名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

一人の至福

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 鼻の中に幸せが入り込む。あの人の匂い。大好きな人の残り香。

 シシィはベッドの上で横になったまま、アデルの上着を顔に押し当てていた。呼吸をする度にアデルの匂いが鼻腔を満たし、脳の真ん中を揺らす。

 目を閉じて、アデルの上着を顔に押し当て、何度も何度も匂いを嗅いだ。



 色々なことを思い出してしまう。ルイゼに追われたことで、予定よりも帰りが遅れてしまった。復路はやや遠回りの道を選んだので、結果として一週間で帰ることは出来なかった。

 おかげでアデルは随分とこちらの心配をしたらしい。ずっと、自分のことを考えていたようだ。



 きっと心配しているだろうとは思っていた。早く顔を見せてあげれば喜ぶに違いないとは思っていた。

 それでも、さすがにボロボロの姿でアデルの前に現れたくはない。アデルは気にしないかもしれないが、こちらは気にしてしまう。



 そういうわけで、最後に少しだけ余裕を取ることにした。体を綺麗に洗い、髪を整え、ヴェアンボナで買った服に袖を通し、鏡を熱心に覗き込み、香水を付け、出来るだけ綺麗になるよう整えた。

 そのせいで帰りはさらに遅れたが、久しぶりにアデルと会うのだからそれくらいのことはしておきたかった。



 そして、ようやく、一週間以上の時を経て、アデルと再開した。ただの一週間ではなかった。もう二度と会えないのではないかと思うほどの経験をした。

 アデルの姿を見た瞬間に、心がふわっと浮き立った。アデルはこちらへと走り寄ってきて、思い切りこの体を抱き締めてくれた。



 あの瞬間に色々な苦労がすべて吹き飛んでしまったような気がした。暖かさが心地よくて、いつまでも抱かれていたくなる。

 そんな時間だった。





 そして、その後は蔵で二人きりになった。すぐさまアデルの体に抱きついて唇を重ねたかったが、必死で我慢した。こちらからアデルを求めるのも良いが、出来ることならアデルに求めてほしかった。

 物の本によると、男性というのは女性の後姿に惹かれるものらしい。それも、何かの作業をしている女性の後姿が良いのだという。よく理解できなかったが、試してみる価値はあると思った。



 アデルの気配を背後に感じながら、まずはベッドを整えることから始めた。もちろん、アデルからは自分の後姿が見えるように意識していた。

 少し前かがみになると、スカートの裾が持ち上がって、太腿がちらちらと見えるようにもした。



 本に書いてあった通り、どうやらアデルは色々とたまらなくなったようだ。後ろから抱きついてきた。

 それだけで心臓に焼け石が放り込まれたような気分になった。アデルは自分のことをずっと想い続けていたのだろう。その気持ちがじわじわと伝わってきて、体の中をずるずると這いずり回り、全身にまで行き渡った。





