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第二部 第三章
Musica puellarum
しおりを挟むシシィが帰ってきてから一週間が経った。その間の日々は平穏そのもので、困った問題など何一つ起こっていない。
平和な日々がゆっくり過ぎてゆくことに、アデルは深く満足していた。
ソフィが昔のことを思い出したことで体調を崩したというが、それ以後のソフィに変わった点は見当たらなかった。シシィも旅の疲れが完全に癒えたらしく、以前と変わり無い。
ソフィは日々勉強や運動に精を出している。今日はお勉強の番のようで、テーブルを挟んでシシィと向かい合っていた。
お昼を過ぎた頃だったが、外の空気は冷たい。暖炉の火はまるで居眠りする猫のように身じろぎさえせず熱を放ち続けている。
アデルは豆の鞘を取り除きながら、ソフィが勉学に勤しむ姿を横目で眺めた。
リディアはアデルのベッドの上でごろんと横になり、何かの本を読んでいる。読むのが遅いのか、それともじっくり読んでいるのか、ページをめくる音は時々聞こえてくるだけだった。
面倒なことも起こらず、平和な村で、平穏を享受している。こういう日々がいつまでも続けばいい。
もちろん働かなければ食べていけないので、色々とやるべきことはある。しかし、こういう平和な午後というのも大切な潤いなのだ。
寒くなってきたせいか、シシィの服装は段々こんもりしてきていた。元々寒いのが苦手なのかもしれない。しかし、そういう格好をすると、胸が大きいせいで随分とずんぐりして見える。
シシィは向かいに座るソフィに対して頷いた。
「ソフィも随分と基礎が出来てきたと思う」
「む? そうかのう」
そう言いながらもソフィはどこか嬉しそうに頬を緩ませている。
シシィは再び頷き、さらに続けた。
「ある程度学問を修めてきたから、次は違う科目を学ぶのもいいかもしれない」
「違う科目というと、どのようなものがあるのじゃ?」
「基本的には、文法、修辞学、論理学を修め、数学、幾何学、天文学、音楽に進む。ソフィは文法についてはもう問題が無い。数学や幾何学の基礎も十分身に着けている」
「ふむふむ、なるほど。ならば天文学や音楽、論理学や修辞学を学ぶということじゃな」
「そうなる。わたしとしては、まず論理学を勉強するのがいいと思う。日常で使われる論理とは違いがあって、少し難しく感じるかもしれないけれど」
「ふむ……、妾も特に順番にこだわりは無いのじゃ。シシィがそれでよいと言うのであれば」
アデルはそこで割り込んだ。
「いや、ちょっと待った」
いきなり話に入ったせいで、シシィもソフィも怪訝そうにこちらへ視線を向けた。
アデルは剥き終えた豆をテーブルの横にどけて、二人の顔を見比べた。ソフィが素直に疑問をぶつけてくる。
「なんじゃいきなり、何の用なのじゃ」
「いや、用というわけではない。ただ、ソフィが日々こうやって勉強を頑張り、シシィに認められるほどになったことを嬉しく思うわけじゃが……。次に学ぶ科目について特に考えが無いのであれば、わしのお勧めをやってみてはどうかと思ってじゃな」
「お勧め?」
ソフィは疑わしそうに目を細めている。
そんな目で見られても、是非ともお勧めしたい科目があった。
アデルはこほんと咳払いをしてから、体を乗り出した。
「わしは音楽を学ぶのが良いと思う」
「音楽じゃと? そんなもの何の役にも立たんではないか」
「いやいやソフィ、音楽は大切じゃ。良き日に音楽はつきもの、祭りともなればやはり音楽が必要になる」
「しかし妾としては先に論理を学んだほうが良い気がするのじゃ」
「ははは、論理学など所詮は同語反復の学問。後回しで十分というものよ。そういう冷たいものより先にこう、心を育むというか、心を豊かにする学問に触れるのもよかろう」
「ふむ……」
ソフィは学ぶ順番に対してこれといってこだわりは無いのかもしれない。もう一押しすれば、ソフィも俄然やる気になってくれるはずだ。
「それにほれ、音楽が得意というのは格好いいであろう。多くの人たちが感心する」
「そういうものかのう」
ソフィはまだ納得がいかないようだった。ここはシシィに声をかけたほうがいいかもしれない。
「のうシシィ、音楽も良いものであろう」
「わたしは構わない。ただ、楽器が無い」
「なに、最初から楽器などなくてもよかろう。いずれわしが調達してやるでな」
撥弦楽器なら借りるアテはある。難しいことは出来ないが、かき鳴らすくらいのことならできる。
