名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

審美

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 緋色がうっすらと空の中に広がってゆく。力の無い太陽は正午を過ぎた後、すぐさま地平のほうへと向かって高度を落としていた。

 ここ最近の寒さに比べればまだ暖かな空気がゆっくりと流れてゆく。空は高く、筋状の雲が遥かに遠い場所で縞模様を描いていた。

 眼前に広がるのどかな風景を見ながら、ソフィが肩を落としてとぼとぼと歩く。



「はぁ……」



 ソフィは一人で溜め息を吐き、小さな胸をさらに縮めた。空気が抜けてゆくたびに、心が重たくなってゆく。

 それもこれも、予想外の事実によってもたらされたものだった。



「うーむ……、まさか妾が音痴じゃったとは……」



 別に歌を歌うのが得意だと思ったことはないが、下手だとも思っていなかった。しかし、リディアもシシィもカールも、自分の歌を下手だと評した。

 おそらくそれが正しいのだろう。他の人たちに聞かせても、同じような評価を下すに違いない。

 問題は、自分ではどれほど下手なのかがさっぱりわからないということだった。



 しっかり歌えているとばかり思っていたが、他人からすればまったく上手くないのだ。

 自分の感覚と周囲の感覚に違いがあるというのは喜ばしくない。誰だって美しいものや醜いものを予備知識無しに見分けることが出来る。

 同様に、歌の上手い下手もそれなりに判別がつくはずだ。しかし、自分は思っていたよりもそのあたりの感覚が狂っていたらしい。



 リディアが昔言っていたことを思い出す。リディアは自分が美人だと気づいたのは、随分と成長してからのことだったらしい。それを聞いた時は信じられなかったが、今なら少しは気持ちがわかる。

 何が美しいのか、善いことなのか、真実なのか、そういったことはある程度学習しないと区別がつかないのかもしれない。



「しかし、妾とてこのまま引き下がるわけにはいかんのじゃ」



 歌が上手くなりたいというよりは、その辺りの感覚をもっと鋭くしたいと思った。

 論理における真、倫理における善、審美における美、この三つはこれから様々なものを学ぶ中でも無視できない要因のはずだ。いくら自分が正しい論理だと思っても、他人にとって違うのであれば困ってしまう。

