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第二部 第三章
枕を並べて
しおりを挟むソフィは隣にいるリディアの横顔へ目を向けた。暗闇の中ではその輪郭すらも黒に塗りつぶされていて、表情はまったく窺えなかった。
目を細めながらリディアの瞳を見ようとしたが、まったく見えはしない。
リディアは、自分よりももっとアデルのことが好きだと言った。そんなことはありえないはずだ。
自分とアデルの間には積み重ねてきた時間があり、それと同時に想いもどんどん募ってきた。リディアはアデルと出会って間もない。そう簡単に想いの大きさで自分を上回るとは思えなかった。
「どういうことなのじゃ、妾よりもアデルを好いておるとは。そんなことはありえんのじゃ」
「さぁ、どうかしら。どれだけ好きかを測る方法なんて無いけど、でも、多分、ソフィには負けないわ」
「そんなわけがないのじゃ。妾はアデルと出会ってよりこのかた、アデルを想い続けて来たのじゃ。妾は、アデルが望むのであれば、裸でも見せてよいと思っておる」
そう言うとリディアが鼻で笑った。微かにベッドが揺れる。
リディアが息を吸い込み、涼しい声音で言う。
「誰かのためにどこまで出来るかで、どれだけ好きなのかっていう気持ちを測れるとしたら、きっと、あたしはソフィよりももっと沢山のことが出来るわ」
「な、なんじゃと?!」
「少なくとも、あたしはね、アデルのことが好きだけど、アデルがシシィとかソフィと仲良くしててもいいかなって思ってる。だってアデルが喜ぶんだったら、つまらない嫉妬なんかしないほうがいいでしょ」
「いや、それは違うのじゃ」
言ってはみたが、ほぼ反射的に出た言葉だったので後が続かない。
アデルが喜ぶから、嫉妬を抑えろというのか。
「それにねソフィ、アデルはソフィの物じゃないわ。どうしてソフィにアデルをどうこうする権利があるのよ」
「……アデルは、妾が幸せにせねばならん。妾はそう決めたのじゃ」
「答えになってないじゃないの。アデルは優しいから、そうやってソフィのことを大事にしてくれてるわ。アデルの世話になって生活してるんだもの。そうやってお世話になってる人を、なんで縛りつけようとするのよ」
「縛りつけようなどとは思っておらん」
「でもやってることは一緒でしょ。アデルに向かって、自分の言うことを聞け、自分の思うとおりのアデルでいろって迫ってるんだから」
「そ、そんなつもりは無いのじゃ」
言い返す言葉が弱くなる。違うと思いたくても、リディアの言葉は心の中で影になっていた部分を照らし出す。目を背けたくなるような醜さが、影の中から躍り出ようとしていた。
見たくない。違うと否定したい。
「あのねソフィ、アデルは優しいからソフィがそうやって言うのを許してるけど、普通は怒るわよ。なんで子どもにそうやって指図されなきゃいけないの、アデルが働いて、それでソフィは生きていけるのに、文句ばっかり言われて、アデルだっていつか嫌になっちゃうわよ」
「違う、そんなことは」
もちろん、気づいていたことではある。自分は所詮アデルに養われている身であって、家長のアデルにあれこれ言う権利などない。
アデルの度量が自分のわがままを許しているだけだ。例えアデルが何か自分の気に入らないことをしていても、文句を言うのは間違っている。
アデルはいつか自分のことを疎ましく思うかもしれない。その危惧はいつか現実になるだろう。リディアやシシィのほうを好ましく思い、うるさい女の子のことなど気に入らなくなる。
そうなったら、もはや自分はどうやって生きてゆけばいいのかわからない。
「だからねソフィ、アデルが喜んでるんだったら、ちょっとの間目を閉じてればいいのよ。いつか気にならなくなるわ。大体、世の中には自分の気に入らないことなんて砂粒の数ほどあるんだもの」
「違うのじゃ、妾は、それでも」
疎まれるかもしれないと思った。それでも我慢できなかった。
