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第二部 第三章
黄昏の中
しおりを挟む日が暮れるのも早いもので、昼から少し仕事をしただけで空の色は真っ赤に染まっていた。
アデルは通りなれた帰り道を上機嫌で歩きながら、歌を口ずさんだ。
「おーおブント、ブント、わーれらーがブント、ブントシューはーいていーざすーすめーホイッ!」
シシィが帰ってきたのだから機嫌も良くなる。シシィが帰ってこないかもしれないという最も恐れていた事態は無くなり、これからはみんなで楽しく過ごしてゆけるのだ。
冷たい空気でさえ今は心地よく感じる。心の高揚は高らかな歌となってアデルの口から溢れ、誰もいない道の上をアデルの歌声が渡ってゆく。
「わーれらーがブント、おーおわーれらーがブント」
「ねぇ、それって何の歌なの?」
「おわあっ?! な、なんじゃ?!」
誰もいないと思っていたが、木陰から突然リディアが踊りだしてきた。リディアは紅玉のように赤い髪をなびかせて、こちらへと小走りで駆け寄ってくる。
「おお、リディアか……。なんで隠れておったんじゃ」
「ビックリさせようと思って」
リディアは笑みを浮かべ、手を腰の後ろに回した。そんな体勢を取ると、胸のあたりが前に突き出てしまう。
アデルはその豊かな胸につい視線を落とし、それから慌てて空へと視線を移した。
「ああ、いやなに、ただの古い歌じゃ」
「ふーん、いい声で歌ってたから邪魔しちゃ悪いと思ったけど、あのね、話があるの」
「話とな」
リディアは瞼をやや落とし、堅く締まった道へ目を向けた。思案するように口元に手を当てて、唇を閉ざしている。
その憂い顔ですら美しく、時の中に閉じ込めて飾っておきたくなるほどだった。
ただ、リディアの表情には喜びではなく不安がある。気分よく歌っていたが、どうやらリディアの話はその気分を沈めかねないもののようだ。
よい気分に水を差されるのは避けたいものだが、そうも言ってられない。リディアも口ごもって話しにくそうにしている。
こういう時、聞くのが嫌だからとそれを態度に出してはいけない。
「リディア、その話とやらを聞かせてくれると嬉しい」
「うん……」
「なんぞ言いにくいことなのか?」
「うーん、別にそういうわけじゃないんだけど、まぁいいわ、歩きながら話しましょ」
そう言ってリディアはこちらの右隣に立ち、腕を取ってきた。自分の腕がリディアの胸元で抱かれている。ふと伝わってくる柔らかさが、心臓をぎゅっと締め付けた。
リディアに促されてゆっくりと歩き出す。普段のリディアは歩くのが速いほうだが、今日は随分とゆっくりだ。
「あのねアデル、ソフィからお父さんとお母さんのことどれくらい聞いてる?」
「ん? ソフィの両親のことか? それならまぁ聞いておる。母を亡くし、そして父を亡くしたという」
「そうなんだけどね、今日、その辺りの話になったのよ。そしたら、ソフィが急に意識を失って、なんか倒れたっていうか」
「なぬっ?! ソフィは大丈夫なのか?」
急な話に心臓が冷たく凍りつく。血流が止まったような気になって、アデルは努めてゆっくり息を吸い込んだ。
「ソフィは?」
「大丈夫よ、今は元気そうにしてるわ。っていうか、自分が意識を失ったことにも気づいてないっていうか、わかってなかったみたい」
「そ、そうか……」
事態は今ひとつ飲み込めなかったが、リディアが大丈夫というからは大事ではないのだろう。それでも心配にはなる。
おそらくリディアの話はこれで終わりではなく、まだ続きがあるはずだ。
「それで?」
「シシィが言ってたんだけどね、もしかしたら、ソフィは昔の辛いことを、こう、自分でも気づかないように忘れてるんじゃないかって」
「……ふむ」
「だって、お母さんを亡くしただけでも辛いのに、その後ソフィのお父さんはお母さんの後を追って死んじゃったわけでしょ。辛いなんてものじゃないわよ」
「そうじゃな」
母を亡くし、そして父をも失った。そんなソフィは誰もいない神殿の一角で暮らしていたのだ。小さな女の子が、あんな寂しい場所で一人きりだった。
心に負担がかかっていてもおかしくはないだろう。
リディアはこちらの顔をすぐ近くから見つめてきた。
「ソフィは、すっごく大変な目に遭って、それで、辛いことを思い出さないようにしてるんじゃないかって」
