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第二部 第三章
家畜の王
しおりを挟むあまりに残酷な案だと思えた。ルキウスが紅の勇者に与えようとしている痛苦は、人の形をしたままの自分には想像もできない。ルキウスは世の中の拷問官ですら吐き気を催すような邪悪を一人の女に科そうとしている。
言葉が喉の奥で震えて縮こまっていた。外へ出るのを躊躇う言葉は形を失って飲み込まれる。
ルキウスは機嫌よさそうに微笑みを浮かべ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「そうだ、よいことを思いついたぞ。マリーよ、お前をすべての人の王にしてやろう。人間どもはお前に傅き、忠誠を誓うようになるだろう」
名案だと思ったのか、ルキウスは大きく頷いた。逞しい上半身を惜しげもなく晒し、ルキウスが両手を広げる。
「わたしが、王さまに?」
「その通りだ。マリーには世話になったからな。すべてが終わったらマリーを人間どもの王にすると約束しよう」
自分のような女が貴族になるというだけでも、白く染まった峻厳たる山に登るほど難しいというのに、ルキウスは事も無げに自分を王にするなどと言っている。
そんなことが出来るはずがない。もはや天を掴んで引きずり落とすのと変わらない行為だ。それでも、ルキウスほどの力があればそれは決して夢物語などではないのだろう。
自分のような女には王というものがどういうものなのかよくわからない。ただ偉い人というだけで、そういった人たちが一体どういうことをしているのか知らない。
それでも、王というのが絶大な権力を持ち、好きなように好きなことをしているのだろうというのはわかる。庶民には手も出ないような宝石や服で体を着飾り、すべての者たちから羨望の眼差しを受ける。
「どうだマリー、素晴らしいであろう」
ルキウスは己の名案を誇るかのように胸を張った。この男はきっと約束を守るのだろう。下賎な女に過ぎない自分を、魔王の強大な力で人間の王に押し上げるつもりでいるのだ。
けれど、その人間たちは魔王に蹂躙され、塗炭の苦しみの中で生きながらえる家畜になっている。紅の勇者を憎むため、それを語り継ぐためにだけ生かされる人間たち。
その王が自分なのだという。
例えそのような偽者の王だとしても、絶大な権力が手中に入るだろう。望むものならなんでも手に入るかもしれない。大貴族でもなければ見ることすら出来ないような品々を、自分の物に出来るのだ。
マリーは唾を飲み込んだ。確かにすべてが手に入るのは魅力的だろう。それでも、受け入れられなかった。
「ルキウス、そんなのお断りよ」
この言葉にルキウスが瞬きを忘れてこちらの顔を見つめた。
「何故だ? これほどの褒美ならば喜ぶだろうと思ったが、まだ足りぬというのか」
「違うわ、そんなのじゃない。わたしは、王になんかならないわ。そんな人間達の王さまになるくらいだったら、紡ぎ女として生きていくほうがマシよ」
「マリー、しかし」
「そんなのは間違ってるわ。紅の勇者さまを殺すだけじゃなくて、ただ苦しめて、そのために他の人たちまで酷い目に遭わせるなんて」
ルキウスが眉間に皺を寄せた。剣を研ぐかのように、ルキウスの視線が鋭くなってゆく。歯を噛み締めているのか、ルキウスの顎がやや膨らみ、そして睨みつけるかのように軽く顎を引いた。
空気がずしんと重くなったかのように感じられた。まるで後ろから誰かが飛び乗ってきたかのように、両肩に重みを感じる。足がかたかたと震えた。
詩を諳んじるかのようにルキウスが重たい声を放つ。
「マリー、余がなそうとしていることを否定するというのか」
「っ……、そうよ、あなたは間違ってるわ」
ルキウスが自身の額に手を当てて、そこにかかっていた髪をゆっくりと掻き上げた。
「……少し、調子に乗らせてしまったようだな。まずはマリーを練習台にしてやろうか。いくらかの痛みを知ればすぐに考えを改めるであろう」
ルキウスの怒気が膨らむ。この目の前の男からすれば、自分は地面を這い回る蟻のようなものだろう。踏み潰そうと思えばすぐにでも潰すことが出来る。
子どもが無邪気さゆえに小さな生き物へ残虐な行為を科すように、羽をもぎ取り、足をもぎ取ることも難しくはない。そうやってのた打ち回る生き物を見て愉悦の笑みを浮かべるのだろう。
マリーはぐっと拳を握り締めた。
「あなたの目的はわからないわ。きっと復讐なんでしょうね。でも、そのために関係ない人を大勢巻き込むなんて、間違ってるわ」
「余こそが正義である。すべての法も歴史も、強者の指先から生まれる。間違いなど起こりようはない」
「それでも、間違ってるわ」
「マリー、今なら謝罪すれば許してやろう。馬鹿な考えを捨て、余についてこい」
「嫌よ、家畜の王さまになるのなんて嫌」
「余の強さは知っているであろう。死に急ぐような真似をして何になる」
ルキウスがどれほど強いかはよく知っている。ルキウスからすれば自分など小さな羽虫も同然の存在だろう。そしてルキウスは虫を潰すことに躊躇いなど覚えはしない。
この体が受けるであろう苦痛がどれほどになるのか想像も出来ない。その痛みの前では、自分の考えなど蝋燭の火のように軽く吹き消されてしまい、ルキウスの言いなりになるのだろう。
それだけは我慢がならなかった。
震える足に力を篭めて、マリーがすっと背筋を伸ばす。
「わたしは、あなたの言いなりになんかなりたくないわ」
喉が水を失う。声が嗄れる。声の震えを押さえつけ、マリーがさらに言い放つ。
「わたしじゃあなたに傷ひとつつけられないんでしょうね。でも、もういいわ。もう何回も死んだような身だもの、もういいわ」
マリーは横を向いた。そしてバルコニーの欄干に向かって走る。
「さようなら一人ぼっちの王さま、わたしの体が欲しいなら、わたしの死体でも勝手に犯せばいいわ」
スカートの裾をはためかせて走り、片足を欄干にかける。一気に体を伸ばして、マリーはそのまま空中へと飛び出した。高さがどれほどかはわからなかったが、頭から落ちれば死ねるだろう。
ルキウスに苦痛を与えられ、その中で自分の考えを変えてしまうくらいなら、自分のままで死んでしまいたい。
もう十分だ。両親を失い、苦痛の中で生きてきた。多くの人に苦痛も与えた。自分がこんな生き方をすることになるだなんて、両親がいた頃には想像もできなかった。
これは報いなのだろう。自分の意思ではなかったとはいえ、グッセンの下で悪事も働いた。
穢れた自分は死んだとしても両親とは同じところへ行けないだろう。ずっと一人ぼっちだ。
まるで放たれた矢のように地面が迫る。眼球がじんわりと熱くなった。
頭から落ちれば死ねるだろう。マリーは目を閉じた。
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