名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

永き夜

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 リディアの匂いがふわりと漂う。胸の中から昇ってくるその芳香に頭がくらくらと溶け落ちてしまいそうだった。

 今頃になって夕方に飲んだビールが利いてきたのか、頭の中身が霞んでしまいそうになる。本能だけが残り、この暖かな感触をさらに確かめたくなった。



 一体誰がこんな美女に抱きつかれて理性を保っていられるのだろう。女体の柔らかさを体に押し付けられ、吐息の混じった甘い声で囁かれる。

 耳から入る声が理性を甘い蜜の中へと溶かそうとしていた。



 ごくり、と唾を飲み込む。今は二人きりだ。邪魔は入らないだろう。リディアの体に触れて、強く抱き締めて、リディアのすべてを確かめることができる。

 この世に王侯貴族はいくらでもいるが、自分ほど恵まれた者は他にいないはずだ。



 温もりをもっと得ることが出来たら、どれだけ気持ちがいいのだろう。

 求めずにはいられない。



 アデルはリディアの体を強く抱き締めた。この細い体がさらに細くなるのではないかと思うほど強く。

 夜が家に忍び寄る。リディアの姿が消えてゆくのが惜しくて、輪郭を確かめるように背中を撫でた。

 たまらなくなってさらに強く抱き締めた。



 その途端、リディアの体からぐーっと音が鳴った。思わず瞬きしてしまう。

 今のは明らかに腹が鳴った音だ。



 リディアは体を離し、恥ずかしそうにこちらを見上げた。



「お腹空いちゃった」

「……そ、そうじゃな」



 昼に多少食べたとはいえ、畑の中を歩き回っていれば腹も減るだろう。美女とはいえ腹が鳴るのも仕方が無い。

 ただ、なにもこの状況で鳴らなくてもいいだろうに。



 さすがにリディアが腹を空かせているのに、自分の欲だけを満たすわけにはいかない。まだ時間はある。こちらが焦って、リディアに不快な思いをさせ続けるのもよろしくない。

 それに、腹が鳴り続けるなどリディアにとって恥ずかしいことだ。

 アデルは息を吐きながらリディアから体を離した。



「よし、まずは夕食にするとしようか」

「あたしも手伝うわ」

「うむ、そうと決まればチャチャっと片付けてしまおう」



 そもそも、家の中は暗い。このままでは何も見えなくなってしまう。まだ目が物を捉えられるうちに火を起こさなければいけない。





















 火打石で炭布に火種を落とし、息を優しく吹きかけて火の成長を促す。ほどほどに大きくなったところで藁に火を移し変え、今度は細い木切れに火を落とした。

 暖炉の中で火を成長させてから、今度は蝋燭に火を灯す。家の中は段々と明るくなってきた。薪は静けさに舌打ちを繰り返し、鬱陶しそうに暗闇を少しずつ押しのけてゆく。



 とりあえず、夕食の準備をしなければいけない。ニンニクと玉ねぎを炒めてから水を注ぎ温める。それと平行して短冊に切ったベーコンを炒め、脂をじっくりと取り出す。

 ベーコンが程よく炒められたところで白ワインを注ぎ、焦げ付きを落とした。これら全てをスープの中に放り込み、干してから窯で焼いた鳥の骨を投入する。



 リディアは隣からこちらを覗き込み、ひとつひとつ質問を繰り返した。どうやらリディアは少しでも料理について学ぼうと思っているようだ。



「なんで鳥の骨なんか入れたの?」

「うむ、それはじゃな、鳥の骨から旨味が出るからじゃな。おおむね料理というのは和で成り立っておる」

「わ?」

「つまり、異なるものを上手く合わせることで何倍にもよくなるということじゃ。基本的に肉の旨味と野菜の旨味が合わさると、それぞれ単独より何倍も美味しくなる」

「ふーん……」

「まぁ肉は肉で美味しいし、野菜は野菜で美味しいが、こうやって合わせるとより美味しくなる。肉の旨味というのは骨の髄に宿っておる。これを上手いこと引き出してやればスープは美味しくなる」



 リディアは頷きながら鍋の中身を覗きこんでいる。ゆっくり時間をかけながらスープを温めてゆくと、灰汁が浮かんできた。それを掬い取ろうと、お玉を手に取る。



「あっ、それ知ってるわ。アクを取るんでしょ、あたしがやる」

「ん? そうか、では任せるとしようかのう」



 リディアがやりたいというのなら反対する理由もない。リディアにお玉を渡し、それから水の入った椀を示してやる。灰汁を掬ってから、この水の中にお玉を入れれば灰汁を綺麗に落とすことが出来る。



「沢山浮かんできたわ。大丈夫よ、残さず掬いとるから」

「いや別にそこまで張り切らんでも」



 灰汁に構っていてはキリがない。それに、取らなかったからといって毒になるわけでもない。

 リディアはお玉をスープの中に突っ込んで、灰汁を掬い出した。その動きを見てアデルが目を細める。



「いや、違う」

「え? なにが?」

「その掬い方では無駄が多い、ちょっと貸してみなさい」



 アデルはリディアからお玉を取り上げ、スープの上にお玉を近づけた。



「よいか、灰汁を掬う時はじゃな、こうやってお玉の縁が水平になるようにしておく。それでゆっくり降ろしてゆくと、こう、船が浮くように、お玉にも浮力がかかる。そのままゆっくり沈めるとじゃな、こうやって上に浮いたものだけがすーっと勝手に入る」



 灰汁を掬うためにがばっと横から掬ってしまうと、灰汁以外の汁も入ってしまう。こうやって浮力をかけた状態からわずかにお玉の縁を沈めれば、浮いている部分だけが綺麗に流れ込んでくるのだ。



 リディアは感心したように横から覗き込んでくる。



「ふーん、こんなのを取るのにもコツがあるのね」

「まぁそうじゃな、と、このように灰汁を取り除いたらじゃな」

「って、ちょっと、あたしの取る分が無いじゃない」

「ええっ?」



 リディアがこちら手からお玉を奪い取る。



「見てなさい、コツは覚えたから」

「いやいや、そこまで頑張らんでも」



 熱心に灰汁を取り除かなくても十分美味しい。雑味も味のうちだ。あまり一生懸命に灰汁を取りすぎれば、今度は旨味も捨ててしまうことになる。

 リディアはお玉で灰汁を掬い、そのお玉を水の中に入れてバシャバシャと洗った。



「こんな感じでしょ」

「うむ、それで良い。さて、こうやって灰汁を取ったらもう少しばかり煮込む。その間にパンを用意せねばな」



 とりあえずスープからリディアの意識を外して、今度は黒パンを切り分けた。パン屑はスープの中に放り込んでおく。

 鳥の骨から程よく旨味が出るまで、もう少しかかるだろう。その後は調味して一度沸かし、最後にほんの少しだけオリーブオイルを足して混ぜればいい。





 作り置きの酸っぱいキャベツもあるし、とりあえず普段の夕食としてはこれでいいだろう。あまり質素な食事ばかりでもよろしくないが、普段から贅沢できるほどの余裕はない。

 シシィが帰ってくる日には、少し気合を入れてご馳走を作るとしよう。





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