名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

平和崩壊

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 アデルは首の後ろを掻きながら、背もたれに背を預けた。

「確かにくしゃみというのは意外と人柄が出るもんじゃからのう。ジルのくしゃみなどうるさくてたまらん。ああ、ジルというのはユーリさんの旦那でな、熊のような大男じゃ。口の周りに黒いもじゃもじゃのヒゲがあって、どこの山賊かと思うような顔をしておる。そいつのくしゃみがまたでかくてのう、一緒に飲みに行った時にあいつがくしゃみをすると、店のみんながびっくりしたもんじゃ」

 ジルは笑い声も大きいし、体も態度も大きいし、何かと目立つ。
 そんなことを話すと、リディアが尋ねてきた。

「ユーリの旦那さんってパン屋なんでしょ? パン捏ねてる時にくしゃみしてたら嫌ね」
「はっはっは、確かに。あいつが仕事中にくしゃみをしておらんことを祈るばかりじゃ」

 パンはいつもジルの店で買っているから、そんなことをされたらたまったものではない。
 アデルはそこでふと気になった。

「そういえば、シシィのくしゃみはどんな感じなんじゃ? わし、見たことが無いんじゃが」

 見たことはないが、シシィのくしゃみはあの可憐な顔と同じくとても可愛らしいのだろう。
 そんな答えを期待していたのだが、リディアは首を傾げた。

「……あれ? あたしも見たこと無いんだけど」
「そうなのか? 長い付き合いなのに」
「そうなのよ、長い付き合いなのに」

 リディアはそう言った後、何か思いついたかのようににやりと笑みを浮かべた。嫌な予感がする。
 シシィはというと、ソフィと同じく本に熱中していて周囲のことなどまったく目に入っていない様子だった。ソフィもシシィも集中力が高いのはいいが、あまり没頭しすぎてしまうのも困りものだ。
 ソフィは変な姿勢で本に熱中たことがあり、我に帰った時には関節が酷く痛んでしまったことさえある。普通は本を読んでいても堅苦しさを覚えたら姿勢を変えるものだが、ソフィはそんなことさえ出来ないほど集中していたらしい。

 リディアが音も無く立ち上がる。目の前にいるにも関わらず、突然リディアの存在感が消失してしまったかのように思えた。そのリディアが無言で自分の長い髪をの先を両手で持った。何をするのかと思えば、指先ひとつ分くらいの長さを髪の先からブチッと千切り取った。
 髪の毛のように引っ張られる力に対して強いものを引っ張っただけで千切れるその力にも驚いたが、自分の髪を躊躇い無く損なうことが出来る神経にも驚いてしまう。

 リディアは細い筆先程度になったその髪を指先で抓んだまま、足音ひとつ立てずにシシィの後ろへと回り込んだ。
 アデルの胸の中で嫌な予感が夏の入道雲のように膨らんでいく。リディアは何か余計なことをやらかすつもりに違いない。

 すぐさま止めるべきだと思った瞬間に、リディアがシシィの後ろからその首に腕を回していた。その頭が逃げないように左腕でがっちりシシィの体を固定し、右手に持った髪の毛束の先をシシィの鼻の穴に突っ込んだ。
 突然こんなことをされてシシィが驚かないはずもなく、眉を上げ瞼を限界まで開いていた。シシィは抵抗しようと体を捩らせたが、リディアの力に敵うはずもなくまったく動けていない。

 リディアは髪の毛の先でシシィの鼻の穴の中をくすぐっていた。
 シシィの耳元で悪戯っぽい声を出す。

「ほらほら、シシィちゃん、くしゃみ出そう?」

 アデルが立ち上がり、リディアを止めようと手を伸ばした。

「こら! やめんか!」

 リディアの体をシシィから引き離そうと、アデルがリディアの腕を掴む。だが、その程度ではさすがに止められなかった。シシィの頬がびくっと跳ね上がる。
 おそらくくしゃみが出そうなのだろう。

 シシィの口が小さく開いた。

「はっ……」

 さらにシシィの瞼が閉じ気味になった。翡翠のような色の瞳が、アデルに向けられる。その瞬間に、シシィの頬が赤く染まった。
 シシィの目の端が濡れている。

 リディアは、そんなシシィの顔に気づくわけもなく、鼻の穴の中をくすぐり続けていた。
 さすがにもう限界だったのだろう。シシィがぎゅっと目を閉じた。

 そして、シシィは口も閉じた。


 ぶしゅっ、という音がした。シシィの肺からせり上がってきた空気は、口を閉じたことによって鼻の中へと猛烈な勢いで流れ込んだ。それが何をもたらしたかと言えば、シシィのような可憐な少女にはかなり似つかわしくない状況だった。
 シシィの鼻の穴から、鼻水がたらーんと垂れ下がっていた。

 その顔を見て、アデルはすぐに胸ポケットからハンカチを出した。ハンカチでシシィの鼻から垂れた鼻水を受け止める。それからハンカチでシシィの鼻を軽く抓んでやった。

「ほれシシィ、ちーん」

 そう言ったのだが、シシィは従わなかった。顔は真っ赤で、瞳は水飴のように光沢を放っている。おそらくリディアも力を緩めていたのだろう、シシィはリディアの腕を振りほどいて立ち上がり、それからアデルの手からハンカチをもぎ取った。シシィが音を立てないように鼻を噛む。


 リディアの指から、髪の毛の細い束がはらりと落ちた。

「あら? どうしたの?」

 尋ねられたが、アデルにはどう答えていいものかわからない。誇り高いシシィにとって、今のはかなり酷い辱めの部類に感じられただろう。あんなことをされれば、自分だってさすがに腹が立つ。
 ここはリディアを叱らなければならない。そう思って喉の調子を整えようとした時だった。

 シシィがハンカチを机の上に置き、左手で自分の胸元を掴んだ。胸の谷間からから、指の長さほどの細い棒状のものを引っ張り出す。シシィの顔は、怒り一色だった。
 シシィは激怒している。シシィの怒りと何度か向き合ったから、自分にはよくわかった。


 シシィの胸の高さの場所に、十五本ほどの氷柱がきしきしと音を立てて現れた。その矛先は確実にリディアのほうへ向いている。リディアもさすがにその量に恐怖を感じたのか、頬をひくつかせて後ずさった。

「ちょ、ちょっとシシィちゃん?」

 宥めようとしたらしいが、シシィの耳にはまったく届いていなかっただろう。アデルも慌てて制止の声を振り絞る。

「待てシシィ! 待て!」

 だがそれすらもシシィの耳には届いていなかったらしい。シシィはリディアを睨みつけ、自身の体の前に浮かべた十数本の氷柱を一斉に撃ち出した。


「きゃああっ!」

 短い悲鳴を上げてリディアが横へと跳ぶ。


 どごおおん、と鈍い音がした。


 その後自分の目に飛び込んできたものを見て、アデルは顎を落とした。

「お、おお……、わしの家が」

 シシィの魔法はリディアに当たることなく、家の壁を思い切り突き破っていた。自分のような大男がくぐり抜けられそうなほど大きい穴が、家の壁に出来ていた。その穴から外が見えた。
 そこにはいつもと変わりない平和な風景が広がっていて、実に長閑に思えてしまう。だが、ここから見えてはいけない景色のはずだ。

「わ、わしの家が……」


 アデルはよろめいてテーブルの上に手をついた。

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