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第二部 第三章
蔵の中で
しおりを挟むシシィはリディアがうな垂れて頭を抱えているのをぼんやりと眺めていた。
アデルが出て行ってからすぐ、リディアは突然の酷暑に晒された植物のように萎れてしまった。
もはや明かりが必要なほど蔵の中は暗くなっている。魔法で動くランタンが机の上に置いてあったので、シシィはそれに明かりを灯した。
ぼわっとした明かりの中で、リディアが深く溜息を吐いた。
「はぁ……」
こういう時は声をかけるべきなのかどうか悩む。そもそも、リディアがここまで気落ちしているのを見るのは初めてだ。
話を聞いたりするべきなのだろうか。
シシィはそう考えてみたが、こんな機会が今まで無かったのでどうすればいいのかわからなかった。
そうやって悩んでいると、リディアが再び溜息を吐く。
「はぁ……、言い過ぎちゃったかしら」
リディアは息混じりにそう言った。その言葉が自分に対する問いかけなのかどうかよくわからない。
しかし、一応何か言っておいたほうがリディアのためかもしれない。
シシィは鼻の頭を掻いてから言った。
「どうしてそんなに元気が無いのかわたしにはわからない」
そう呟くと、リディアががばっと顔をあげた。
「わからない? だって、あたし、アデルにものすっごく偉そうに、アデルが困るようなこと言ったのよ」
「確かに、あの人にとっては受け入れがたいことを要求していたとは思う」
「でしょ? アデルもなんかかなり困ってたし」
「それでも、リディアの要求したことは、大事なことだと思う」
「そう? そう思う?」
リディアが期待するようにこちらを見てくる。ここはリディアの意見を肯定しておいたほうがいいだろう。
そう思ってシシィは小さく頷いた。
「ソフィがあの人の女になるということに、わたしも賛成。だから、リディアの提案はよいものだと思う」
「うん、でもね、それを言ったせいでなんかアデルがね、あたしのこと嫌いになったらどうしようって思って」
意外な言葉だった。
「リディアがそう思うのは意外。なんでもずけずけ言うから」
「言わないわよ! え? なんで、あたしってあんたの中でそんな認識なの? あんたのほうが何でもかんでもずけずけ言う気がするんだけど」
「そんなことはないと思う、多分」
リディアは何か言いたいことを我慢しているのか、視線を彷徨わせて唸っていた。
とにかく、ここはリディアが感じている不安を解消するような方向で話したほうがいいのかもしれない。
シシィは帽子を脱いでから、それを自分のベッドの上へと放り投げた。
「大丈夫、あの人はそんなことでリディアを嫌いになったりはしない」
「そう?」
「むしろ、ソフィのことをよく考えてくれていると思って、リディアのことをますます好きになったのかもしれない」
「そうかしら?」
リディアが顔を綻ばせる。きっとリディアの中で淡い期待が膨らんでいるのだろう。
今はそれを萎ませるべきではない。シシィは同意するように頷いた。
「心配しなくてもいいと思う」
「そう、そうよね? 大丈夫よね、あたし、アデルに愛されてるものね」
「おそらく」
「そこは同意しなさいよ! なんでおそらくなのよ! めちゃくちゃ愛されてるわよ!」
リディアが眉を吊り上げた。突然大きな声をあげられて、シシィが眉を顰める。
「そう言われても、わたしはあの人とリディアがどうなっているのかよく知らない」
「……そりゃ詳しくは言ってないけど、ほら、あれよ、あたし、アデルの女になっちゃったし、ちゅーされたし」
「そう……」
リディアは恥ずかしそうに頬を染めながらもじもじとしている。きっと、リディアの頭の中ではあの人との口付けがありありと浮かんでいるのだろう。
そうやってリディアが悶々とする気持ちはよくわかる。
自分もさきほど、アデルから深い口付けを受けた。
舌と舌を絡ませあい、お互いの唾液を吸い、唇を擦り合わせた。思い出すだけでも体の芯が火照ってくる。
あの人が欲望に従って求めてきたのだ。舌が触れる度に肌の上をぴりぴりとしたものが走った。
もうこのまま行くところまで行ってしまうのだと思った。
