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第二部 第三章
心の裡
しおりを挟むソフィは鼻から一杯に息を吸い込んだ。夜の匂い。薪が燃える匂い。そして感情を一杯に吸い込む。
息をいつまでも体に留めていられないように、感情も留めてはいられないのだろうか。ソフィは目頭の熱さを堪えながら、まっすぐアデルを見下ろした。
アデルは椅子に座ったまま渋い表情をしている。暖炉の炎に照らされて、普段よりも顔の陰影は濃くなっている。
何か言葉を探しているようだが、アデルの唇はまだ開かない。
こちらがどうして泣きそうな顔をしているのか、アデルにはよく理解できていないのだろう。
鼻から息を吸い込むと、少しだけ水音が混じった。
「アデルよ、妾が言っておることは、妾の立場を考えれば、過ぎたことかもしれん」
「いや、まずは落ち着こう。さぁ、ソフィも椅子に座って、深く腰掛ければよい。そうすれば落ち着くでな」
「いや、妾は座らぬ。それよりも……」
呼吸を一度止める。
「アデルは、妾がいなければ好きなだけリディアと仲良くできる。妾がおらぬほうがよいのか」
「何を馬鹿なことを、そんなことをわしが思うはずがなかろう」
アデルは視線を鋭く尖らせてこちらの言葉を否定した。アデルならこういうだろうという予想はあった。
この言葉を期待していたのも事実だ。
「しかし、妾がこうやって邪魔をしなければ、アデルはリディアの元へ行っていたのであろう。そこで二人だけで楽しもうとしておったのであろう」
「む……、いや、それは」
「そこで、妾とは出来ぬようなことをするつもりであったのであろう」
「……いや、誤解があるようじゃな、ソフィとは出来ぬことというのは、ほれ……、ソフィはまだ幼いわけじゃし」
そこでアデルは視線を逸らした。何かを隠そうとしている。そうに違いない。
怒りよりも悲しみが先に訪れた。
これ以上アデルに何を言えばいいのだろう。
もしこれ以上アデルを責め立てたところで、アデルは本当のことを話そうとはしないだろう。こちらが頑固なことに業を煮やし、やがて怒りを覚えるはずだ。
こんな子どもに問い詰められて、腹を立てないわけがない。
問い詰めれば問い詰めるだけ、アデルの心は離れてゆくのだろうか。
アデルは嘘を語った。今も何かを隠そうとしている。それを問い詰めるべきだろうか。
不安がぞわぞわと広がってゆく。今更になって不安を覚えるのには理由があった。それもこれも、リディアの行動のせいだろう。
リディアがアデルに対して見せた媚態は、リディアの好意がどれほど深いかを物語っていた。
それを見て、不安を覚えた。考えたくはないが、もしかしたらリディアの好意の強さは自分のそれをも上回っているのではないかとさえ思えた。
ありえないことだ。自分のほうがアデルと出会って長いし、積み重ねてきた時間も違う。それでも、リディアの態度は見ていたくなかった。まるで蛭が身をくねらせながらのた打ち回っているかのようで、目を逸らしたくなる。
このままアデルを話していても、意味は無いかもしれない。きっと、アデルはこちらを落ち着かせるための方策を練っているのだろう。
その優しい嘘に騙されれば、どれだけ楽になるだろうか。そうやって嘘のカーテンに包まれて何も見ないまま過ごせれば、どれだけ心が軽くなるだろうか。
それでも、その優しさに甘えたくはなかった。
「アデルよ、妾はリディアと話をしてくる」
「いや待てソフィ、リディアはもう寝ておるじゃろうし」
「そのリディアの元を訪れようとしておったのは誰じゃ」
「う……、うむ」
ただの予感だが、リディアはまだ起きているのではないかと思えた。秋の日は短く、太陽が沈んだといっても時間はさほど遅くない。
ソフィはひとつ息を吐き、靴をしっかりと履き直した。魔法のランタンを片手で掴み、それから扉へと向かう。扉を開けた途端に冷たい空気に襲われた。
この暖かい場所に留まっていられたらと思わずにはいられなかったが、それでも冷たい場所へと行かなければいけないのだろう。
「ソフィ!」
「少し話をするだけじゃ。アデルは何も心配せずともよい」
