名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

文字の大きさ
上 下
427 / 586
第二部 第三章

晦冥の夜

しおりを挟む



 暖炉に囚われた火は暴れることをやめ、寝息のように穏やかな声を上げていた。時折焚き木が爆ぜて、乾いた音を鳴らす。イレーネの母は台所に立っている。ぐつぐつとスープが煮える音が届く。

 それに合わせてセージとローズマリーの匂いが漂ってくる。鶏肉と生姜の匂いも鼻をくすぐってきた。この匂いだけで胃袋が刺激されてしまう。



 外はもう既に日が暮れたようで、窓はすべて黒い絵を飾っているかのように黒く塗りつぶされている。

 静かな夜だった。昼間ならともかく、人が寛ぐ夕べに誰かの家で過ごすのは初めてかもしれない。何か手伝ったほうがいいのかと申し出たが、イレーネの母にやんわりと断られた。





 ソフィは椅子に座ったままスカートの裾を火に当てた。もう十分に乾いてきたようだが、胸の辺りはまだ湿っている。



 イレーネはまどろみを経た後で再び元気になったようだった。さっきまで大人しくしていたが、今はいつものように爛々と瞳を輝かせている。

 暖炉の前で並んで座り、イレーネに算数を教えていたが、イレーネはもう飽きてしまったようだ。



「これイレーネよ、算数くらいはしっかりと覚えねばならんのじゃ」

「えー?」

「まったく、お姉ちゃんの言うことをよく聞いておかねば、妾のように立派にはなれんのじゃ」



 イレーネの姉貴分として、イレーネをしっかりと導いてやらないといけない。簡単な算数くらい会得しておかないと後々困る。

 それでもイレーネの集中力はもう尽きてしまったようだ。仕方が無いかもしれない。普段から、イレーネが興味を示す対象はぽんぽんと移り変わる。



「お姉ちゃんお話してーっ」

「お話と言われてものう……」



 暖炉の遠くへと視線を向ける。子どもに語れるような話にはあまり興味が無い。ただ、村長は子どもたちに色んな話をするから、その流れで覚えたものはいくつかある。

 しかしそのどれもイレーネはすでに聞いたことがあるはずだ。

 こうなったら、イレーネが好きだという赤髭王の話をするべきだろうか。



「ふむ、では赤髭王の話をするのじゃ」

「えー?」

「なんじゃ、好きなのではなかったのか? それとも飽きたのか?」

「違うお話がいい」



 こちらの問いに答えることもなく、イレーネは違う話をせがんでくる。

 まったく子どもというのは勝手なものだ。



「お姉ちゃん他のお話知らないの?」

「なんと?! 妾を舐めるでない、妾にかかれば話のひとつやふたつ」



 眉間に指を当てて記憶を探る。何か面白い話はなかっただろうか。だが、上手く記憶の中から引き出せない。



「むむ……、いや、あるのじゃ、イレーネよ、妾の語る話に感動し咽び泣くがよいのじゃ」

「のじゃっ」

「真似をしておる場合ではない。よいか、えーと……」



 ソフィは覚えている話のあらすじを頭の中で繰り返した。大丈夫、語れるくらいには覚えている。



「その昔、とっても昔のことじゃ。ある小さな村に、若い夫婦が住んでおった。しかし、戦が近づき、男は戦地へと赴かねばならなくなったのじゃ」

「せんちって何?」

