通に勧めておったではないか」
「そりゃ二人はあれじゃ、別に体を動かすのが苦手ではないからのう」
「妾も普段から運動をしておるのじゃ」
「いやいや、こんなもの乗れても別に意味などないしじゃな、それよりわし楽器持ってきたから、一緒に楽しく歌おうではないか」
「歌などいらぬ! いらんと言ったらいらんのじゃ!」
あんな楽器を持って帰ってきて何を考えているのかと思えば、やはり自分に歌わせようとしていた。自分の歌が下手なのを知っているのに、なんということを考えているのだろう。
アデルはまだ渋っているようだ。
「ほれ、もう寒いし暗いし、家に入ろうではないか。そんで歌でも歌ってじゃな」
「歌などどうでもよい。妾はそれに乗るのじゃ」
押し問答になりそうだと思っていると、リディアが明るい声で言った。
「あら、いいじゃない。ソフィなら大丈夫よ」
「いやしかし」
「挑戦するのは大事よ。それに、あたしがいるから転んだりしないわよ。転ばないように見てるから」
「む……」
確かにリディアが側にいるのであれば、自分が転びそうになってもすぐ支えてくれるだろう。むしろ転んで地面に落ちるほうが難しいくらいだ。
アデルにもそれくらいのことはわかるだろう。
「うむ……、では少しだけじゃぞ」
アデルはついに折れた。リディアの手助けもあったが、アデルを説き伏せられたのは喜ばしい。
ソフィはテーブルの上に飛び上がって座り、足をぶらぶらと動かした。
「ではアデルよ、妾にもそのスティルツとやらを取り付けるのじゃ」
「それは構わんが、無理はするでないぞ」
「わかっておる、それより妾のスカートをめくりあげるでないぞ」
「するか!」
アデルは苦笑しながらスティルツを取り付けにかかった。足が台に固定され、さらにふくらはぎの辺りを結ばれる。
足が短いせいか、ふくらはぎのかなり上のほうで結ぶことになってしまった。
「よいかソフィ、決して無理をするでないぞ」
「わかっておるのじゃ」
アデルはハラハラした様子でこちらを見ている。そんな心配など無用だということを教えてやらなければいけない。
リディアとシシィも軽々やっていたのだ、自分にだって出来るはずだ。
リディアはソフィの前に出てくると、明るい声で言った。
「じゃあソフィ、そのまま立ってみなさい」
「うむ、妾は立ち上がるのじゃ」
そう言ってからソフィはスティルツの先を地面に置き、ゆっくりと体重をかけた。
椅子から立ち上がるように体重を前にかけたが、上手く立てない。
するとリディアが両手を伸ばし、こちらの腰をがっしりと掴んだ。そのまま引っ張り上げてくる。
「のわっ」
「ま、とりあえずあたしが支えててあげるから、まっすぐ立てるようにしてみなさい」
「う、うむ……」
立ち上がったのはいいが、その高さに思わず怯んでしまう。大したことの無い高さのはずだが、地面は随分と遠くに行ってしまったように感じられる。
思わず腰が引けそうになったが、こういう時は背筋を伸ばしたほうがいいはずだ。
恐ろしくはあったが、ソフィは背を伸ばした。
「そうよソフィ、そんな感じよ。それから足踏みして」
「足踏みとな」
スティルツが足についているせいで、足を持ち上げるのにも少々力が必要だった。リディアに言われた通りに足踏みをすると、倒れそうになる力が無くなってゆくのが感じられた。
おそらく、まっすぐ普通に立つよりも、こうやって体重を移動させているほうが安定するのだ。
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