 自分が善だと強く信じた何かが他の人たちにとっては悪かもしれない。



 そして、自分が美しいと思うものが人にとって醜いものに思えることもある。

 論理や倫理なら疑う余地もあるが、審美については考えたこともなかった。自分はリディアのことを美しいと思っているし、他の人たちもそう思うだろう。

 しかし、それなりに上手く歌えていると思っていた自分の歌は、他の人にとっては下手なものだった。



「うーむ……」



 もちろん、真善美の捉え方が他人と一致することは無い。それくらいはわかっている。

 もし一致するのであれば世の中の争いはもっと減るに違いない。

 それでもある程度は共通しているはずだ。左右対称な顔や構図は時代を超えて美しいとされているし、意味もなく隣人を殺すのはいかなる土地でも悪だろう。

 正しく導かれた論理もまた世界中で通用するはずだ。



「難しいのう」



 リディアの歌を上手いと思ったし、シシィの歌も良いものだと思えた。おそらく誰もがそう思うはずだ。

 その点において自分は特に感覚がおかしいわけではない。つまり、自分の歌を捉えるという点において何かが間違っているのだ。



 真善美のいずれにおいても、自分自身を客観的に把握するのは難しいのだろう。





 ぼんやり考え事をしていると、いつのまにか家の前にまで辿り着いていた。どうやら体の中に帰り道が染み付いていたらしい。



「あらソフィ、帰ってきたの」



 急に声をかけられて、ソフィは振り向いた。リディアは背中に山のような木材を背負っている。リディアの頭を飛び越えた木材は、縄によって束ねられているようだ。

 普通の女であれば到底背負えないような量の木材を背負っているにも関わらず、リディアは涼しい顔をしている。

 リディアの隣にはシシィがいた。シシィはとんがり帽子を頭に被り、右手には杖を、左手には布にくるまれた棒らしきものを持っている。



 ソフィはリディアの体からはみ出すほどの木材を見ながら尋ねた。



「なんじゃその木は」

「薪よ薪、森で色々とね、木を伐ったりとかそういうことしてたのよ。そのついでに薪もね」

「ふむ、物凄い量じゃのう」

「やっぱり寒さに我慢せずいっぱい使いたいじゃない。沢山あったほうがいいわ」



 リディアの言い分には納得できた。シシィは持っていた杖と棒を外のテーブルの上に置き、一度帽子を脱いで髪を整えている。

 どうやらあの布の中身は剣のようだ。テーブルに置いた時に硬そうな音がした。



「ソフィ、杖持ってる?」

「いや持っておらんが」

「じゃあちょっと持ってきて、ソフィにも手伝ってもらわないと。あ、シシィは家の中暖めといて、アデルが帰ってくる頃には暖かい家じゃないと」

「わかった」



 シシィは特に反論することもなくすんなり受け入れた。どうやら元々そのつもりだったらしい。

 ソフィも家の中に入り、ベッドの横に置いていた自分の杖を持って再び外へ出た。リディアは蔵のほうへと向かって歩いている。



 リディアが背負っている木材は、樽一杯の木材よりも重たいのではないかと思えた。そんなものを平気な顔で背負っているのだから、リディアの体力には驚嘆してしまう。



 蔵の前に立つと、リディアは扉を大きく開いた。どうして蔵の中に木材を運び込むのかはわからない。リディアは木材をぶつけないように注意しながら慎重に蔵の中へと入ってゆく。

 背負うのはいいが、あんなものをどうやって降ろすのだろう。適当に放り投げるつもりでいるのだろうか。



「妾は降ろすのを手伝えばよいのか?」

「降ろすのは大丈夫よ」



 そう言うと、リディアはゆっくりと脚を開き始めた。そのせいでリディアの腰の位置は段々と地面に近づいてゆく。リディアはその状態から背負った木材をゆっくりと降ろした。

 薪は縄で束ねられていたが、それでもポロポロと落ちてゆく。そもそも、大きさがまったく揃っていない。どうやらかなり適当に集めてきたようだ。



「よいしょっと」



 木材を置いたリディアはことも無げに脚を閉じて立ち上がった。

 まったく危なげのない様子を見ているとつい感心してしまう。



「よくもそんなに脚が開くものじゃ」

「何言ってるのよ、こんなの大したことはないわ。ソフィにも出来るようになってもらわないと」

「妾の脚はそんなに開かんのじゃ」

「毎日少しずつ広げていくのよ。運動するのに関節の柔らかさは大事よ」

「ふむ……、しかし股を開くのは痛いのであろう?」

「それを我慢するのよ。小さい時から開脚できるようになっとけば、脚も長くなるわ。背も高くなるわよ」

「ほう……」



 そう言われるとやってみようという気になる。

 リディアは崩れかけていた薪を適当に積み上げると、両手をパンパンと叩いて木屑を落とした。

 薪を降ろすのを手伝うのかと思ったが、どうやら違ったようだ。



「しかしリディアよ、手伝ってくれと言われたが手伝うことなど無いのじゃ」

「あるわよ、大事なことなんだから」

「む?」



 なんだかよくわからないが、自分にはまだやることがあるのだという。杖を持って来いと言われたから、自分の魔法が必要なのだろう。

 シシィに頼まなかったのは、シシィには断られるような内容のことなのかもしれない。



 リディアは壁のほうへと移動し、桶をひとつ手に取った。

 桶をそっと置いた後、リディアは思い出したように肩をぐるぐると回す。あれだけの木材を背負っていたのだから、肩周りも痛くなるだろう。



「さて、じゃあソフィ、魔法でちょっと蔵の中の空気あっためて」



 確かにこの寒さでは辛いだろう。

 ソフィは杖を軽く上げて、魔法で熱風を生み出した。自分にとっては別にどうということのない作業だが、つい文句を言ってしまう。



「人を暖房代わりに使うとは」

「もう、そんなに怒らないでよ。ソフィのおかげで助かってるんだから」

「まったく」



 本当のところは、それほど気にしているわけではない。

 ただ、リディアがこうやって自分を頼る言葉を口にするのが嬉しいだけだった。その言葉が聞きたいために、特に意味の無い文句を言ってしまうのだから自分も幼いかもしれない。

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