名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

晦冥の夜

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 暖炉に囚われた火は暴れることをやめ、寝息のように穏やかな声を上げていた。時折焚き木が爆ぜて、乾いた音を鳴らす。イレーネの母は台所に立っている。ぐつぐつとスープが煮える音が届く。

 それに合わせてセージとローズマリーの匂いが漂ってくる。鶏肉と生姜の匂いも鼻をくすぐってきた。この匂いだけで胃袋が刺激されてしまう。



 外はもう既に日が暮れたようで、窓はすべて黒い絵を飾っているかのように黒く塗りつぶされている。

 静かな夜だった。昼間ならともかく、人が寛ぐ夕べに誰かの家で過ごすのは初めてかもしれない。何か手伝ったほうがいいのかと申し出たが、イレーネの母にやんわりと断られた。





 ソフィは椅子に座ったままスカートの裾を火に当てた。もう十分に乾いてきたようだが、胸の辺りはまだ湿っている。



 イレーネはまどろみを経た後で再び元気になったようだった。さっきまで大人しくしていたが、今はいつものように爛々と瞳を輝かせている。

 暖炉の前で並んで座り、イレーネに算数を教えていたが、イレーネはもう飽きてしまったようだ。



「これイレーネよ、算数くらいはしっかりと覚えねばならんのじゃ」

「えー?」

「まったく、お姉ちゃんの言うことをよく聞いておかねば、妾のように立派にはなれんのじゃ」



 イレーネの姉貴分として、イレーネをしっかりと導いてやらないといけない。簡単な算数くらい会得しておかないと後々困る。

 それでもイレーネの集中力はもう尽きてしまったようだ。仕方が無いかもしれない。普段から、イレーネが興味を示す対象はぽんぽんと移り変わる。



「お姉ちゃんお話してーっ」

「お話と言われてものう……」



 暖炉の遠くへと視線を向ける。子どもに語れるような話にはあまり興味が無い。ただ、村長は子どもたちに色んな話をするから、その流れで覚えたものはいくつかある。

 しかしそのどれもイレーネはすでに聞いたことがあるはずだ。

 こうなったら、イレーネが好きだという赤髭王の話をするべきだろうか。



「ふむ、では赤髭王の話をするのじゃ」

「えー?」

「なんじゃ、好きなのではなかったのか? それとも飽きたのか?」

「違うお話がいい」



 こちらの問いに答えることもなく、イレーネは違う話をせがんでくる。

 まったく子どもというのは勝手なものだ。



「お姉ちゃん他のお話知らないの?」

「なんと?! 妾を舐めるでない、妾にかかれば話のひとつやふたつ」



 眉間に指を当てて記憶を探る。何か面白い話はなかっただろうか。だが、上手く記憶の中から引き出せない。



「むむ……、いや、あるのじゃ、イレーネよ、妾の語る話に感動し咽び泣くがよいのじゃ」

「のじゃっ」

「真似をしておる場合ではない。よいか、えーと……」



 ソフィは覚えている話のあらすじを頭の中で繰り返した。大丈夫、語れるくらいには覚えている。



「その昔、とっても昔のことじゃ。ある小さな村に、若い夫婦が住んでおった。しかし、戦が近づき、男は戦地へと赴かねばならなくなったのじゃ」

「せんちって何?」

「戦地とは戦いが行われている場所のことじゃ」

「おもむくって何?」

「この場合は、行くという意味じゃ」

「ふーん、昔ってどれくらい昔?」

「ずっと昔じゃ。何百年も前のことに違いない」



 この様子を見る限りでは、そもそも戦争というものについてもよく知らないに違いない。何故戦うのかを説明してもよくわからないだろう。

 だがそんなことまで説明しても、イレーネにはわからないはずだ。意味は理解できなくても、とりあえず続けるしかない。



「それでじゃな、男は戦に行って戦ったのじゃ。恐ろしいことも沢山あり、仲間が死んでしまうこともあった。しかし戦いも終わり、男は自分の村に帰れることになったのじゃ」

「ふーん」



 興味があるのかないのかよくわからない反応だった。今更話を終わらせるというのも情けない。

 ソフィはその続きを語った。



 戦地から帰る途中、男は妻と再会したのだ。妻が言うには、男のことが心配でいてもたってもいられず、家を出て戦場へ向かおうとしたとのことだった。

 そうやって一途に思ってくれたことを男は喜び、二人で一緒に村へと帰ることになった。

 長い旅路を経て、男はようやく故郷に辿り着く。しかし、男が目にしたのは荒れ果てた村だった。そこには誰もいない。

 村に何が起こったのかわからず、男は方々を歩き回る。そうしていると、いつの間にか妻の姿も無くなっていた。



 もはや男はわけが分からず、半狂乱になって町のほうへと向かった。そこで、かつて村に住んでいた者たちと再会することが出来た。

 村人が言うには、あの村に悪者が訪れて略奪の限りを尽くしてしまったのだという。

 男は何よりも妻のことが気になったので、妻のことについて尋ねた。さっきまで一緒にいたのに、何処にも見当たらないと言うと、村人は目をまん丸に見開いて驚いた。



 村人が言うには、男の妻は両親と一緒に町に避難していたが、妻はここ三ヶ月以上も意識が戻らず寝たきりになっているのだという。

 男はわけがわからないまま、村人に教えてもらった家へと向かった。妻の両親と再会し、喜んだが、何より妻のことが気になった。



 妻の両親は、妻はここ何ヶ月も起きることがなく、ずっと寝ているのだという。男が自分はさっきまで妻と一緒にいたのだと告げると、妻の両親は男を信じられず、男が戦争でおかしくなってしまったのだと思った。