 もう自分も色々と我慢が出来なかった。アデルに唇を求められ、こちらも深くアデルを求めてしまった。

 それなのに、アデルはこちらが疲れているだろうと、唇を離したのだ。

 なんて意地悪なのだろうと、アデルを恨む気持ちさえ起こった。こちらの心にはもう火が灯り、今にも燃え上がりそうだったというのに、アデルは冷静になろうとしていたのだ。



 おかげでこちらが先に冷静さを失ってしまった気がしないでもない。アデルの内なる獣を解き放つため、少しばかり恥ずかしいことも口にした気がする。

 ただ、その効果は覿面だった。



 アデルはついにその気になり、こちらを激しく求めてきたのだ。

 思い出すだけで顔が赤くなる。思わずベッドの中で身を捩じらせ、それからシシィは上着の匂いをさらに吸い込んだ。



 指を口に突っ込まれたり、股を開くように言われたりもした。自分がどんどん奪われてゆくようで、興奮した。

 どうせならもっと強く命令して欲しかったが、今はアデルにも遠慮があるのだろう。



 そのままベッドの中で初めてを奪われるところまで行き着くはずだった。

 しかし、不覚なことにアデルに耳を舐められて気を失ってしまった。



「失敗した……」



 あまりに興奮しすぎていた。足に力を入れて耐えていたが、両脚を開いたことでそれもままならなくなった。もはや自分を支えることも出来ず、予想外の責めに倒れてしまった。

 体中に電流が走りぬけ、目の前が真っ白に染まり、その後は急にすべてが真っ暗になってしまった。



「もう少しだった……」



 あれを耐えていれば、アデルは自分の体を押し倒し、服を剥ぎ取り、獣欲のままに自分の体を貪っただろう。そして自分はもっともっとアデルのものになっていた。

 アデルは自分が倒れたことでこちらの体調を心配し、自身の獣を再び檻の中へと閉じ込めてしまった。実際のところ、旅の疲れなどもはや大したことはない。

 昨日はゆっくり休んだし、今朝も体調に変化はなかった。ただ、アデルはそのことを知らないから、旅の疲れが出たのだろうと思ったようだ。





「ふぅ……」



 そろそろ起き上がったほうがいいのかもしれない。今のうちに見られたくない荷物の整理もしておいたほうがいいだろう。

 名残惜しいが、シシィはアデルの上着をゆっくりと顔から離した。変な皺が寄っていないか、返す前に確認しておかなければいけない。



 急に、蔵の扉がドンドンと叩かれた。シシィは肩をビクッと震わせ、アデルの上着を毛布の下へと放り込んだ。誰が来たのだろうと思っていると、扉の向こうからリディアの声がした。





「シシィ? いるの? 開けるわよ」

「待って!」



 思わず大声を出してしまう。急に声を出したものだから、わずかに声が掠れてしまった。もう一度声を出したら、声が裏返りかねない。

 喉の調子を整えてから、シシィは再び声を上げた。



「待って、今出るから」



 そう言ってからシシィはベッドを降りた。とりあえず軽くベッドを整えて、靴にしっかりと足を通し、服の乱れを整える。

 外の空気に触れた途端、体がひゅんと冷えてしまった気がした。

 リディアはここより寒い外で待っているだろうが、リディアなら別に待たせてもいいだろう。そう思ったが、別にリディアの前に出るのにそれほど身づくろいなどする必要もない。

 扉のほうまで歩いていって、シシィは扉を軽く押した。



「さむっ、まったく、寒いったらありゃしないわね」



 そう言いながらリディアはわずかに開いた扉から体を滑り込ませてきた。その勢いのままこちらのほうへと右手を伸ばす。

 リディアの右手がこちらの胸を鷲づかみにした。



「あら、やっぱりチチィのお乳は柔らかくていいわぬぇっ?!」



 リディアは上体を逸らしてこちらの拳を避けた。



「ちっ」

「ちょっと、いきなり殴りかかってくるとか酷いわね!」

「いきなり人の胸を触るほうが悪い」

「触ったんじゃなくて揉んだのよ」

「なお悪い」

「はいはい、あたしが悪かったわ。それよりも、あんたに訊きたいことがあるの」

「わかった、リディアを殴ってから話を聞く」

「なんでよ?!」



 殴りかかってもおそらく避けられてしまうだろう。なんだか急に面倒くさくなって、シシィは溜め息を吐いた。



「首尾については報告しようとは思っていた」



 リディアも、目的が達成されたかどうかが気になっているのだろう。つまり、無事シャルロッテに手紙を届けられたのか、リディアの死を偽装することが出来たのか、それについて知りたいはずだ。

 だがリディアは小さく首を振った。



「あー、まぁそれも気になるけど、それよりね」



 いきなりリディアが近づいてきて、シシィは一歩後ずさった。それ以上リディアが追ってくることはなく、何かに納得したように頷く。



「やっぱり、シシィからアデルの匂いが沢山するわ。それにアデルからもシシィの匂いがしてたのよ」

「……お互いの匂いが混じりあうようなことをしていたから」

「その割にはあれよね、アデルもあんたも淡白っていうか、今ひとつ変わらないわね」

「何が言いたいのかわからない」

「したんじゃないの? 子作り?」

「……していない」

「はぁ? なんで? せっかく二人きりにしてあげたのに」



 リディアは呆れたのか、普段の美しい顔を歪めてこちらを凝視していた。信じられないとばかりに目を細めているが、そんな目で見られても事実は変わらない。



「アデルだって久しぶりにシシィに会ったんだから、こう、盛り上がってたんじゃないの」

「……盛り上がってはいた」

「股間が?」

「そこは、見ていないからわからない」

「いやそんな真面目に答えられても困るけど……。まぁいいわ、とにかく気を落としちゃダメよ」

「別に気にしていない」



 気にはしているが、酷く落胆しているわけでもない。アデルの熱い想いは十分に伝わってきたし、素敵なひと時だったとは思っている。

 まだ焦るような状況ではないはずだ。







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