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第二部 第三章
待つ身
しおりを挟むアデルは家に向かって歩いた。曇天のせいか、再び気分が沈みそうになってくる。その理由はシシィがまだ帰ってこないこともそうだが、マリエに妙な誤解をされてしまったことも関係している。
実に好ましくない誤解をされてしまっている。そんな話が言いふらされてしまえば自分の評判に大きく関わってしまう。
ただでさえ悪い評判が立っているのに、これ以上余計なものが増えて欲しくはない。
いずれマリエの誤解を解かなければいけないだろう。
ハンスと久しぶりに会えたのはそれなりに嬉しい出来事だったが、まずい事態になってしまった。マリエが妙なことを言いふらさないことを願うばかりだ。
とりあえず、ハンスとはまた会う約束をして町で別れた。さすがに家へ招くわけにはいかないから、居酒屋で飲もうと提案した。
家にいる三人娘について、人に事情を説明しようと思うとなかなかややこしいことになりかねない。少なくとも、そんな面倒ごとに関しては前もって説明できる事情を用意しておかなければいけいないだろう。
それに、男同士で飲むような現場にソフィなど同席させるわけにはいかない。
時には汚らしい話題も出るだろうし、行儀のよろしくないこともするだろう。ただ、久しぶりにそういうことをしてみたいという気持ちはあった。
ソフィと出会ってからは、自分もそれなりに行儀良くするように意識し続けている。言葉遣いもいくらか改め、腹が減っただとか美味いだとか、そういったことも言わないようにしていた。
男として少々軟弱になった気もしないでもない。
ただ、ソフィのためならこの程度のことは出来る。それでもやはり時には男同士で気兼ねなく、気取ることもなく、ただ酒を飲みたいとは思ってしまう。
しかし、それもこれもシシィが無事に帰ってきてからの話だ。
シシィが帰ってこないことには、心が安らかではいられないだろう。
アデルは雲を見上げた。厚みのある雲は空一面を覆っていて、今にも雨を落としそうに見える。シシィもこの雲の下にいるのだろうか。
早く帰ってきて欲しい。
家に辿り着き、アデルは扉を開けようとした。そこで家の中からガタガタと音が立っているのが聞こえた。
何事かと思いつつ家の扉を開けると、ソフィが慌てて椅子に座ろうとしているのが目に入った。リディアは涼しい顔で椅子に座り、足を組んだまま笑みを浮かべている。
「おかえりなさいアデル」
「お、おお……」
ソフィも慌てて椅子に座り、取り澄ますかのように涼しい顔を作っている。なんだろう、何かしていたのだろうか。
あまり深入りするべきではなさそうな気がする。
アデルは家の中を見渡し、どこにもシシィの姿が無いことを確かめた。もしかしたら帰っているのではないかと思っていたが、淡い期待は裏切られたようだ。
「やはりシシィはまだ帰っておらんか」
「もー、アデルったら心配しすぎよ」
リディアは明るい声でそう言ってきた。元気付けようとしてくれているのだろう。そんな配慮をさせてしまったことを心苦しく思う。
自分が軟弱なせいで、二人にも余計な心配をさせているようだ。シシィが帰ってこないだけでも心配なはずなのに、こちらの心配までさせるわけにはいかない。
出来るだけ平静を装うしかないだろう。
アデルはその後、黙々と家事を続けた。庭の落ち葉を集めたり、家の中を掃除したり、料理の下ごしらえをしたり。
そういった作業で気を紛らわそうとしても、時にはふっと顔を上げてシシィの顔を捜してしまう。
結局、この日もシシィは帰ってこなかった。
寝不足のせいか、頭が痛かった。何度も寝返りを打ったせいか、シーツは乱れている。まるで泥の中で目覚めたような気分だった。
体が重たくて、自分のものではなくなったような気がしてしまう。
ベッドから体を起こすだけで、岩を持ち上げるかのような労力を必要とした。
体を家の外へ持っていく。井戸から水を汲もうとして、既に誰かが使った形跡があることに気づいた。おそらくリディアが先に起きて、井戸から水を汲んだのだろう。
アデルは大きく伸びをして、自分の頬を叩いた。汲んだ水で顔を洗い、歯を磨き、とりあえず髪を整える。
そんなことをしていても、シシィのことを考えてしまう。
「どうしておるのじゃシシィ……」
心が苦しい。シシィに何かあったのではないかと思う度に、心臓が締め付けられたかのように痛む。
こんなことなら、シシィを行かせるべきではなかった。後悔が襲ってくる。何か他の方法を提案するべきだっただろうか。
ただ、代わりになるような提案など思いつきはしない。
「はぁ……」
大きく溜め息を吐いたところで、足音に気づいた。もしやシシィかと思い切り振り返ったが、そこにいたのはリディアだった。
思わず落胆の表情を見せそうになって、アデルは表情を引き締めた。
「おはようリディア、今日は早いのう」
「おはよ。アデルはなんだか元気なさそうね」
