名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

火影に照らせる柔肌

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 アデルはごくりと唾を飲み込んだ。静けさの中で、爪を切る音が一層際立っている。リディアは爪を切り終えようとしていた。

 小指の先を抓まれ、爪切り鋏で爪の先を切られる。これで全ての指を巡り、ようやく切り終わったようだ。



「はい、終わったわよ」



 リディアの明るい声が終わりを告げた。だが、アデルは動けなかった。動きたくないと思った。

 まだリディアの温もりを感じていたいと願ってしまう。脚の間に美女を挟みこみ、さらに両腕を美女の脇の下から前へと伸ばしている。

 これが至福でなくて何だと言うのか。



 ふとリディアが背中を預けてきた。スカーフの端がアデルの頬に触れる。



「終わったわよ」



 リディアはもう一度繰り返した。その言葉の中に、離れてくれという意味は含まれていないと思えた。もしそうなら、こうやって背を預けてくるようなことはないはずだ。



「さて、と」



 立ち上がろうとしたのか、リディアが背中を離した。咄嗟にリディアの体を引き止めてしまう。リディアの体に回した足で、リディアの前に差し出された腕で、しがみついた。

 何をしているのだろうと自分でも疑問に思ったが、リディアの甘美な感触は離しがたくて仕方なかった。



「もう、ダメでしょ。爪の先をちゃんとヤスリがけしないと」

「わかっておる」



 そうは言うが、リディアの体を離すことに抵抗を覚えてしまう。このままリディアの体を貪りたくなってしまう。

 しかし、今はその時ではないはずだ。切り立ての爪ではリディアの肌を傷つけかねないし、それにソフィがいつ帰ってくるかもわからない。



 リディアを離したくはないが、離さなければいけないのだろう。頭ではわかっていても、実行に移すとなれば話は別だった。

 この美人を独り占めしていたい。肌に触れたいと思ってしまう。



「もう、アデルったら」



 呆れたのかリディアの声が漏れる。その声が耳に心地よい。おかげで余計にリディアと離れるのが辛くなってしまう。

 リディアは自分の魅力についてもう少し自覚したほうがいい。目を奪うような容貌だけでなく、その体もまた芸術家の理想の極致を体現したかのような美しさに満ちている。

 しかし、リディアの全ては作り物などではなく、こうやって自分の腕の中に存在している。

 血が通っていて、柔らかくて、暖かい。



 ダメだ、このまま流されてしまってはいけない。リディアも空腹だろうし、それを無視して自分の欲望だけを満たすのは間違っている。

 切り立ての爪は女の肌を傷つけかねない。こんな状況でリディアの体を求めれば、リディアが傷ついてしまうだろう。



 違う、浅ましい欲望でリディアを求めてはいけない。

 無論リディアを離したくはないが、そうしなければいけない。

 アデルは唾を飲み込み、喉の調子を整えた。



「よし、それでは夕食にしようか」



 そう言いながら、アデルは両腕をリディアの脇の下から引き抜いた。両脚を広げて、リディアが立ち上がれるようにしてやる。それでも、リディアはしばらく立ち上がろうとはしなかった。

 細い両肩に手を置いて促すと、リディアが頷いた。



「ちょっと待って、切った爪を集めなきゃ」



 エプロンの上に落ちた爪を手で集めてから、リディアが立ち上がる。温もりが離れてゆくだけで、冬が一足飛びにやってきたような気がしてしまう。

 だが、耐えなければいけない。欲に流されてはいけない。リディアもそれを望んではいないだろう。



 優しくしてほしいと言っていた。少なくとも、男の欲望に任せたようなことは望んでいないはずだ。リディアを傷つけないように、自分は最大限配慮しなければいけない。

 どうにか気合を入れなおそうと、アデルは深く息を吐いた。

 それから立ち上がる。



「さて、まぁその爪は暖炉にでも放り込んでおいてくれ」

「ダメよ、爪なんか燃やしたら臭いでしょ」

「別に気にせんでも」

「ダメ、外に捨ててくるわ。ついでに着替えてくる」

「そうか」



 リディアは家の外に出て行った。一人だけ取り残されたような気分になってしまう。体にはまだリディアの温もりが残っている。その温もりはやがて消えてゆくのだろう。

 惜しいと思う気持ちもあったが、そうやって名残惜しんでいてはいけない。



 スープの具合を確かめ、それから爪を丁寧にヤスリがけしておいた。爪が肌を傷つけないかどうか、自分の腕の内側に当てて何度も確かめる。

 どうやら問題無いようだ。スープをよそい、皿をテーブルに並べる。準備が終わったところで、寝巻きに着替えたリディアが戻ってきた。



「お待たせ」

「おう、ちょうど準備も終わったし、夕食にしようか」



 リディアは三つ編みにしていた髪を解いていて、首の後ろで緩くひとつに束ねている。今日一日三つ編みにしていたのに、その跡は髪に残っていない。

 それだけ髪質が良いのだろうか。



 普段は隣り合って座るが、今日は向かい合って座った。手をかけたスープはなかなかに美味で、作った自分も驚くほどだった。リディアも気に入ってくれたようで、美味しそうに頬張っている。