打楽器などはそこらへんの物を叩けば代用ができるし、伴奏があればそこそこ楽しめるはずだ。音楽は基本的には繰り返しから成り立っているから、簡単な伴奏をひたすら繰り返し、その中で旋律を歌えばそれだけで様になる。
そんなことを考えていると、段々と興が乗ってきた。音楽のある生活というのはいいかもしれない。
日々を彩るものとしては最適だし、歌うにしても演奏するにしても楽しい。
「ほれソフィ、音楽は実によいものじゃ。わしは音楽を学ぶソフィの姿を見たい」
「ふむ、そこまで言うのであれば妾は別に構わんのじゃ」
「わたしも構わない」
話がまとまり、アデルはほっと胸を撫で下ろした。
「うむ、邪魔をして悪かったのう。ではシシィ、ソフィに音楽を教えてやってくれ」
「わかった」
シシィが小さく頷き、金色のふわふわした髪が揺れた。どことなくやる気を感じる。
二人が音楽に興じる姿を見られるかもしれない。その光景はきっと微笑ましいものだろう。
いずれは楽器を調達して、みんなで歌を歌ったりするのもいいかもしれない。
アデルは微笑みながら二人の様子を見守ることにした。
どうやらシシィの頭の中には音楽に関する知識も入っているらしい。
何かの本を見ることもなく、すらすらと言葉を紡ぎだした。
「音楽に使われる楽音は基本的に対称性を持つ物体の振動から成り立っている。例えば、太鼓であれは円筒形であり、革を円状に張る。これを筒ではなく、底面を半球状にすると楽音としての性質がより強くなる。そして、対称性という点において弦は最も優れている。弦楽器というのは弓の弦から発展したと言われていて、その物的対称性によって噪音ではなく楽音が鳴る」
シシィの説明がはじまり、ソフィはふむふむと頷いた。
さらにシシィの解説は続く。
「そして、弦の半分の部分に指で軽く触れて弦を鳴らすことで、倍音を取り出すことが出来る。これらの倍音を並べ替えたものを音階と言い、音楽によってその数は様々あるけれど、基本的には5音か7音が多い。7音の場合、その音名をドレミファソラシで表す。ある基音を発する弦を半分に分割して倍音を取り出していくと、まず倍音としてオクタウス・ペルフェクトゥス、完全八度が得られる。弦を三分の二で分割した場合は完全五度の音程が得られ」
この辺りでソフィの顔色が曇ってきた。
「完全五度が鳴るように弦を分割すると、基音であるドからソが得られ、ソの音を出す弦を再び三分の二で分割して鳴らすと次はレ、それを繰り返すことでラ、ミ、シ、とドレミソシが得られる。ただ、シの音から完全五度上の音はファではなく、半音上がったフィスになり」
もはやソフィはちんぷんかんぷんの様子だった。
それにも関わらず、シシィはさらに続ける。
「このドレミファソラシドを並べ替えることにより、7つの旋法を作り出すことが出来る。その中からまずは短音としてドリア旋法、長音としてリディア旋法を学び、カントゥス・フィルムス、つまり定旋律を書けるようになるのが音楽を学ぶ上で一番の近道」
「なに? あたしのこと呼んだ?」
リディアという名が出たので、反応したらしい。ベッドでごろごろしていたリディアが顔を上げてシシィを見ている。
シシィは表情ひとつ変えずに応えた。
「呼んでいない。教会旋法のうちのひとつにリディア旋法という名前のものがのがあるだけ」
「ふーん……、あっそ」
興味なさそうにリディアは再び本へと視線を落とした。そういえば、リディアという名前はこのあたりではまず見かけない。
確か異国の土地の名前だったはずだ。
シシィはもうリディアに構う気はないらしく、ソフィのほうへ視線を移してさらに続けた。
「今は駆け足で説明したけど、心配しなくていい。今も言ったように、最初の目標は定旋律を書けるようになること。旋律を書く際の禁則を学び、定旋律を発展させ、やがては対位法の勉強に入る」
「ふむ、さっぱりわからんのじゃ」
「大丈夫、ソフィなら十分理解できる」
「やりながら追々覚えればよいということか」
「その通り、心配しなくてもソフィならきっと出来る」
シシィがそう太鼓判を押した。アデルは椅子からゆっくりと立ち上がり、ごほんと咳払いをした。
「あー、ちょっとよいか」
「なに?」
シシィが小さく首を傾げている。
言う必要があるだろう。アデルは机の上に両手を置いて言った。
「わしが想像してた音楽と全然違う」
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