「そうかのう? わしはいたって元気じゃが」
溜め息を吐いていたところを見られたのかもしれない。心配をかけまいと思っていながらも、こうやって失敗してしまう。
情け無いこと甚だしい。
自己嫌悪でまた気分が落ち込みそうになってしまう。そんなところをリディアに見せるわけにはいかない。
どうにか気を引き締めようと、アデルは背筋を伸ばした。
リディアは足音もなく近寄ってきて、アデルのすぐ正面に立った。距離の近さについドキッとしてしまう。
曇り空の下でも、リディアの顔立ちははっきりと輝いているように見えた。瞳は宝石のように艶やかで、風に揺れる紅の髪はいつもより明るい。
正面から見つめられて、アデルは思わず後ろに仰け反ってしまいそうになった。
リディアは細い顎に手を当てて、わずかに首を傾げた。
「アデル、やっぱり元気ないみたい」
「いやいや、そんなことはない」
「ううん、そんなことないわ。だからね、あたし、アデルに元気になってほしいから、チューしていい?」
「ぬっ?!」
思わず言葉に詰まってしまった。ごくりと唾を飲み込んでしまう。なんとまぁ可愛いことを言ってくれるのだろう。脳が柔らかくとろけ落ちてしまうかと思った。
元気になって欲しいからキスするなど未だかつて聞いたこのない論理だが、この上なく甘美だった。
アデルは言葉に詰まったまま、思わず唇を舌で湿らせてしまった。
リディアのような美女が、自分のような男を元気付けるためにキスしてもいいかと尋ねてきた。魂が天に昇らないよう、必死で自分を握り締める。
こちらが黙っていると、リディアがさらに首を傾げながら尋ねてきた。
「ダメ?」
「そんなわけなかろう」
リディアの言葉に覆いかぶさるかのような早さで言ってしまった。言葉が脳を経由せず、心臓から直接喉へと出てしまう。思考では追いつけないほど早く言葉が出てしまった。
アデルが周囲に視線を配る。誰もいない。ソフィもまだ眠っているのだろう。
再びごくりと唾を飲み込み、アデルはリディアの肩に右手を置いた。
「わしを元気付けてくれようというその心遣い、嬉しくてわしはもう色々と、たまらん」
そう言ってアデルはリディアの肩に置いた手をリディアの首筋に滑らせた。同時に顔を近づけて、目を閉じる。唇をそっと重ね合わせた。
甘い柔らかさが唇から伝わってくる。リディアのような美女に口付けても許されるというのは、この世のあらゆる特権を絶するものに違いない。
触れてもいいのだ、キスをしてもいいのだ。
アデルはそっと唇を離し、それから手をリディアの二の腕のあたりまで滑らせた。
「うむ、元気が出た。ありがとうリディア、わしをこれほど喜ばせてくれて、本当に嬉しい」
「そう? でも、ダメよアデル、だってね、あたしからチューしないと、アデルに喜んでほしいから、あたしからするの」
「む?」
考える間もなく、リディアはこちらに体を寄せてきた。わずかに爪先立ちになって、リディアが顔を近づけてくる。目を閉じるのを忘れてしまった。リディアの唇がこちらの唇に触れてくる。柔らかく押し付けられたその感触に、背筋がピリピリとざわめく。
この一瞬が凍り付けばいいのに、そう思わずにはいられない。
こうやって口付けをされ、体を寄せられている。形を持たないはずの愛情が、形以上の現実となって体中を満たしてゆく。
リディアはそっと唇を離し、上目遣いにこちらの顔を見つめてきた。少し照れているのか、白い肌にはほんのりとした朱色が灯っている。
そんな表情をするのは卑怯だ。
アデルはリディアの体を両手でぎゅっと抱き締めた。手加減すら忘れてしまいそうになる。リディアの体を自分の体に溶け込ませてしまいたい。だがいくら強く抱き締めても、ひとつにはなれない。
「あっ」
リディアの甘く掠れた声が耳を打つ。
このままずっと抱き締めていたいと思えたが、現実はそんな風に出来ていない。
いずれソフィも起きて来るだろう。こんな場面を見られるわけにはいかない。
アデルは皮膚を剥がすかのような痛みと共に、リディアの体をゆっくりと離した。
辛い表情をしてしまいそうになり、慌てて笑みを浮かべる。
「うむ、ありがとうリディア、こうやって励ましてくれて、わしはとても嬉しい」
「元気出た?」
「おう、もちろんじゃとも」
そう言うとリディアも笑みを浮かべた。
辛いところを見せまいとしていたが、リディアには色々と筒抜けだったようだ。そんな自分を元気付けるために、こうやって力になってくれている。
一人では辛い今も、誰かがいることで慰めになるのだ。
リディアがシシィの無事を信じているように、自分もシシィの無事を信じよう。悪い想像が自分を打ちのめそうとしているが、想像は想像であって真実ではない。
あのシシィにとって、一週間ほどの旅などというのは包丁で芋の皮を剥くくらい簡単なことに違いない。
だからきっとシシィは帰ってくる。
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