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第二部 第三章
朝靄
しおりを挟むマリーは朝靄の中に霞む村を見て目を細めた。冷たい空気が肌を刺したが、それよりも胸の中に灯った懐かしさが体の芯を暖めてくれている。
「わたしの村……」
ここへ来るのは十年ぶりかもしれない。グッセンに買われて以来、訪れることが出来なかった。町からはそれほど離れていないとはいえ、心理的に躊躇いがあった。
マリーは記憶を辿った。小さな頃はそれなりに大きな村だとばかり思っていたが、大人になって訪れるとその印象はまったく違っていた。昔は高いと思っていた塀も、今では軽々と乗り越えられそうに見える。
時間が経っても道なりは変わらないらしい。朝露でしっとりと濡れた道を歩き、マリーは昔自分が住んでいた家へと向かった。
隣を歩くルキウスは、少し眠たそうに歩いている。意識して気を抜くようにしていると言っていたが、これがその状態なのかもしれない。
昨日の晩のように威厳と怒りに満ちた態度より、こちらのほうがまだ好ましい。そのルキウスは目を細めたままあちこちへ視線を向けている。
「ふむ、あまり裕福ではないようだな」
「それは、そうかもしれないけど」
ルキウスは口元を覆ってひとつ欠伸をした。昨日、あの屋敷を出てからルキウスと共に安宿へと向かった。ルキウスは疲れていたのかベッドに入るなり眠りこけてしまった。
マリーも心理的な疲れが色々と溜まっていたせいか、すぐさまルキウスの後を追った。おかげで随分と早く目が覚めてしまった。
軽い朝食を摂った後、ルキウスはマリーが昔住んでいた村へ行こうと提案をしてきた。どうやら借金を完済したという契約書を村の代表者に届けるつもりでいたらしい。
あの村へ帰るというのは、自分にとっては悲願のひとつだった。それが果たされようとしているのに、喜びよりも何かしらの恐怖が勝った。
あの村は一体どうなってしまったのだろうと心配になってしまう。
だが、村はまるで時が止まっていたかのようにその姿自体は殆ど変えていなかった。柵の類は新しくなっていたり、古くてぼろぼろになっていたりしたが、昔からあった木はそのまま立っているし、残っていた家もどうにか建っている。
村の中央の広場へ向かうと、そこにいた村人たちから視線を向けられた。見知った顔もあった。
緊張でマリーの足が止まる。誰と何を話せばいいのだろう。わからない。自分のことを覚えている人がいるのだろうか。
そう思っていると、一人の女性がこちらに駆け寄ってきた。麻の茶色いエプロンを前にかけた女性は、マリーの目の前にまで来てこちらの顔をまじまじと見つめてくる。
「もしかしてマリーちゃん?」
「えっ? アン、アンなの?」
アンは確か自分より三歳ほど年上の女の子だったはずだ。その頃の面影がわずかに残っている。しかし、自分よりたった三歳年上だったはずだが、随分と老け込んでいた。
町で見かける同年代の女性よりも五歳か六歳ほど老けているかもしれない。
マリーは何を言うべきなのかがわからず、アンの顔を見つめてしまう。
アンは顔を綻ばせて、やや黄色く染まった前歯を見せて笑った。
「マリーちゃん、生きてたのね」
「う、うん……」
「よかった……、もう帰ってこなくなったから、どうなったのかと思ってたの」
「そう……、アンも元気なの?」
「うん、あたしは大丈夫」
アンがそう言った時、アンの後ろから小さな男の子が駆け寄ってきた。ぼろきれのような服を着たその子は、アンの足元に縋りついて何がおかしいのかけたけたと笑っている。
「母ちゃん、変なの見つけた」
「こらっ! あんたはちょっとあっち行ってなさい」
アンはその子の頭をこん、と叩いた。追い払おうと思ったのだろうが、その子はアンの足元に抱きついたまま離れようとしていない。
どうやらアンの子どもらしい。もちろん、アンが結婚していても子どもを産んでいてもおかしくない年頃だというのはわかっている。
それでも、ほぼ同年代で、まだ少女だった頃しか知らないアンがこうやって子どもを産んでいるというのは驚きだった。
やがて村の中央にいた人たちが自分の周囲に集まってきた。
その中から一人の老人が目を丸くして寄ってきた。
「マリーちゃん? 本当にマリーちゃんなのかい」
驚くほどに老け込んではいるが、その老人の四角い顔つきには見覚えがあった。
マリーが恐る恐る尋ねる。
「ヨハンさん?」