「戦地とは戦いが行われている場所のことじゃ」

「おもむくって何?」

「この場合は、行くという意味じゃ」

「ふーん、昔ってどれくらい昔?」

「ずっと昔じゃ。何百年も前のことに違いない」



 この様子を見る限りでは、そもそも戦争というものについてもよく知らないに違いない。何故戦うのかを説明してもよくわからないだろう。

 だがそんなことまで説明しても、イレーネにはわからないはずだ。意味は理解できなくても、とりあえず続けるしかない。



「それでじゃな、男は戦に行って戦ったのじゃ。恐ろしいことも沢山あり、仲間が死んでしまうこともあった。しかし戦いも終わり、男は自分の村に帰れることになったのじゃ」

「ふーん」



 興味があるのかないのかよくわからない反応だった。今更話を終わらせるというのも情けない。

 ソフィはその続きを語った。



 戦地から帰る途中、男は妻と再会したのだ。妻が言うには、男のことが心配でいてもたってもいられず、家を出て戦場へ向かおうとしたとのことだった。

 そうやって一途に思ってくれたことを男は喜び、二人で一緒に村へと帰ることになった。

 長い旅路を経て、男はようやく故郷に辿り着く。しかし、男が目にしたのは荒れ果てた村だった。そこには誰もいない。

 村に何が起こったのかわからず、男は方々を歩き回る。そうしていると、いつの間にか妻の姿も無くなっていた。



 もはや男はわけが分からず、半狂乱になって町のほうへと向かった。そこで、かつて村に住んでいた者たちと再会することが出来た。

 村人が言うには、あの村に悪者が訪れて略奪の限りを尽くしてしまったのだという。

 男は何よりも妻のことが気になったので、妻のことについて尋ねた。さっきまで一緒にいたのに、何処にも見当たらないと言うと、村人は目をまん丸に見開いて驚いた。



 村人が言うには、男の妻は両親と一緒に町に避難していたが、妻はここ三ヶ月以上も意識が戻らず寝たきりになっているのだという。

 男はわけがわからないまま、村人に教えてもらった家へと向かった。妻の両親と再会し、喜んだが、何より妻のことが気になった。



 妻の両親は、妻はここ何ヶ月も起きることがなく、ずっと寝ているのだという。男が自分はさっきまで妻と一緒にいたのだと告げると、妻の両親は男を信じられず、男が戦争でおかしくなってしまったのだと思った。



 男は妻の寝室へと赴き、そこで妻が寝ているのを見る。さっきまで自分と一緒にいた妻は一体なんだったのか。あれは自分の願望が見せた幻だったのか。

 妻の体へと近づき、男はその手を取った。せっかく戦争から帰ってきたのに、最愛の妻が意識を失ったままだという。

 男が泣きそうになると、ふと部屋の扉が開き、そこから妻が現れた。



 ベッドに寝ている妻と、扉の前に立つ妻、男は突然のことに目じりが裂けそうなほどに目を開いた。

 何が起こったのかわからずにいると、扉の前にいた妻はベッドへと向かい、そしてベッドに寝ていた妻とひとつに重なった。



 それと同時にベッドに寝ていた妻が目を開け、体を起こした。





「そして、妻が言ったのじゃ。あなたのことを考えすぎて、あなたに会いたくて、わたしは魂を飛ばしたのだと。男は妻がそこまで自分のことを思ってくれていたことに喜び、嬉しさに泣いたという」



