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第二部 第三章
シシィの帰還
しおりを挟む井戸の前で、アデルは汲んだ水の中に魚を入れた。ソフィにもよく見えるように体を横にずらし、桶の魚を示してやる。
内臓はすでに抜いてあるが、アデルは腹の中に包丁を入れた。
「ほれソフィ、ここに魚の内臓が入っておってな、で、これが魚の体で一番大きな骨になる。ここのところに血合いが溜まっておることがあるから、包丁の先で軽く引っかいてやるとよい」
「ちあい? なんじゃそれは」
「説明するのは難しいが、魚の一番太い血管がこの中骨のすぐ下にあってな、魚が死んだ後、その血が固まっておるのじゃな」
「ほう」
「別に食べられんこともないが、あまり美味しくないので軽く取り除いておくわけじゃ」
そうやって説明していると、ソフィは感心したように頷いた。
魚の捌き方を教えつつ、アデルはソフィの横顔を眺めた。長い黒髪は後ろで束ねていて、料理の邪魔にならないようにしている。
「ところでソフィ、あー、今更あれじゃが」
「なんじゃ?」
どう切り出したらいいのか悩んでしまった。
「あれじゃ、最近はどうじゃ?」
「なんじゃその曖昧な質問は」
「いやほれ、ソフィが何か心配事を抱えてはおらんかとわしは心配でな」
「人の心配を心配するとは」
「うむ、それでじゃな、まず理解しておいて欲しいのは、わしはソフィのことを疎ましくなど思ったりはせんということじゃ」
「その話か」
「その話じゃ」
話そう話そうと思っていたのだが、ソフィの様子を見る限りでは何かとりたてて気にしているようではなかった。二人きりで話さなければいけないと思っていたのだが、色々と仕事に追われているうちに時間は過ぎ去ってしまった。
リディアとソフィの間に亀裂のようなものは見て取れず、前と同じように仲良くしている。それは素晴らしいことがだが、二人の間にどのような会話があったのか知っておきたいとも思う。
あまり深入りせずに見守っておいたほうがよいのかもしれないが、気になるものは仕方が無い。
「別にわしはじゃな、ソフィのことを悪く思ってもおらんし、いなければなどとは思っておらん。それをわしは伝えておきたい」
「わかったのじゃ」
「……わかったのか」
なんてあっさりしているのだろう。別にこってりしていて欲しいわけではないが、こう淡白だと逆に心配になってしまった。
「あー、わしがソフィにいらぬ心痛を与えてしまったことはわしも心苦しく思ってる。その、ソフィがいなければとかではなく、ああいうのはあれじゃ、いくらソフィでもほれ、例えばわしが素っ裸で体を拭いておるところに同席させたくないように、別にソフィが疎ましいからソフィが寝ている間にリディアの元へと行こうとしたわけではない」
「なんじゃ長々と。浮気の言い訳をする男は話が長いとリーゼが言っておったが、まさにその通りではないか」
「リーゼの言葉は置いといてじゃな」
またリーゼから変なことを吹き込まれたのか。教育に悪いこと甚だしい。
何を言うべきか迷っていると、ソフィが先に口を開いた。
「アデルは、妾にここに居て欲しいと思っておるのであろう」
「うむ、その通りよ」
「では妾のことをさっさと嫁にするがよい」
「いやいや話が飛びすぎておるじゃろ」
「飛んでなどおらん。実に堅実に大地を歩んでおるのじゃ」
「そうかのう」
「妾を嫁にすれば、ずっと一緒にいられるではないか」
「う、うーむ……」
自分の気のせいかもしれないが、ソフィは段々と手強くなっているように感じられた。以前ならこちらがそれなりに論理を尽くしておけばソフィを説得できるような気がしていたが、今はソフィを押しても持ちこたえてしまいそうに思えた。
「まず勘違いせんで欲しいが、わしはな、ソフィには幸せな人生を歩んでもらいたいと思っておる」
「ほう」
「ソフィは賢いし、そのまま健やかに成長すれば、実に素敵な女性になるであろう」
「うむ、妾ならばそうなるかもしれんのじゃ」
「そしてじゃな、立派に成長したソフィがわしの元から巣立って行って、ソフィが自分の幸せを掴んでくれればと思っておるわけじゃ」