「ねぇねぇ、最初に玉ねぎを炒めるんでしょ」

「そうじゃな、弱火でじっくりと炒めたほうがよい。今日は少々急ぎ足でやったから、玉ねぎの甘みは今ひとつじゃが」

「そう? 十分美味しいわよ」

「まぁ美味しいことは美味しいが」

「あんまり基準を高くしちゃダメよ、あたしが作った料理が霞んじゃうわ」

「はっはっは、そんな心配はいらん。リディアが作ったというだけで何でも美味しくなる」

「ふふ、そうかしら」



 リディアは機嫌良さそうに笑っている。それを見ていると、これでよかったのだと思えた。空腹だったのか、リディアの食べる量は普段よりも多い。

 この空腹を無視して、自分の欲望だけを満たすようなことをしてはいけない。リディアの心が安らぎ、不安もなく、傷つけられる心配もなく、欲望の捌け口にされるでもない、そんな状況でなければリディアは辛い思いをしかねない。



 幸せにすると、優しくすると、この口が告げたのだ。約束は守らなければいけない。

 とはいえ、リディアを求める気持ちが消え去ったわけではなく、むしろ強まっていくばかりだ。



 寝巻きの胸元が妙に開いているので、ついそこに視線がいってしまう。まるで砂糖に群がるアリのように、視線はそこに集中してしまいそうになった。

 どうにか振り払い、視線をわずかに上げてリディアの顔へと向ける。



 黒パンを手で千切って口に運ぶ。穏やかな酸味と、噛み応えのある食感がほどよい。

 やはりジルの作るパンは良いものだ。あの若さで親方にまで登りつめ、さらに自分の店を持つだけのことはある。

 ご馳走ではないが、こういう日常の食事を噛み締めるのは心の健康に良い。日常の糧にありがたみを感じるとは、まるで聖職者のようだ。

 自分の意思の強さを考えれば、聖職者になっていてもそれなりに成功していたかもしれない。もちろん聖職者になるつもりもないし、成功を求める時点で聖職者としては欲まみれと言わざるを得ない。



 だが、聖職者でなくても自分の心をしっかりと制御する必要はある。

 この調子でしっかりと自分の手綱を引き締めねば。



「ねぇアデル、あーん」

「うおっ?!」



 しみじみと考え事をしていたから、リディアの顔がテーブルの上に乗り出しているのに気づかなかった。リディアは手で千切った黒パンをこちらの顔に向かって差し出している。

 そうやってテーブルに身を乗り出しているものだから、ただでさえ開いていた胸元がさらに開いていた。

 蝋燭の明かりが、リディアの柔肌を優しく照らしている。胸の間に潜む谷間は露わになっていて、その大きな膨らみもわずかに垣間見ることが出来た。

 視線が吸い込まれる。本能がその深い谷間に身を踊らせようとしていた。

 いけない、惑わされてはいけない。そう考えたばかりではないか。



 アデルはどうにか視線を外し、リディアが差し出した黒パンの欠片に目を向けた。

 リディアは微笑んでいる。



「ほらアデル、あーん」

「なんじゃまったく……」



 とは言いつつも頬が緩みそうになってしまう。アデルは口を開いた。そこへリディアがパンを突っ込んでくる。

 リディアの指が唇に触れた。唇でパンを挟み、それから口の中へパンを送り込む。



「ね、美味しい?」

「うむ、さすがジルのパンだけあっていつも通り美味しい」

「それだけ?」

「リディアが食べさせてくれたから、いつもより美味しい気もするな」

「でしょ」



 リディアはそう言って唇の端をわずかに持ち上げた。



「じゃあ今度はあたしに食べさせて」

「は?」

「ほら、あーん」



 リディアはテーブルの上に身を乗り出したまま口を開いた。それだけでなく目まで閉じている。

 蝋燭の明かりがリディアの口の中を照らす。唾液の光沢が舌を覆っている。艶かしい舌の輝きに目を奪われる。スープの油のせいか、唇もつややかだった。

 何より気になるのが、リディアの胸元だった。リディアは目を閉じている。だから、その胸元をまじまじと見てもリディアは気づきもしないだろう。



 男の眼前でこうやって口を開き、さらに目を閉じている。恐ろしくないのだろうかと疑問に思ってしまう。

 誰かの眼前で目を閉じて口を開くなど、何をされるかわかったものではない。リディアはそれだけこちらのことを信頼してくれているのだろう。



 その信頼を裏切ってはならない。アデルはパンを手で小さく千切り、開いたリディアの口へと近づけた。パンの端がリディアの唇に触れると、リディアはさらに身を乗り出してパンに食らいついてきた。

 突然のことにぎょっとしてしまう。さらに、リディアは唇の間にこちらの指まで含んできたのだ。

 柔らかな唇で指を挟まれ、アデルは目を見開いた。リディアの舌が指に触れる。パンを奪い取るかのように、リディアが軽く口を窄めて息を吸った。

 指を吸われたような気分になってしまう。



 リディアは乗り出しいた体を元に戻し、再び腰掛けた。目を開けて、パンを喉の奥へと流し込む。



「うん、美味しいわ」

「そ、そうか……」



 リディアは満足そうに微笑みを浮かべていた。その表情を見ていると心臓の動きが加速してしまう。

 もはや色々と我慢の限界だった。



 いずれソフィが帰ってくるだろう。そして疲れもあってすぐ眠りに就くはずだ。その後、今夜、リディアの元を訪れよう。



 夜這いに行こう。



 そう決めた。









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