 話をしている途中で夕食になった。エッケルもイレーネの母も自分の話に興味を持ったので、食事をしながら一方的に話をすることになってしまった。

 スープの味に舌鼓をうち、その舌で話の続きを語る。舌が大忙しで、明日には筋肉痛になっているかもしれない。



「そして二人は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたしなのじゃ」



 イレーネよりも、エッケルのほうがこの話に感激したようだった。



「へー、凄いなぁ……、いい話だなぁ。そんな昔話があったなんて知らなかった」

「わたしも初めて聞いたわ」



 イレーネの母も頷いている。どうやら大人二人は実に気に入ってくれたようだったが、肝心のイレーネは首を捻っている。

 子どもには少し難しすぎたかもしれない。確かに、昔話の割には少々分かりにくいところがある。



 エッケルはスプーンを机の上に置き、上を見ながら息を吐いた。



「うーん、いい話だなぁ。ソフィちゃん、そんな話どこで聞いたの?」

「む? この話は……、うむ……」

「もしかして覚えてないの?」

「ふむ、どうやらそのようじゃ。どこかで聞きかじったのであろう」

「それにしては……、なんていうかよく覚えすぎてるというか」



 エッケルはこの話を初めて聞いたのだから、正しいのか間違っているのかは分からないはずだ。それでもエッケルはこちらが話をしっかり再現したと思っている。

 深く椅子にもたれて、エッケルが大きく息を吐いた。



 確かに不思議だった。こんな話をどこで覚えたのだろう。

 幼い頃にどこかで聞きかじったのだろうか。



 首を捻っていると、イレーネの母がにこにこ笑いながら尋ねてきた。



「ソフィちゃん、食事のほうはどう? 美味しい?」

「うむ、妾のほっぺたがどこかに落ちておらんか心配になるのじゃ」

「まぁ、よかった、お口に合ったみたいね。アデルの料理ばっかり食べてて舌が肥えてるのかと思ってたわ」

「普段は舌も体も肥えぬような食事が多いのじゃ。贅沢が出来るほど裕福ではないでのう」



 アデルの料理は確かに美味しいが、かといって普段からご馳走を並べるようなことはない。美食は時々楽しむからこそ良いのだ。

 それに、ジル親方のパンはライ麦の黒パンであっても美味しい。日が経つにつれて風味も増すし、食べ応えも十分にある。



 隣のイレーネは、座高が高い椅子に座っている。美味しい料理を頬張る姿は可愛らしく、心が和んでしまう。

 ただ気になることがあった。



「これイレーネよ、唇の周りが汚れておるのじゃ」

「んー」



 イレーネは小さな舌を出して唇を舐め始めた。まったく、このような振る舞いは淑女に相応しくない。



「舌で舐めまわすでない。今妾が拭いてやるから、大人しくしておるのじゃ」



 ナプキンでイレーネの唇から顎にかけて拭ってやると、イレーネは目を閉じてなすがままの人形になった。

 こうやって拭いてやるよりも、自分で拭かせたほうがよかったかもしれない。イレーネもいつかは成長し、自分のように立派な淑女にならなければいけないのだ。



「うむ、イレーネよ、口の周りが汚れた時は舐め回したりせず、何かで拭かねばならん。ちゃんと自分でやるのじゃ」

「うん」



 元気な返事を聞いて、ソフィは頷いた。イレーネがすぐ出来るようになるとは思えないが、いつかは自分でやるようになるだろう。



 暖炉の火が勢いを失い、その穂先を引っ込めようとしていた。エッケルが立ち上がり、炎に餌を与えるかのように薪をくべる。

 夜の静けさは湖のように澄み、暗がりは蝋燭の火に押しのけられて部屋の隅で縮こまっていた。



 夏の夜と冬の夜には何か違いがあるような気がした。冬の夜のほうが静謐で、この世のすべてが止まっているように思えてしまう。

 短い秋が終わろうとしている。この村で過ごす、二度目の冬。



 アデルは今頃何をしているのだろう。リディアと二人で食事をしているのだろうか。

 もし魂を飛ばして見に行くことが出来たら、そう思った。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

勇者一行から追放された二刀流使い~仲間から捜索願いを出されるが、もう遅い!~新たな仲間と共に魔王を討伐ス

R666
ファンタジー
アマチュアニートの【二龍隆史】こと36歳のおっさんは、ある日を境に実の両親達の手によって包丁で腹部を何度も刺されて地獄のような痛みを味わい死亡。 そして彼の魂はそのまま天界へ向かう筈であったが女神を自称する危ない女に呼び止められると、ギフトと呼ばれる最強の特典を一つだけ選んで、異世界で勇者達が魔王を討伐できるように手助けをして欲しいと頼み込まれた。 最初こそ余り乗り気ではない隆史ではあったが第二の人生を始めるのも悪くないとして、ギフトを一つ選び女神に言われた通りに勇者一行の手助けをするべく異世界へと乗り込む。 そして異世界にて真面目に勇者達の手助けをしていたらチキン野郎の役立たずという烙印を押されてしまい隆史は勇者一行から追放されてしまう。 ※これは勇者一行から追放された最凶の二刀流使いの隆史が新たな仲間を自ら探して、自分達が新たな勇者一行となり魔王を討伐するまでの物語である※

漫画の寝取り竿役に転生して真面目に生きようとしたのに、なぜかエッチな巨乳ヒロインがぐいぐい攻めてくるんだけど?

みずがめ
恋愛
目が覚めたら読んだことのあるエロ漫画の最低寝取り野郎になっていた。 なんでよりによってこんな悪役に転生してしまったんだ。最初はそう落ち込んだが、よく考えれば若いチートボディを手に入れて学生時代をやり直せる。 身体の持ち主が悪人なら意識を乗っ取ったことに心を痛める必要はない。俺がヒロインを寝取りさえしなければ、主人公は精神崩壊することなくハッピーエンドを迎えるだろう。 一時の快楽に身を委ねて他人の人生を狂わせるだなんて、そんな責任を負いたくはない。ここが現実である以上、NTRする気にはなれなかった。メインヒロインとは適切な距離を保っていこう。俺自身がお天道様の下で青春を送るために、そう固く決意した。 ……なのになぜ、俺はヒロインに誘惑されているんだ? ※他サイトでも掲載しています。 ※表紙や作中イラストは、AIイラストレーターのおしつじさん(https://twitter.com/your_shitsuji)に外注契約を通して作成していただきました。おしつじさんのAIイラストはすべて商用利用が認められたものを使用しており、また「小説活動に関する利用許諾」を許可していただいています。