あれだけでも刺激的だったというのに、アデルはとんでもないことを口にした。
アデルは自身の欲望を満たすために、はしたない行為を要求してきたのだ。力を抜いて、舌をだらんと口から出せと命令してきた。
犬と同じことをしろと言ってきたのだ。人に命令されることとは無縁の生活をしてきたし、命令されたとしても嫌なものなら拒否してきた。
それなのに、自分は犬のように舌を出せという命令に従ったのだ。愛しい人の前で、犬畜生のように舌を唇の間から出した。
理不尽な命令に従うというのは屈辱的なことだとばかり思っていたが、アデルからそう命令されてそれに従った時、脳が破裂するかのような快感が走った。
命令されることで気持ちよくなるだなんて、想像したこともなかった。膝頭がかくかくと小刻みに震えて、指先が言うことを聞かなくなった。
そんな自分に、アデルは深く口付けをして、舌を吸って来たのだ。
アデルは犬のように舌を出している自分を可愛いなどと言って褒めただけでなく、今までアデルが抑えていたであろう獣欲を解き放とうとした。
自分の痴態が愛しい人を昂ぶらせているのだと思っただけでも心臓が破裂しそうなのに、アデルはそのはしたない姿を可愛いなどと言ってむしゃぶりついてきた。
腰が熔け落ちたかと思った。太腿はびくびくと震えて意思を離れる。もはや思考を保つことさえ出来なくなった。
目の裏側で火花が散り、張り詰めた理性のか細い糸は焼け落ちてしまった。ぷつん、と何かが切れてしまったのだ。
アデルの求めに対して応じ切れなかったことには深い後悔が残る。あの人は再び自身の獣を檻の中へとしまいこみ、優しい抱擁で自分を慰めてくれた。
こんなことではいけない。アデルの獣を満たしてやれる女にならなければいけないのに、失態を演じてしまった。
だが次はこうはいかない。今度こそアデルを満たし、そして深く深く繋がり合うのだ。
お互いの舌でお互いの形を確かめるように絡みあい、肌を合わせたまま高みに達するのだ。
そんなことを考えていると、パンッと渇いた音が響いた。
ハッとしてシシィがリディアに視線を向ける。リディアは眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいた。
「ちょっとシシィ、やらしいこと考えてないであたしの話を聞きなさいよ」
「いやらしいことなど考えていない」
「ウソばっかり。やらしい顔してたわよ」
「していない」
言いがかりも甚だしい。リディアがいやらしいことを考えているからそう思ってしまうのだろう。
リディアは目を細めて睨んできたが、どうでもいいと思ったのか呆れたように息を吐いた。
「はぁ、まぁいいわ。そこらへんも色々考えなきゃいけないわね。ほら、愛し合ってる最中に邪魔されたら嫌でしょ?」
「確かに、殺意が芽生えるかもしれない」
「え? あたし今あんたの邪魔したばっかりなんだけど? 怖いこと言わないでよ」
「邪魔された。いいところだった」
「でもあんたなんか思いっきりぐでーんってなってたじゃない」
「していない。少し休憩していただけ」
「はぁ……、あんたもまったく……」
リディアは呆れたのか首を振った。
それからリディアが髪をかき上げる。
「まぁいいわ、そっちはそっちでまた考える必要があるわね」
「わかった」
「ソフィのこともちゃんと考えなきゃね」
「わかっている。でもそこまで急ぐ必要はないと思う」
「まぁね、今はアデルがちょっと意識の片隅にでも置いておけば十分でしょ」
なんだかんだ言ってもソフィの肉体はまだ子どもなのだ。さすがに子作りに勤しむわけにはいかない。
ただ、ソフィにはこんな関係について納得してもらう必要がある。ソフィは受け入れがたいとのことらしいが、いずれ理解してくれるだろう。
とにかく、必要な種は播いた。後は無闇に掻き回すことなく、経過を見守ればいい。
せっかくここまで漕ぎ付けたのだ。
後はみんなで幸せになればいい。あの愛しい人が、全身全霊をかけてみんなを幸せにしてくれるだろう。
自分もそれに協力しなければいけない。
今は何もかもが上手くいっている。
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