「いや、そういうわけにはいかんじゃろ」
まだ何かを言おうとしているが、振り切った。冷たい風の中に身を躍らせる。
ランタンに明かりを灯し、大股で蔵のほうへと歩いた。ちらりと振り返ると、アデルが扉の前に立ってこちらに視線を向けているのが目に入った。
空気が冷たく突き刺さる。蔵の前に来て、扉を叩いた。リディアはまだ起きているはずだ。
しばらくしてから、蔵の重い扉がギギッと音を立ててわずかに開いた。中から顔を覗かせたリディアは、眉尻を下げて嘆息した。
「なんでソフィが来るのよ」
「アデルの阿呆でなく残念であろうが、妾はリディアに用があって来たのじゃ」
「そう、まぁいいわ、寒いからさっさと入りなさい」
蔵の中へと入ると、まず花のような匂いがしていることに気づいた。どうやら燃やしている蝋燭に何かの混ぜ物が入っているらしい。
そういう蝋燭はそれなりに高価なはずだ。そんなものを使うということは、リディアもリディアでアデルが来るのを知っていたのだろう。
「リディアよ、アデルと示し合わせてここで会うつもりであったのであろう」
「そんな約束なんかしてないわよ」
「嘘じゃな、そうでもなければそんな良い匂いのする蝋燭など使うはずもなかろう」
「まったく人のこと疑っちゃって、本当よ、別にアデルと約束なんかしてないわ」
リディアは再びそう語った。そこには嘘の匂いが無い。疑われたにも関わらずリディアは特に表情ひとつ変えなかった。肩に掛けたショールを羽織りなおし、扉から外へ顔を覗かせる。
どうやらアデルはまだ家の前で立ち尽くしているらしい。リディアが大声で言う。
「今日はソフィと一緒に寝るわ! 心配しなくても大丈夫よ!」
その言葉にぎょっとしてしまう。別にここで寝るつもりがあったわけではない。
リディアは顔を蔵の中に戻し、扉を閉めた。こちらへ視線を向け、鼻息を吐く。
「で、何なの?」
「大事な用件があるのじゃ」
「そう、ま、続きはベッドでしましょ。もう眠たいし」
「いや、妾は眠るつもりで来たわけではないのじゃ」
そう文句をつけてみたが、リディアは意に介した様子もない。シシィのベッドのほうへ行って、枕をひとつ掴み上げた。
その枕を自分のベッドのほうへと放り投げる。
「子どもがいつまでも夜更かしなんかしてちゃダメでしょ。それに蝋燭がもったいないじゃない」
「魔法のランタンを持って来たのじゃ、明かりは十分にある」
ランタンを掲げて見せたが、リディアはすでにベッドの傍にまで寄ってその縁に腰掛けていた。
人の話を聞かないこと甚だしい。
腰掛けたままリディアが笑みを浮かべる。
「ほら、人の腹を探るつもりなら、懐に飛び込んできなさい」
好戦的な目だった。思わず目を細めてしまう。唇をぎゅっと閉じ、リディアの顔を睨みつけた。
リディアは涼しい顔で足を組んでいる。ここまで来ておいて引き返すわけにはいかない。リディアもそのつもりなら、こちらも応じるまでのこと。
だが、自分が語ろうとしていることは、おそらくリディアの機嫌を大きく損ねるに違いない。姉妹のように仲良くしてきたのに、今からそれを壊しかねないことをしようとしている。
あのベッドへと入れば、もはや逃げ場は無い。リディアが言うように、相手の腹の内を探ろうというのなら、懐に飛び込まなければいけないのだろう。
もしかしたら、アデルだけでなくリディアからも疎まれるかもしれない。敵対していたあの頃から、少しずつ仲を深めてきた。血の繋がりはないが、リディアが姉のような存在であることは確かだ。
リディアは調子の良いことを言うし、軽い態度でいることも多いが、それでも自分のことを大事に思ってくれているのは伝わってきた。
そのリディアが喜んでいるのだから、アデルと何をしようと見逃して、見なかったことにして、目と耳を塞いでいればいいのかもしれない。そうすればリディアも何事も無いかのように振る舞い、今までと同じように良い関係でいられる。
賢い選択がどちらなのかは分かっている。それでも、受け入れられない。
ソフィはベッドに向かって足を進めた。
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