「そうだ、そうだよ。マリーちゃん、ああ、そうか、あんなことがあって、マリーちゃんは村を助けるために人買いに買われていって、ああ……、本当にお母さんそっくりになって」
老人は肩を落とし、自身の白いヒゲをがしがしと掻いた。
垂れ下がった瞼の奥にある瞳から、ぽろりと一筋の涙が零れる。自分が小さい頃、ヨハンは自分によくしてくれた。当時は頑丈そうな壮年だったはずだが、今では顔中が堅い皺だらけで随分と老け込んでしまっている。
昔は堅い木を斧で軽々と真っ二つにしていたが、今では斧を持ち上げられるのかどうかもわからないくらいに痩せてしまっている。
ヨハンはマリーの隣に立つルキウスに視線を向けた。ルキウスの格好を見ておそらくそれなりに地位のある人間だと思ったのだろう、ヨハンがおずおずと尋ねた。
「あのう、あなた様は」
「医師にして公証人だ。この村の代表者に話がある」
「それならわたしです。わたしが今、この村の村長です」
その言葉にマリーは少々驚いた。村長を務めていたのは自分の父だった。その父が賊に殺された後、どうやらヨハンが村長になったらしい。
確かに順当といえば順当ではある。
ルキウスが小さく頷き、ヨハンに一枚の紙を取り出して見せた。
「では村長よ、よく聞け。この村が背負っていた借金はこの娘の働きによってすべて返済された。従って担保となっていた土地、農具、それら一切は保証された」
「……ど、どういうことでしょう。わたしは字が読めないもので、何が書いてあるのか」
「なんと? 村長でありながら字が読めぬとは、それでよく人々の長が務まるものだな」
ルキウスの言葉は非難の色よりも驚きの色のほうが勝っていた。
それでもヨハンは自分が責められていると思ったのか慌てて声を上げる。
「も、申し訳ありません。字が読めるものがいますのでそいつを呼びます」
「いや、それには及ばぬ。あとでこの紙をそいつに渡しておいてくれ」
「はっ、かしこまりました」
ヨハンは両手をおずおずと伸ばし、ルキウスが持っていた紙を受け取った。
それからルキウスがさらに続ける。
「さきほども言ったように、この娘は借金を完済した。この村はもう土地をあのような輩に奪われる心配をしなくてもよい」
「本当ですか? ほ、本当に?」
「そうだ」
ルキウスが頷くと、ヨハンの手が震えだした。それからマリーに視線を向ける。
「マリーちゃん、本当なのかい?」
「……うん、もう全部終わったから、この村はもう、大丈夫」
「おおぉ、な、なんということだ。マリーちゃん、ああ、辛かっただろう……、この村のために、マリーちゃんは気丈に、みんなのために、ああ」
ヨハンはもはや我慢も出来ないといった様子で泣き始めた。目元の深い皺を伝って涙が零れてゆく。
鼻の奥にも涙が流れ込んだのか、ヨハンは鼻をずずっとすすった。
「ああ、マリーちゃん。あの賢くて優しい子があんな辛い目に遭ったのに、まだこの村のために頑張ってくれただなんて……。ああ、思い出したよ、本当に優しい子だった。辛いのに、辛かったろうに立派な大人になって……」
そう言ってヨハンがぼとぼとと涙を流す。そのヨハンの姿を見ていると、マリーも鼻の奥がつんと痛んだ。 昔の自分を覚えてくれている。ただ、もう自分は過去の自分とは違ってしまっていた。
賢くもないし、優しくもない。愚かで、人を傷つけるようなことを沢山してきた。もう自分は、変わってしまったのだ。
ヨハンは鼻をすすりながらマリーの顔を正面から見た。
昔はいつも見上げていた人だが、今では殆ど身長が変わらない。ヨハンが尋ねてくる。
「マリーちゃん、この村に戻ってくるのかい? もしそうなら嬉しい。すぐにお婿さんを探してあげよう」
その言葉にルキウスが素早く反応した。
「ならん、それはならん。この娘には仕事を手伝ってもらわねばならん。この村に帰るのはそれが終わってからだ」
ルキウスの剣幕にヨハンがたじろいだ。
「そ、そうなのですか……。いや、そうでしたか……。あなたのような方の仕事を手伝うだなんて、やっぱりマリーちゃんは本当に凄いですな」
「うむ、そういうわけでこの娘がこの村に帰ってくるのはもっと先になる」
「そうですか……、マリーちゃんをよろしくお願いします。どうかお願いします」
「ふむ……、個人の頼みを引き受けるのは好きではないが、まぁよかろう。頼まれた」
ルキウスは姿勢よく立ったまま、ゆっくりと首を縦に振った。
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