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第二部 第三章
落水
しおりを挟む空の下の畑の中で、ソフィは片息を吐いた。走り回っていたせいで呼吸が追いつかない。昼過ぎの陽光は柔らかく大地を暖め、その熱がソフィの体にまとわりついた。
走っていたせいで体が熱い。涼しげな風もまだ体を冷やしてくれず、ソフィは額を袖で拭った。
「おのれ鳥どもめ、妾が本気を出せばイチコロじゃというのに……」
ソフィはスカート越しに左腿に差した杖へ触れた。今朝があまりに寒かったので、もしかしたら必要になるかもしれないと思って持ってきたのだ。
魔法で服の中に暖かい風を送れば、多少の寒さであれば耐えられる。
そう考えていたが、今は暖かい空気よりも冷たい風のほうが欲しかった。
チビたちはまだ元気に走り回っている。ちょっとした昼寝を済ませただけで体力が回復したようだ。
午前も鳥を追い払う仕事をしていたが、鳥たちはこちらの隙を見つけては畑に降り立ち、麦の種を食べようとしてくる。
もし魔法が使えたなら、あんな鳥など簡単に追い払うことが出来る。だが、自分が魔法を使えることは村の人たちには内緒にしているので使えない。
チビたちと一緒になって走り回るより外なかった。
昼の休憩が終わった後もこうやって動く案山子となって鳥を追い払っているが、鳥たちは性懲りもなく畑に舞い降りて種を啄ばもうとしてくる。
午前に比べれば数は減ったが、かといって気は抜けない。
こんなつまらない仕事でも、きちんとこなす必要がある。
ソフィは首を左右に振り、どこかに鳥がいないかを探した。
畑の中を牛がのんびり歩いている。その後ろには大きな丸太が繋がれていて、その丸太の重みが地面を均していた。
遠くから見れば苦行にしか見えないが、牛はまるでそんなものを引きずっていることに気づいていないかのようだった。
さすがの鳥も鎮圧が終わった場所に食べ物を求めるようなことはしない。そうこうしているうちに、今日の播種の作業はすべて終わろうとしていた。
冬が近いせいで、日が沈むのも早い。ついさっき昼食を食べたばかりのような気がしたが、空の色はすでに暗い藍色に染まっていた。浮かぶ雲は底を赤と金の縁で飾られ、空を背に飾られている。
遠くの風景から段々と輪郭が失われてゆき、人の姿もただの黒い塊のようにしか見えなかった。
農夫たちもそれぞれ体格が違い、背の高さが違うが、遠くから見ているとその全てがどれも大差ないように見えてしまう。
自分の悩みや問題も、遠くから見ればどれも小さくて変わりないように見えるのだろうか。
「ふむ……、どうやら終わったようなのじゃ」
元気だったチビたちも、夕暮れが近づくと大人しくなっていった。眠いのか目を擦ったり、あくびをしている。
畑はまるで地平の端にまで届くのではないかと思うほど広い。その中で、ここにいる自分たちはどれほど小さいのだろう。
やがて農夫たちが牛を連れてぞろぞろと歩き出した。こちらに向かってきた男から、今日の仕事が終わったことを朗らかな笑顔で告げられた。
満足そうな笑みから、仕事が上手くいったことが察せられる。
「さて、妾たちも帰るのじゃ」
「のじゃ」
「真似せんでよい。まったく、妾を慕うにも程があるのじゃ」
ソフィはチビたちを連れて村の中央へ向かって歩き始めた。
村の中央にやってくると、外の畑から戻った男たちが既に寛いでいる姿が目に入った。その中にはアデルもいた。リディアはリーゼと何やら話しかけている。
アデルは水場で手や足を洗っていた。水が冷たいせいか、アデルは大袈裟に体を素早く動かしている。そちらのほうへ近づいていくと、アデルが顔をこちらに向けた。
「おお! ソフィ、無事に終わったか」
「案山子役に無事も何も無いのじゃ」
「はっはっは、そう言うな、ほれ、転んでしまったりとか色々あるじゃろ」
「妾は畑で転ぶほどの間抜けではないのじゃ」
何度か転びそうになったが、そこは黙っておく。畑で転んでも怪我はしないが、服は汚れてしまう。チビたちの中にも数回転んだのがいて、おかげで服に土が入り込んでしまっていた。
村の水場には、近くの山から引かれてきた水が次々と流れ込んでいた。木を縦半分にして、その中央を刳り貫くことで、そこを水が流れるようになっている。
そうやっていくつも樋を繋いでここまで水を運んでいるのだ。水場は段々構造になっていて、一番上の部分が飲食に使うための部分、二段目が洗濯や洗い物に使うために使われているらしい。
一番下の段は浅く広くなっていて、ここで汚れたものを洗う。
二段目から三段目に落ちる水で手を洗い、三段目に溜まった水で足を洗っている。水が冷たいせいか、誰もがざっと土を洗い落とすだけで済ましていた。
男たちは慌てて焚き木のほうへと走り寄り、冷たくなった手を火にかざしている。
ソフィはチビたちのほうへ首を向けた。
「うむ、次は妾たちの番なのじゃ。水が冷たくてもしっかり綺麗に洗わねばならん」
このチビたちに自分で手を洗わせると、土の汚れが残りかねない。ここは年長者として、このチビたちの姉貴分としてしっかり手本を見せてやらなければ。
そう思った瞬間、イレーネが水場のほうへと近づいた。引き止めようした時、イレーネが石に躓いた。
「なんと?!」
慌てて手を伸ばし、その体を引き戻そうとしたが、力も体重も足りなかった。
倒れこむイレーネと共に、水場の中へと落ちてしまう。
ばしゃんと音がして、水が服にしみこんでくる。
「ぎゃあああっ! 冷たっ!」
水の冷たさは想像以上だった。まるで氷を当てられたかのように、肌から体温が奪われていく。もはや痛いくらいだった。
だがそれより。
「イレーネ! これイレーネよ、大丈夫か」
「ふぇ」
イレーネの体もずぶ濡れだった。なんとか水場からその小さな体を引っ張り出したが、スカートの裾からぼたぼたと水が滴っている。泣きそうな顔でこちらを見つめてきた。
いや、もはや泣き出す寸前だった。
アデルや他の男たちが目を見開き、こちらに駆け寄ってくる。
「ソフィ?! 大丈夫か?!」
「さ、寒いのじゃ」
イレーネの父、エッケルが慌てて駆け寄ってきた。
その顔には驚きと心配の色があった。
「何やってるんだイレーネ!」
怒られたと思ったのか、ついにイレーネは泣き出してしまった。いつも元気なイレーネが泣いていると、こちらも悲しくなってしまう。
肌からどんどん熱が奪われる中、ソフィはエッケルに言った。
「怒るのは後なのじゃ。とりあえず、妾たちは体を温めなければならん」
唇が寒さで震えてしまう。
焚き火のほうへ視線を移したところで、エッケルが言った。
「それならうちの暖炉を使うといいよ」
「む……」
確かにあの焚き火ではろくすっぽ体を温められないかもしれない。そもそも外にあるわけだから、周りの空気は冷たいのだ。
ここはエッケルの提案を受け入れたほうがいいだろう。いつまでも迷っていると、寒さでまた震えてしまう。
イレーネもまだ泣き止まないし、迅速に行動する必要がある。
「では妾は暖炉を借りるのじゃ。ほれイレーネよ、泣いておる場合ではないのじゃ」
ソフィはまだ泣き止まないイレーネの手を引き、エッケルの家へと向かった。
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