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第二部 第三章
拒絶
しおりを挟むソフィはベッドから起き上がり、足に靴を通した。すぐさま立ち上がり、靴をつっかけたままアデルのほうへと大股で進む。
アデルは驚きに目を丸めつつ、早口で尋ねてきた。
「な、なんじゃソフィ、起きておったのか?」
「おのれアデル、こんな時間に身だしなみなど整えてどうしたというのじゃ」
「いや、別になんということはない。眠る前にわしはちょっとわしの格好良さを確認しておこうかと思ってな」
「ええい! 黙るがよい、妾はすべてお見通しなのじゃ。妾の女の勘を舐めるでない」
「そ、そんな勘はきっと外れておる。ほれ、ソフィはまだ幼いわけじゃし」
「幼かろうが生まれた時からずっと女なのじゃ、勘など研ぎ澄まされてギンギン、アデルの浅い嘘なと一刀両断なのじゃ」
アデルは困ったように目を泳がせている。きっと言い訳の言葉を捜しているのだろう。
その前に釘を思いっきり打ち込んでやらなければいけない。
「隠し立てしても無駄なのじゃ、どうせリディアのところへ行こうとしておったのじゃろう」
「いやいや、そ、そんなことはないぞ」
「そんな誤魔化しが妾に通じるとでも思ったか」
靴をつっかけてアデルににじり寄る。アデルは椅子ごと下がり、両手を胸の高さに上げた。
「お、落ち着けソフィ、何やら誤解が生じておるようじゃ」
「ほう、ならば言うがよい。わざわざ身だしなみを整え、む? なんじゃいい匂いの息を吐きよって、さてはさっきモグモグしておったのはハーブの類か」
アデルの息には何か爽やかな香りが混じっていた。おそらくアニスだろう。口臭をどうにかして、リディアの元へと赴くつもりだったに違いない。
「ええい、さっさと白状するのじゃ」
「ま、まぁ落ち着こうかソフィ。何、わしはあれじゃ、ただ、ほれ、今日一日仕事をして疲れたであろうリディアを労ってやろうとじゃな」
「そんなものは食事中にやっておけばよかろう。アデルの魂胆など全てお見通しじゃ、リディアとイチャイチャするつもりであったのであろう」
「そ、そういうつもりは、まぁ無いとは言い切れんが」
「ようやく白状しおったな!」
夜中にこそこそ出かけて、リディアとイチャイチャするつもりだったのだ。この男、なんということを考えているのだ。
自分というものがありながら、他の女のところへ行こうとしていた。
しかも、こちらが眠ったであろう時を見計らっての所業だ。つまり、内緒にしようとしていた。
段々と腹が立ってくる。臓腑が煮え滾り、何かを吐き出さなければ体が燃え上がってしまいそうだ。
アデルとリディアの関係をどうにかしなければと思っていた矢先に、アデルはリディアとひっそりイチャイチャするために出かけようとしていたのだ。
「おのれアデルめ、妾というものがありながらなんということを」
「いやいや落ち着けソフィ、ほれ、暖炉の前で地団太を踏んでは危ない」
「イチャイチャできれば誰もよいのか?!」
「そういうわけではない、何やら誤解を招いておるようじゃが」
「誤解などひとつも無いではないか」
アデルは言い訳の言葉を探しているのか、おろおろと視線をあちこちに向けていた。
「つまりアデルは、イチャイチャしたくてたまらんというわけじゃな」
「いや、そういうわけではないが……」
「こそこそ身だしなみを整えて口臭対策までして、何を言っておるのじゃ」
「こ、こういうのはほれ、礼儀というか、そういう類のものじゃ。ともかくソフィ、落ち着いて、今夜のことは忘れようではないか、誰にも言ってはいかんぞ」
「口止めじゃと?! なんじゃ、人に知られて困ることをしようとしておいて、なんじゃその態度は」
誰に知られたくないのか。きっとシシィだろう。シシィにこのことを知られれば、アデルは自身の評価が下がると思っているのかもしれない。
なんと卑怯な振る舞いか。
「おのれアデルめ、そんなに女とイチャイチャしたいのであれば、妾とすればよいではないか。リディアとしようとしておったことを妾にするがよい」
「出来るかっ!」
アデルは驚きの中で明確な拒否の言葉を吐いた。言葉が小さな胸に突き刺さる。