そうやって見ない振りをすればいいのではないかとも思った。
リディアとアデルが睦まじくしているのは、リディアがアデルを好きだからという理由だけで起こっていることではない。アデルも、リディアのことを好いているのだ。
二人きりで仲良くしたいと、アデルも望んでいた。アデルが喜ぶことを、自分が壊した。
リディアは大きく溜め息を吐いた。
「あのねソフィ、ソフィが心配してるのは、アデルが自分から遠くなっちゃうことでしょ」
「妾は」
「心配しなくてもいいわよ、あたしもシシィも、ソフィからアデルを取り上げようなんて思ってないんだから。むしろね、ソフィがちゃんとアデルに愛してもらえるように、いつか女として見てもらえるように、って思って協力するつもりなんだから」
優しい声色がひび割れた心に染み入ろうとしている。その潤いに体を預けたくなる。だが、何か危険な匂いがした。
何かが違うと、心の奥底で声がする。
「アデルはね、我が家の家長なの。お父さんなのよ。心配しなくても大丈夫よ、アデルは娘三人をちゃんと愛してくれて、幸せにしてくれるわ。変な贔屓なんてしないわよ。あたしたちは、そんなアデルに協力して、みんなで仲良く、幸せに生活しなきゃ」
「アデルは父などではないのじゃ」
「あら、家族の生活を支えてくれてて、いつも気を配ってくれてるんだから、同じよ」
そういえば以前にもリディアはアデルのことを父のようなものだと言っていた。シシィでさえも、アデルに対しては父性のようなものを感じているようだ。
二人はまだアデルと歳が近いにも関わらず、アデルを父親のようなものとして捉えている。
その意見にはあまり共感できない。確かに、アデルは父のように兄のように、頼りになる存在で、色々と面倒を見てくれている。ただ、それは今だけのことだ。
いずれはアデルと対等になり、アデルを支え、アデルを幸せにしたい。
この願いはアデルにとっては疎ましいものなのだろうか。
リディアが穏やかな声で尋ねてくる。
「ならソフィは、アデルを手に入れるために、独り占めするために、あたしやシシィと戦うの?」
「っ……」
「今は、ソフィはアデルにとって特別だもの、あたしたちが負けるかもしれないわね」
「……そんな特別に、頼るつもりはないのじゃ」
アデルが自分に抱いている気持ちは、半ば義務を伴ったものなのかもしれない。アデルは自分のように一人では生きていけない幼な子を見捨てたりはしないだろう。
ただそれだけだ。こんな義務に甘えてはいけない。そうでなければ、いつまで経ってもアデルと対等になれない。
けれど、自分が特別でなくなって、アデルと対等になった時、リディアやシシィを相手に争ったところで自分に勝ち目は無いだろう。
もはや二人とアデルの間には分かちがたい絆があり、アデルも二人に対して特別な感情を抱いている。
リディアの理想に乗るのが一番良い選択なのかもしれない。リディアは自分を妹のように思ってくれているし、決して無碍にはしないだろう。
そうすれば、どうなるのだろう。
いつの日か、アデルも考えを変えて、自分を妹ではなく嫁として見るようになるのだろうか。イチャイチャすることも出来るだろうし、愛の言葉を沢山貰えるかもしれない。
それは幸せなことだと思えてしまう。
アデルも、リディアも、シシィも、そして自分もきっと楽しく生きてゆけるだろう。
心が揺らぐ。
これ以上はただの我が侭なのだろうか。
理性はリディアの言葉を肯定しているのに、心の底で何かが引っ掛かってる。
リディアが見えない。
これがもしシシィに言われたとしたら、シシィは本心で言っているのだろうと思えたかもしれない。だが、リディアの言葉は表面を綺麗に飾り立てただけのものに思えてしまう。
言葉の裏側に、そしてリディアの心の奥底に、まだ何か見えないものがある。
それが分からない限り、リディアの言葉に頷くことが出来そうになかった。
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