「……そうか」
おそらくシシィがそう言ったのだろう。その言葉は正しいのかもしれない。人の心は時として不思議な働きをする。きっと、自分が認識していない部分でも何かが働いているのだ。
辛いことに対してどのような反応を取るのかは、人によって様々だろう。自分もある意味では辛い出来事から目を逸らすために、自暴自棄になったこともあった。
泣いたり怒ったり、色々な対処によって自分の心を守ろうとする。だが、それでも耐え切れない時はどうなるのだろう。
そして、経験が浅い子どもの場合はどうなるのか。
ソフィは過去の出来事を記憶の箱に封じ込めたのだろうか。いかなる光も触れられない場所へ記憶を沈め、すべてが無かったかのように生きてゆく。
小さな子どもにとって、それが自然な心の動きだったのかもしれない。
「しかしよくわからんな、わしが尋ねた時にはそんな反応はせんかったが……」
ソフィは両親のことを自分に語ってくれた。そこに悲壮さは無かった。
リディアはこちらの肩に頭を寄せ、首を小さく振る。
「あたしにもよくわかんない。多分、ソフィが昔のことをあれこれ考えるうちに、変なところまで思い出そうとしたのかも」
「ふむ……、かもしれんな」
そういえば、出会った頃のソフィは自身の両親を亡くしておきながら、それほど悲壮感が無かったような気がする。
居丈高で、お姫さまらしく偉そうにしていた。その様子は置き去りにされた幼な子などではなかったように思える。
その時にはもう辛い記憶を封じていたのだろうか。
あの神殿で孤独に暮らすうちに、ソフィの心は自分を守ろうともがき苦しみ、辛い過去を葬り去ったのかもしれない。
リディアはこちらの腕をさらに強く抱き寄せた。
「だからね、ソフィの昔のことについてあんまり話したりしないほうがいいと思うの。アデルはどう思う?」
「ふむ、わしもそうすべきじゃと思う」
「そうよね、それがいいわよね。だって辛いことがあっても、今も、これからも、ずっと幸せだったらいいんだもの」
「そうじゃな」
失ったものは二度と戻らない。それでも生きてゆかなければいけないのだ。
悲しみなど忘れられるわけもない。後悔しないわけがない。深く傷ついた心はその傷跡をいつまでも残し続けるだろう。
傷が疼いて痛むこともある。悲しい過去とは一生の付き合いになるだろう。
それでも、生きてゆく。
リディアは歩く速度をさらに落とした。このままでは夕日に追い抜かれて、帰る頃には夜になってしまうのではないかと思えてしまう。
「あたしはね、ソフィには幸せになって欲しいわ。シシィもそう思ってるの」
「無論わしもそう思っておる」
「うん、でもね、それは難しいわ」
「……なぜじゃ?」
アデルは眉根を寄せ、リディアの横顔を眺めた。
「だってね、幸せになるには、愛が必要だもの。愛のない幸せなんてないわ」
「ならソフィはいつかそれを手に入れればよい。なに、ソフィならば」
「ダメよ、だってソフィは自分のことを、誰にも話せないもの。ソフィはこれから出会う人みんなにね、自分のことを隠すの。自分の生まれのことも、持っている力のことも、全部隠して、ずっと隠していくの。誰かと仲良くなればなるほど、秘密を抱えてることに罪悪感が出てくるのよ」
リディアはそこまで一気に言ってから、すんと息を吸い込んだ。
「ソフィがかわいそうだわ。ソフィはもう、ありのままには生きられないの。誰もソフィのことを受け止めてくれないわ。ソフィがその気になれば、多分ヴェアンボナみたいな都市だって丸ごと灰に出来るのよ。そんなソフィを、誰が愛せるの?」
「……それは」
以前にも話したことだ。まだ答えは出ていないが、今すぐ答えを出す必要があるとも思えない。
「それはまたいずれ考えればよい」
「そうかもしれないわね」
リディアは素直に同意すると、急に立ち止まった。腕を取られていたアデルもそれに合わせて足を止める。
するりと腕を離し、リディアはアデルの正面に立った。それからアデルの両腰に手を添えると、背を反らしながらゆっくりと距離を詰めてくる。
リディアの腹部がアデルの腰に触れた。その近い距離から、リディアはやや背を反らしてアデルの顔を見上げる。
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