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第二部 第三章
苛虐の檻
しおりを挟むスカートをめくられた怒りが収まらず、もう一度軽く殴りつけたが、やはりルキウスは痛みなど感じていないかのようだった。むしろ殴ったこちらの拳が痛いくらいだ。
本当ならこうやって殴りかかった時点で殺されていたかもしれない。下賎な女が一国の君主に殴りかかったのだから、縁者にまで累が及ぶほどの大罪として重い罰を受けたかもしれない。
だがルキウスは機嫌よさそうに笑みを浮かべている。そういえばルキウスがああやって笑うのは初めて見たような気がする。
ルキウスは欄干にもたれたまま、右手に持っていた手ぬぐいをもう一度肩にかけた。
「マリーと出会えてよかった。そうでなければ余は深く暗い怒りの海の中で翻弄されていただろう。怒りの嵐は海面を雲に叩きつけようかというほどに激しく、滝のごとき雨が天地を繋いでいた。だが、マリーと過ごしていくうちにそれらが凪いでゆくのがわかる」
「そう、それはよかったわね」
「ああ、その通りだ。これで余はようやく事に取り掛かることが出来る」
そう言ってルキウスは欄干から離れて軽く首を振った。穏やかな表情でこちらを見下ろしてくる。
「マリー、余は感謝している。その体で、言葉で、余を慰めてくれた。どれほどの褒美を与えればよいのか余には検討もつかぬほどだ」
「先に体が来るあたりがひっかかるけど、まぁいいわ」
ルキウスは唇の端にわずかな笑みの形を浮かべていた。
「余にはひとつの懸念があった。それは、紅の勇者を殺してしまうかもしれないということだ」
「何言ってるの? あなたはそのつもりなんでしょう?」
「そうだ、しかし余の深く激しい怒りによってかの者の命が一瞬で奪われるのは我慢ならぬ。余が怒りに我を忘れて何かをすれば、それだけで周囲の地形が変わるであろう。余はそれを望んではおらん。かといって余には怒りを和らげる術が無かった。だが、マリーのおかげで余はいくらか落ち着いた。これでようやく余は動くことが出来る」
ルキウスはわずかに顔を上げて星の無い空を見上げた。胸中にどのような感情が渦巻いているのかはわからない。
その怒りは何もかもを薙ぎ払う嵐のようで、ルキウス自身にも御すことが出来なかったのだろう。
ルキウスがこちらに視線を向けてくる。
「紅の勇者というのは美人だと聞く」
「らしいわね、ってあなたまさか犯すつもりなの?」
「そんなことをするわけがなかろう」
心外だとばかりにルキウスはわずかに眉間に皺を寄せた。
「余に精を注がれるなど、そのような幸福を与えるわけがなかろう」
「……なんて言っていいかわからないわ」
「怒りに任せて殺すようなことをするつもりはない。まずは生かしたまま捕える。そしてその美しい顔を剥いでやろう。顔の皮を剥ぎ、耳と鼻を削ぎ落とし、眼球を潰してやる。そしてすべての歯を無理矢理引っこ抜いてやろう。皮を剥がれてじゅくじゅくと液体を垂れ流す顔を、白熱するまで熱した焼きゴテですべて焼いてくれる。その上から酸をかけてこの世で最も醜い顔にしてやろう」
「え?」
「死なぬよう気を遣うだろう。だが、余には優れた魔法があり、傷を癒すことが出来る。死なぬように加減をしながら、何度も何度も痛みを与えてやろう。まずは両手両脚の爪を剥ぎ、四肢を端から順番に斬りおとしてやろう。何日もかけて少しずつ、だがそれでも死は訪れたりはしない。体中の皮を剥いで切り開いてやろう。その皮に糸を通して吊り下げ、体中の至るところに塩酸をかけてやる」
「ルキウス、あなた」
「おっと、それだけでは足りぬ。紅の勇者と親しいものたちも同じ目に遭わせてやらねばな。それも紅の勇者の目の前でだ。しまった、目を潰してしまえばそれを見ることが出来ぬな。よし、瞼を切り開いてもう二度と目を閉じることが出来ぬようにしてやろう。この世で最も醜い顔で、愛する者たちが苦しむ様を存分に見せ付けてやらねばな。やがてその者たちも紅の勇者に呪いの言葉を吐きかけるであろう。唾を吐きかけるであろう。誰のせいでそのような責め苦を負うのか理解させてやらねばな」
ルキウスが唇の端をきりきりと持ち上げてゆく。やがて訪れる愉悦にもはや表情を取り繕うことも出来ないようだった。
「おお、そうだ。女の喜びを教えてやらねばな。乞食を集めてその身を孕ませてやろう。やがて誰とも知れぬ子を孕み、その腹の中で育てるに違いない。ある程度大きくなったところでその腹を切り裂き、余が直々に嬰児を取り出してやろう。その嬰児を目の前でぐちゃぐちゃに潰し、それを紅の勇者に食わせてやる」
ルキウスの唇は邪悪に歪む。マリーはこの大気が肩に圧し掛かってきているかのような心地になった。一歩も動けず、重荷を背負ったかのように足がカタカタと震える。
「その名声も奪い去らねばな。まずは人の世に攻め入り、すべての営みを壊してくれよう。切り刻んだ紅の勇者の四肢をあらゆる土地に与え、それに糞尿をかけることが最高の善だと人間どもに教え込んでやる。人の世から歴史と本を奪い去り、ただ紅の勇者を憎むだけの家畜に堕としてやろう」
「ルキウス、あなた」
マリーの言葉で、ルキウスがわずかに表情を和らげた。
「おっと、案ずるな。マリーの村には手出しはせん。むしろ、あの村は人間どもの暮す土地の中でもっとも栄えた場所となるであろう。無論、紅の勇者を憎むのであればな。そうだな、紅の勇者が息絶えた時、余はその肉塊の時を止めて永遠に固定してくれよう。その村にその肉を置き、人間どもの糞尿へ沈めてやろう。その肉に小便をかけるものには褒美を与えるようにすれば、誰も彼もが喜んでそうするであろう。かの勇者は土の重さを永遠に知ることもなく、豚よりも醜い姿で、すべての憎しみを受け続けるのだ。人間どもはそれを語り継ぐだめにだけ生かしておいてやろう」
その光景がありありと脳裏に浮かんでいるのか、ルキウスは再び笑みを浮かべた。
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