 男は妻の寝室へと赴き、そこで妻が寝ているのを見る。さっきまで自分と一緒にいた妻は一体なんだったのか。あれは自分の願望が見せた幻だったのか。

 妻の体へと近づき、男はその手を取った。せっかく戦争から帰ってきたのに、最愛の妻が意識を失ったままだという。

 男が泣きそうになると、ふと部屋の扉が開き、そこから妻が現れた。



 ベッドに寝ている妻と、扉の前に立つ妻、男は突然のことに目じりが裂けそうなほどに目を開いた。

 何が起こったのかわからずにいると、扉の前にいた妻はベッドへと向かい、そしてベッドに寝ていた妻とひとつに重なった。



 それと同時にベッドに寝ていた妻が目を開け、体を起こした。





「そして、妻が言ったのじゃ。あなたのことを考えすぎて、あなたに会いたくて、わたしは魂を飛ばしたのだと。男は妻がそこまで自分のことを思ってくれていたことに喜び、嬉しさに泣いたという」



 話をしている途中で夕食になった。エッケルもイレーネの母も自分の話に興味を持ったので、食事をしながら一方的に話をすることになってしまった。

 スープの味に舌鼓をうち、その舌で話の続きを語る。舌が大忙しで、明日には筋肉痛になっているかもしれない。



「そして二人は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたしなのじゃ」



 イレーネよりも、エッケルのほうがこの話に感激したようだった。



「へー、凄いなぁ……、いい話だなぁ。そんな昔話があったなんて知らなかった」

「わたしも初めて聞いたわ」



 イレーネの母も頷いている。どうやら大人二人は実に気に入ってくれたようだったが、肝心のイレーネは首を捻っている。

 子どもには少し難しすぎたかもしれない。確かに、昔話の割には少々分かりにくいところがある。



 エッケルはスプーンを机の上に置き、上を見ながら息を吐いた。



「うーん、いい話だなぁ。ソフィちゃん、そんな話どこで聞いたの?」

「む? この話は……、うむ……」

「もしかして覚えてないの?」

「ふむ、どうやらそのようじゃ。どこかで聞きかじったのであろう」

「それにしては……、なんていうかよく覚えすぎてるというか」



 エッケルはこの話を初めて聞いたのだから、正しいのか間違っているのかは分からないはずだ。それでもエッケルはこちらが話をしっかり再現したと思っている。

 深く椅子にもたれて、エッケルが大きく息を吐いた。



 確かに不思議だった。こんな話をどこで覚えたのだろう。

 幼い頃にどこかで聞きかじったのだろうか。



 首を捻っていると、イレーネの母がにこにこ笑いながら尋ねてきた。



「ソフィちゃん、食事のほうはどう? 美味しい?」

「うむ、妾のほっぺたがどこかに落ちておらんか心配になるのじゃ」

「まぁ、よかった、お口に合ったみたいね。アデルの料理ばっかり食べてて舌が肥えてるのかと思ってたわ」

「普段は舌も体も肥えぬような食事が多いのじゃ。贅沢が出来るほど裕福ではないでのう」



 アデルの料理は確かに美味しいが、かといって普段からご馳走を並べるようなことはない。美食は時々楽しむからこそ良いのだ。

 それに、ジル親方のパンはライ麦の黒パンであっても美味しい。日が経つにつれて風味も増すし、食べ応えも十分にある。



 隣のイレーネは、座高が高い椅子に座っている。美味しい料理を頬張る姿は可愛らしく、心が和んでしまう。

 ただ気になることがあった。



「これイレーネよ、唇の周りが汚れておるのじゃ」

「んー」



 イレーネは小さな舌を出して唇を舐め始めた。まったく、このような振る舞いは淑女に相応しくない。



「舌で舐めまわすでない。今妾が拭いてやるから、大人しくしておるのじゃ」



 ナプキンでイレーネの唇から顎にかけて拭ってやると、イレーネは目を閉じてなすがままの人形になった。

 こうやって拭いてやるよりも、自分で拭かせたほうがよかったかもしれない。イレーネもいつかは成長し、自分のように立派な淑女にならなければいけないのだ。



「うむ、イレーネよ、口の周りが汚れた時は舐め回したりせず、何かで拭かねばならん。ちゃんと自分でやるのじゃ」

「うん」



 元気な返事を聞いて、ソフィは頷いた。イレーネがすぐ出来るようになるとは思えないが、いつかは自分でやるようになるだろう。



 暖炉の火が勢いを失い、その穂先を引っ込めようとしていた。エッケルが立ち上がり、炎に餌を与えるかのように薪をくべる。

 夜の静けさは湖のように澄み、暗がりは蝋燭の火に押しのけられて部屋の隅で縮こまっていた。



 夏の夜と冬の夜には何か違いがあるような気がした。冬の夜のほうが静謐で、この世のすべてが止まっているように思えてしまう。

 短い秋が終わろうとしている。この村で過ごす、二度目の冬。



 アデルは今頃何をしているのだろう。リディアと二人で食事をしているのだろうか。

 もし魂を飛ばして見に行くことが出来たら、そう思った。





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