「妾の幸せは妾が決める。アデルに決められるのであれば、それは間違っておるのじゃ」
「まぁそうかもしれんが、ソフィはまだ幼い。大人や社会のあれこれについてもよく知らん。まずは受け入れて、成長してから色々と判断すればよい」
「妾は今でも幸福なのじゃ。アデルがいて、村ではみんなと平和に過ごすことが出来ておる。では幼い妾が感じておるこの幸せは間違っておるのか?」
「いやそうは言わんが」
「その通りじゃ、いくら妾が幼かろうと、すでに善悪の区別はつくし、大切なものが何であるかくらいは知っておる。今が幸福であることも十分知っておる。今の幸せの延長を望んで何が悪いのじゃ」
「……わ、悪いとは思わんぞ、しかしじゃな」
言葉に詰まってしまう。ソフィはすらすらと言葉を並べ立ててきた。その論理は重たく、覆そうにも自分の力は頼りない。
何か言わねばと思っていると、やはりソフィが先に言葉を並べる。
「アデルは、妾のことを妹の代わりにしておる」
「そんなことはないぞ」
「いや、そうなのじゃ。アデルがアデルの妹にしてやれなかったことを妾にし、そして自分を慰めておる」
「いや……」
「それは別に構わぬ。しかし、妾を妹のように大事にし、いずれ妾を一人の立派な女と認め、妾を嫁にするのじゃ」
「待て待て」
ややこしいことを言い始めた。一番最初については異論はない。ソフィを家族だと思って接するのは容易いことだ。ソフィが一人の立派な女になるのも、いつかはあり得ることだろう。
ただその中には、妹ではなく異性として見るべきだという言外の意味まで含まれているように思えた。簡単には同意できない内容ではある。
そして嫁にしろと続けてきた。
反対しにくい内容を最初に持ってきて、言外の意味を含み、なおかつ同意しやすそうな言葉を続け、最後に主張を持って来たのだ。
ぼーっとしている時だったら、何も考えず順番に頷いてしまっていたかもしれない。
ソフィは眉を怒らせてこちらを睨みつけてくる。
「なんじゃ、妾を妹のように見るのも嫌と言うのか」
「そういうわけではない」
「妾はいずれ美人で賢い女になるのじゃから、アデルは妾を嫁にすることを考えておいたほうがよい」
「ややこしいことを言うでない」
ソフィが才媛になることと、ソフィを娶ることには特に因果関係などない。だがソフィはそれをあっさりと繋げてきた。
自分はまだソフィに言いくるめられるわけにはいかないのだ。
アデルは魚を三枚に卸し終え、身が崩れないようにゆっくりと皿の上へと身を置いた。骨や頭にはまだ利用価値があるから置いておかなければいけない。
後は身に白胡椒を降り、香草を合わせ、油を浸しておくのだ。
ソフィはこちらの作業をずっと見ていたが、これで何かを教えられたのだろうか。
口で説明したわけではないから、淡々と下ごしらえを見せただけになってしまった。別に今すぐソフィに魚の卸し方を覚えて欲しいわけではないから、構わないかもしれない。
ソフィはたっぷりと溜め息を吐き、嘆くように言った。
「アデルはこうやって手を動かしながらでも余裕で妾の相手をすることが出来るのじゃな」
「失礼かもしれんが、手を止めるわけにはいかんでな」
「そういうことを言っておるのではない。わからんのであれば別にわからんでもよい」
「今日のソフィさんはなんじゃ、難しいことを言うのう」
後は片付けをするだけになった。他の下ごしらえもほぼ終わっているし、後はシシィが帰ってきてから調理を始めればいいだろう。
二人で家の中に戻り、リディアが続けていた下ごしらえを手伝った。今日はシシィが帰ってくる日だ。いつごろ帰ってくるのかはわからないが、夕方ごろには帰ってくるだろう。
みんなでお出迎えをして、ご馳走の用意があることを告げればシシィもきっと喜ぶはずだ。
シシィはみんなが平穏に暮らすために、わざわざ遠出をしてくれた。その恩に少しでも報いなければいけないだろう。
夕方になり、そして夜が来た。
シシィは帰ってこなかった。
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