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第二部 第三章
リンゴ
しおりを挟むシャルロッテの屋敷を後にした後、シシィは城門へ向かって歩いた。この広い都市は、歩くだけで随分と骨が折れる。ルイゼの世話になっていた頃も、端から端まで歩き回ったことはない。
この都市に住む人たちもそうだろうと思う。わざわざ遠くまで出かける必要などないし、この都市から出る機会もそうそう無いだろう。
シャルロッテの屋敷から城門まではそれなりに距離がある。
ここから近い城門もあるが、どうせなら入ってきた門から外に出たい。
今は銀貨を大量に持っている。城門で荷物の検査を受けたりすれば、怪しまれるかもしれない。今朝通ってきた城門であれば、荷物を検められることもないはずだ。
すべての用事を終えたせいもあって、心はやや軽くなっていた。後はあの村に帰るだけだ。
エクゥとアトが頑張ってくれたおかげで、今のところは予定通りに移動できている。出来るだけ早く帰りたかったから、一週間で戻ると言ってしまったが、距離を考えれば少々無謀だったかもしれない。
もう少し余裕のある旅程を組めばよかったのかもしれないが、アデルと長く別れるのは辛い。
「買い物はすべて済ませた」
通りを歩きながらそんなことを呟く。売るものは売れたし、買うべきものも買った。一番重要な用件もすでに済ませた。
大体のことは順調に進んだから、肩の荷が下りたような気持ちになってしまう。もっとも、今は重たい荷物を背負っているので肩にはずしりと重みがかかっている。
こんな荷物を背負って歩いているせいか、小腹が空いてきた。ゆっくり食事をする時間は無いが、何かを食べるのはいいかもしれない。
エクゥとアトにも頑張ったご褒美に何か持っていこう。
「……リンゴ」
喉の渇きもあってか、急にリンゴが食べたくなってきた。エクゥとアトの好物でもあるから、リンゴを持っていけばきっと喜ぶだろう。
甘やかされてるあの二頭をさらに甘やかすのはよくないかもしれないが、こうやって頑張ってくれたのだから少しくらいはいいはず。
寄り道になるが、リンゴを買うくらいなら構わないだろう。
通りを歩きながら、シシィは青物屋を探した。
立ち並ぶ露店の一角に、果物を扱う店があるのが目に入った。店頭にはザルがいくつも並べられていて、そこには杏や葡萄、ビワなどが並んでいた。その露店の前に立ち、シシィは並んでいる商品をざっと見渡した。
リンゴが無い。時期的には置いていてもいいはずだが、見当たらない。
店番をしていた男は、こちらが何かを探しているのを察して顔をあげた。
「いらっしゃいお嬢ちゃん、探し物はリンゴかい?」
「……そう」
どうしてわかったのだろう。こちらは何も言っていないのに、店主らしき男は自分がリンゴを求めていると察したようだ。
心を読まれたようでつい不快になってしまう。店主は耳の上あたりを掻きながら、申し訳なさそうに曖昧な笑みを浮かべた。
「いやー、悪いね。リンゴはもう売り切れなんだよ」
「そう……」
無いと言われるとなんだかリンゴが食べたくなってきた。しかし、リンゴのために他の店まで行くのも億劫だ。他の果物でいいかもしれない。
そう考えていると、店主はゆっくりと頷いた。
「まぁな、今年はリンゴの当たり年だったからなぁ。いや、あれは本当に美味い。俺も長年果物を扱ってきたけど、今年のリンゴは十年に一度ってなくらい美味かった。そりゃもう売れに売れて、今じゃどこも売り切れなんじゃないのか」
「当たり年……」
どうやら今年のリンゴは随分と出来が良かったらしい。それでも手に入らないのであればどうしようもない。
ここは諦めたほうがいいだろう。果物なら他にもあるし、エクゥとアトなら人参でも喜ぶはずだ。
「うんうん、お嬢ちゃんがリンゴを欲しがる気持ちはわかるよ。今日も沢山の人がリンゴを買いに来てねぇ、売り切れだって言うのが本当心苦しいくらいだったから」
「そう」
「あのリンゴなら人気が出るのも頷ける。一口かじればこう、果汁がじゅわぁっと溢れてくる」
「……じゅわぁ」
「食感はもうシャクシャクってなもんよ」
「シャクシャク……」
「噛むと爽やかな甘みが口いっぱいに広がるし、ほのかな酸味で唾が沢山出てくるし。あんな美味いリンゴ、もうなかなか食べられないだろうな」
「……他に買えるところは?」
「いやー、もうどこも売り切れだろう」
「そう」
十年に一度の当たり年だという。シシィは口の中に唾が溜まるのを感じた。思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。
無いのがわかると急に欲しくなってしまった。リンゴを買いに来ただけなのに、何故かとんでもない損をしてしまった気がする。
店主は顎に生えた黒い髭を擦りながら遠くへと視線を向けた。
「あ、いや、リンゴを手に入れる方法はあるんだけどな」
「どこで手に入るの?」
「向こうの広場で射的をやっててな、その景品にリンゴがある」
「それは弓? それとも銃?」
「弓だって、街中で銃なんか使わないし。弓っていっても、遊びみたいなもんで大した距離もない」
「そう……」
「ま、興味があるならお嬢ちゃんも挑戦してみたらどうだ?」
そう言って店主はにやりと笑った。
店を後にし、シシィは広場に向かって歩いた。この都市は色々と催し物が開かれることがあり、何らかの景品を手に入れるために多くの人が参加するそうだ。
今までそういったものに興味は無かったが、今は違う。今はリンゴが食べたくて仕方がない。
「どうしよう」
すぐにこの都市を出て帰路に着きたいが、リンゴも欲しい。そのリンゴがどのくらいの量なのかはわからないが、もしかしたら村に持って帰れるほどあるかもしれない。
荷物になるからお土産を買うつもりはなかったが、沢山手に入ったなら持ち帰るのもいいかもしれない。十年に一度の当たり年だというから、アデルもソフィも喜ぶに違いない。
道を歩きながら、シシィはアデルにリンゴを渡す場面を想像してみた。美味しいリンゴを持って帰ったら、アデルはきっと喜ぶだろう。
もしかしたら、わしのためにこんな美味しいリンゴを持ってきてくれてありがとう、などと礼を言われるかもしれない。いや、それだけでは済まないだろう。
会えない日々が、アデルの中の獣を飢えさせているはずだ。
わしにはもっと美味しそうな果実が見える。このたわわに実った体はさぞかし甘いのであろう、じっくりと、時間をかけて味合わせてもらおうか。
などと言いながら抱き寄せられてしまうかもしれない。
「はっ!」
シシィは立ち止まり、慌てて首を振った。妙な妄想がもくもくと膨らんでしまった。
上の空で歩いていれば、スリに遭うかもしれない。ただでさえこの頃は気が抜けているのに、この調子では余計な失敗をしてしまう。
気を引き締めるために杖を強めに握った。
どうやら会えない日々が自分にも影響を与えているらしい。
リンゴを手に入れて、早く帰るとしよう。
アデルも自分と会えなくて寂しい思いをしているはずだ。その寂しさをいっぱい埋めてあげなければいけない。
具体的には肌と肌の接触や、場合によってはそれ以上の、愛情のこもった行為で。
「……あ」
また妙な妄想が沸きそうになって、シシィは首を振った。
これでは飢えているのが自分のように思えてしまう。
とにかく、射的でリンゴを手に入れればすぐに帰れる。
歩調を速め、広場へと向かった。
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