「な、なんじゃと……、リディアとはイチャイチャ出来るのに、妾とは出来ぬというのか、そんなはっきりと断りおって」
「あ、いや違う、そういう意味ではなくてじゃな」
「うぬぬ……」
この男はきっぱりと断った。自分とは出来ないことを、リディアとしようとしていた。
悲しみと怒りが入り混じり、瞳から熱い何かが溢れそうになる。この男にまったく相手にされていない悔しさが、リディアに及ばないという絶望が、視界をどんどん狭めてゆく。
その中でソフィは拳を握り締めた。
この拳で殴りつけてやろうかと思った。だが、思いとどまった。
そんなことに意味があるとは思えない。
アデルを睨んだまま直立する。歯を食い縛り、拳を強く握った。この男はリディアやシシィとはイチャイチャするが、自分とはするつもりがない。
キッパリとした拒絶に、アデルの本心が潜んでいた。それもこれも、自分が子どもだからか。
それとも、アデルにとって自分はただの妹に過ぎないのか。
自分が大人になるまで、まだ時間はかかる。その間、アデルはあの二人と仲睦まじくするのだろう。自分のような子どもから隠れて、こそこそとキスをしたりするのかもしれない。
そんなものを、黙って見逃せというのか、許せというのか。これがもし、自分ともイチャイチャしようというのならともかく、アデルにはその気はない。
努力でこじ開けようとしていた未来が、重たい音を立てて閉じてゆく。数千の古語を覚え、文法にも通じたはずだ。幾何学も代数学もほぼ学び終えた。
知識を沢山詰め込み、努力し、それだけでなく体も鍛えるようになった。リディアの特訓にも耐え、体は以前よりずっと強くなった。
それでも、重たい扉を開くだけの力には届かない。
「まぁ待てソフィ、まずは落ち着こう」
アデルは宥めるように優しい声をかけてくる。この優しい声音も、リディアの耳元で囁くつもりだったに違いない。リディアもその声を喜び、体の力を抜いてアデルに寄りかかるのだろう。
ここで自分がアデルの行動に気づかなければ、実際そうなっていたかもしれない。
今頃アデルはリディアの元を訪れ、二人きりの時間を楽しんでいただろう。それを止めたのは自分だ。
だから、アデルにとって自分は邪魔者でしかないだろう。
もしかしたら、アデルはこんな小さな女の子を拾ったことをいつか後悔するかもしれない。
もし自分がいなければ、アデルは気兼ねなくリディアと触れ合うのだろう。こんなうるさい女の子のことなど疎ましく思い、この子さえいなければと思うようになるのかもしれない。
そうなったら、どうなる。自分のような子どもが生きてゆけるのだろうか。
生きてゆくだけならともかく、そこに喜びがあるのだろうか。アデルを失うばかりか、アデルから疎まれ、その後の人生に一体何があるというのか。
想像することを頭が拒否しそうになる。この村でアデルと一緒に生きてゆく、そしてアデルを幸せにする。そう願い、そのために努力してきた。その全ては消え去ってしまうのか。
もしその状況を避けたいのなら、自分が取るべき行動はひとつしかないと思えた。
アデルがリディアやシシィと何をしようが黙って見過ごし、知らない振りをして、邪魔をしないようにする。
そうすれば自分はここにいられるだろう。自分が我慢すれば、全ては丸く収まるに違いない。
アデルもリディアもシシィも喜ぶことだろう。
アデルの世話になっておきながら、アデルがしようとしていることに口を出すのはおこがましいのかもしれない。今までたっぷりと大事にしてもらって、優しくしてもらって、それでもアデルの楽しみを邪魔しようとしている。
頭がひとつの答えを導き出したが、認めることも受け入れることも出来ない。
ならどうすればいいのか。
これ以上アデルを責めても、何かが変わるとは思えない。それどころか、自分が深く傷つくだけだろう。
黙ってアデルの行動を見過ごすのか。知らない振りをしていればいいのか。
そもそも、自分にはこうやってアデルを責める権利などあるのだろうか。
怒りの熱で頭に蒸気が篭り、思考が霞んでゆく。視界は段々とぼやけてきて、まるで水の中から見ているかのようだった。
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