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第二部 第三章
シシィの思惑
しおりを挟むリディアは馬の体をブラシで丁寧に擦りながら、考え込むように唸っている。
シシィは、実は昨日のうちに帰れたが、わざわざ帰りを遅らせたのだという。そんなことをする意味があるのだろうか。帰れるのなら、早く帰ってくるにこしたことはないはずだ。
そう告げてみたが、リディアはこちらの意見には同意することなく、続きを語り始めた。
「いくらシシィでもね、それなりに旅を続けてたらそりゃ髪もボサボサになるし、色々とお手入れが必要なのよ。ボロボロで帰ってくるのが嫌だったから、とりあえず体を綺麗にしたり、服を着替えたり、そんな時間を作ったのよ」
「なんと?!」
「ソフィ気づいた? シシィね、香水つけてるわよ」
「いや全然気づかんかったのじゃ」
「シシィが出発する前にね、あたしシシィに言ったのよ。ついでだから服とか香水とか下着とか、そういうもの買ったら? って、でもシシィの感性に任せてたら大変なことになりそうだから、控えめにしときなさいとは言っておいたけど」
「ほう、そんなことがあったとは」
「それでシシィはあのチチィの格好で戻ってきたわけだけど、あんな格好で長時間馬になんか乗れるわけないでしょ、膝下が出たような格好で馬に乗ってたら痛いわよ」
「ふむ、確かに」
馬の毛というのはなかなか硬い。素肌と触れ合えば、女の柔肌などすぐ傷つくだろう。あの格好で旅をしてきたわけではない、それは理解できた。
つまり、シシィはリディアの言う通り、身奇麗にしたり服を着替えたり、香水をつけたり、そういったことをする時間を作るためにわざと遅れてきたのだ。
「それに、疲れたままアデルと会うのが嫌だったんでしょ。そんな顔を見せたくなかったのよ。ほら、エクゥとアトを見なさい、十分休んだから今も元気じゃない」
「ふむ……、一理あるのじゃ」
あの二頭もシシィと合わせて休憩をしたのだろう。だからこそ、今二頭のうちの一頭はあの重たいロルフを乗せて走りに行ったのだ。
もしずっと旅を続け、最短で帰ってきたのだとすれば、この馬であっても疲れて休みたがったはずだろう。
そう言われるとリディアの言葉が俄然真実味を帯びてきた。シシィはアデルにみっともない姿を見せるのが嫌で、半日かそこらを使って身奇麗にしたり疲れを癒したりしていたのだ。
きっと、疲れを癒すために村からさほど遠くない町で眠ったのだろう。昨夜はそうして過ごして疲労を取り除き、今朝になって出発、そして到着した。
リディアはこれをすべて見通した上で、あと数時間でシシィが帰ってくると言ったのだ。
「まったくシシィめ、そんなことをしておらんと早く帰ってこればよいではないか。休みたいなら家で休めばよいのじゃ」
「ソフィがそう思うのも仕方ないかもしれないけど、女には色々あるのよ。好きな男の前では綺麗でいたいんだから」
「ふむ……」
リディアの言葉は確かに当を得ている。あの賢いシシィも、恋する乙女ということか。
そして今、恋する乙女は惚れた男と二人きりで。
「って、あの二人は二人きりではないか! いかんのじゃ! これはまずいのじゃ! どうせイチャイチャするつもりに違いないのじゃ!」
「まぁいいじゃない、シシィだって我慢してたんだからちょっとくらい」
「なんと?!」
「二人きりの時間を過ごしてもらえばいいでしょ」
「いやいかんのじゃ、アデルのことじゃ、シシィの胸を見るつもりなのじゃ」
「見ればいいじゃない、チチィも見せたがってるんだから」
「おのれチチィめ! 破廉恥なのじゃ!」
あの破廉恥チチィは今頃アデルとイチャイチャしているのだろう。アデルに嫌がられないように身奇麗にして、香水までつけ、さらに胸元を露出したような格好をしている。
自分の知らないところでそんな計算をしていたとは、シシィ恐るべし。
ソフィはわなわなと震え、今すぐ駆け出そうとした。
「こうしてはおれんのじゃ、今すぐ止めにゆかねば」
「待ちなさい」
「ぐえっ?!」
後ろから襟を掴まれてソフィは倒れこみそうになった。
「人を止めるのに襟首を掴むでない! まったく、何度めじゃ!」
「はいはい、わかったから落ち着きなさい。今はシシィがアデルに甘える番でしょ」
「うぬぬ、そう言われてもじゃな」
「大丈夫よ、何があっても、アデルもシシィもソフィのことを大切にしてくれるから」
「ぬ……」
そうは言われても、何か納得できない。リディアは馬の毛並みをブラシでゴシゴシと擦っている。どうやら毛が随分と絡みつくらしく、リディアはそれらの毛を落としながらさらに馬の体を万遍なく擦っていった。
「ねぇソフィ、最近はアデルも変わってきたと思わない?」
「ん? 髪は薄くなっておらんが」
「髪の話じゃないわよ」
毛のことを考えていたからつい髪の話題だと思ってしまった。ここ最近は髪に絡んだ問題が多かったせいかもしれない。
結局、シラミを退治するためにここ一週間はアデルの目を避けてリディアと髪の手入れに勤しんだのだ。アデルにシラミが移っていないか調べるために、アデルに白髪が生えているなどと嘘を吐いてまでアデルの頭を調べた。
アデルの頭に白髪などさほど無かったので、健康な髪を引き抜くことになってしまったが、髪は暖炉に放り込んだからアデルにはバレていないだろう。
そんな苦労もあってか、今のところはシラミは見つかっていない。油断は禁物だが、もう大丈夫だと思っていいだろう。
髪の話題でないとすれば、何の話題だろうか。
「ほら、アデルはね、一度はあたしたちを追い出そうとしたのよ」
「そんなこともあったのう」
「でも今はシシィがいなくなってあんなにうろたえて」
「情けない限りじゃ」
「そうじゃなくて、それだけあたしたちに愛情を感じてるってことでしょ。もう離したくないって思ってるんじゃない」
「む……、まぁそれはそうかもしれんが」
「アデルもね、段々変わってきてるのよ。今の考え方が絶対じゃないってこと。だからね、アデルもいつかソフィを妹じゃなくて女として見るようになるわ」
「……うーむ」
それは望むところだが、何かが腑に落ちない。
アデルの考え方が変わってきている、その点は納得できないこともない。
だが、その変化はアデルの内から起こったものなのだろうか。
そうなるようにリディアが何かをしたのではないかという疑念が沸き起こる。
そうだとしてもリディアを責められないだろう。自分もまた、アデルの考えを変えようと思っているのだ。
いつだったか、リディアは言っていた。アデルも段々駄目になってくるだろう、と。
目の前に美味しそうなものをぶら下げられて、いつまでも手を伸ばさずにはいられない。そして手を伸ばしたなら、その行為を正当化するようになるだろう。
そうなれば、それはアデルにとっての当然になってゆく。考え方が変わってゆく。
すべては正しい方向に向かっているのだろうか。
未だにリディアを測りかねているせいか、素直に同意することができなかった。
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