俺だけ毎日チュートリアルで報酬無双だけどもしかしたら世界の敵になったかもしれない

亮亮
ファンタジー
朝起きたら『チュートリアル 起床』という謎の画面が出現。怪訝に思いながらもチュートリアルをクリアしていき、報酬を貰う。そして近い未来、世界が一新する出来事が起こり、主人公・花房 萌(はなぶさ はじめ)の人生の歯車が狂いだす。 不意に開かれるダンジョンへのゲート。その奥には常人では決して踏破できない存在が待ち受け、萌の体は凶刃によって裂かれた。 そしてチュートリアルが発動し、復活。殺される。復活。殺される。気が狂いそうになる輪廻の果て、萌は光明を見出し、存在を継承する事になった。 帰還した後、急速に馴染んでいく新世界。新しい学園への編入。試験。新たなダンジョン。 そして邂逅する謎の組織。 萌の物語が始まる。

実力を隠して勇者学園を満喫する俺、美人生徒会長に目をつけられたので最強ムーブをかましたい

エース皇命
ファンタジー
【HOTランキング2位獲得作品】  ゼルトル勇者学園に通う少年、西園寺オスカーはかなり変わっている。  学園で、教師をも上回るほどの実力を持っておきながらも、その実力を隠し、他の生徒と同様の、平均的な目立たない存在として振る舞うのだ。  何か実力を隠す特別な理由があるのか。  いや、彼はただ、「かっこよさそう」だから実力を隠す。  そんな中、隣の席の美少女セレナや、生徒会長のアリア、剣術教師であるレイヴンなどは、「西園寺オスカーは何かを隠している」というような疑念を抱き始めるのだった。  貴族出身の傲慢なクラスメイトに、彼と対峙することを選ぶ生徒会〈ガーディアンズ・オブ・ゼルトル〉、さらには魔王まで、西園寺オスカーの前に立ちはだかる。  オスカーはどうやって最強の力を手にしたのか。授業や試験ではどんなムーブをかますのか。彼の実力を知る者は現れるのか。    世界を揺るがす、最強中二病主人公の爆誕を見逃すな! ※小説家になろう、pixivにも投稿中。 ※小説家になろうでは最新『勇者祭編』の中盤まで連載中。

俺が異世界帰りだと会社の後輩にバレた後の話

猫野 ジム
ファンタジー
会社員(25歳・男)は異世界帰り。現代に帰って来ても魔法が使えるままだった。 バレないようにこっそり使っていたけど、後輩の女性社員にバレてしまった。なぜなら彼女も異世界から帰って来ていて、魔法が使われたことを察知できるから。 『異世界帰り』という共通点があることが分かった二人は後輩からの誘いで仕事終わりに食事をすることに。職場以外で会うのは初めてだった。果たしてどうなるのか? ※ダンジョンやバトルは無く、現代ラブコメに少しだけファンタジー要素が入った作品です ※カクヨム・小説家になろうでも公開しています

TS転生少女は性の悦びを堪能する 【R18】

椎茸大使
ファンタジー
前世では男だった主人公レンが吸血鬼の美少女に異世界TS転生し、自称神様にチート特典を貰ったのでお気楽に異世界を過ごし、そこで様々な棒を入れられたり、様々な穴に自慢の棒を入れたりするお話。 こういう話は初で性表現が拙いと思いますがよろしくお願いします ※ TS、異種姦、ふたなり、腹ボコ、精液ボテ等の要素があるので苦手な方はご注意を

スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活

昼寝部
ファンタジー
 この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。  しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。  そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。  しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。  そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。  これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。

【R18】異世界に来たのに俺だけ経験値がセックスな件〜エロスキルで成り上がる

ビニコン
ファンタジー
 突然の学校のクラス全員が転生からの、テンプレ通りの展開で始まる、職業はエロ賢者というアホのような職業だった。  アホのような職業で直ぐに使えないと判定からの、追放されることになる。  ムッツリスケベであった陰キャ主人公が自分の性欲を解放していき、エロで成り上がる。

処理中です...