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第二部 第三章
稀覯本
しおりを挟む歩けば肩が削り取られて小さくなる。そう言われるほどヴェアンボナは人が多い。それも大通りに限ってのことで、裏路地をずっと進むとさすがに人影は少なくなる。
高い建物の間をすり抜けるように進み、一軒の家まで辿り着いた。しばらく影に守られていたおかげで、体からは汗が引いている。
木製の扉はあちこちがささくれ立っていて、まともに手入れがされているようには見えなかった。
その扉を杖でガンガンと叩く。
扉の向こうからは何の反応も無い。シシィはさらに扉を叩き続けた。中にいた誰かが痺れを切らしたのか、どすどすと大きな足音を立てながら扉のほうへと近づいてきた。
よほど腹が立っているのか、扉の閂を荒々しく外す音がした。扉が勢いよく開く。
「誰ですか?! 私の読書の邪魔をするのは?!」
扉の向こうから現れたのは中年の男だった。よほど立腹しているらしく、太って丸々とした顔を歪めていた。
まるで教会の坊主が着るような紺色のローブを羽織っていて、そのローブがでっぷりと肥えた体を覆い隠している。
シシィはローブのフードを後ろに落とし、杖を下げた。
「マギステル・フランケスコ、あなたに用があって来た」
扉の向こうに居た男が目を丸々と見開いた。
「おお! 金色の羊ではないですか! なんと、お久しぶりですね」
「……その呼び方はやめてほしい」
「いやぁ、これはどうしたというのです? また偽書の鑑定ですか?」
この男の名はフランケスコという。本名はまた別にあるらしいが、筆名しか知らない。この都市でも有名な知識人で、本の虫としても名が知られている。
以前、とある本が本物なのか、それとも偽書なのかを調べるため、この男に鑑定を依頼したことがある。フランケスコはその本をぱらぱら見るなり、紀年法や人称代名詞の誤りを見つけ、その本が偽書であることを見抜いた。
古書に関して深い知識を持っていて、古代言語にも詳しい。この男は大学の教授として教鞭を執っていたが、読書と執筆に集中したいという理由で職を辞したのだという。
自分もこの男が書いた本を何冊も読んだことがあり、様々な知識を深めた。
「今日は偽書の鑑定ではなく、あなたに買い取ってもらいたい本があって来た」
「本を? とにかく、こんなところでは何ですから、上がってください」
フランケスコはそれなりにお金を持っているはずだが、こんな狭苦しい場所で生活をしている。本のこと以外にお金をかけるのが勿体無いと思っているのかもしれない。
昼間でも蝋燭の明かりが欲しくなるほど室内は薄暗く、外から来たばかりの自分はまだ目が暗さに慣れない。フランケスコは自身の書斎に入り、奥のほうにある窓を開いた。
窓の向こうは裏庭になっていて、この辺りの建物に住む人たちが日々の生活に利用している。高い建物に区切られているせいで、昼間だというのにそれほど光は入り込んでこなかった。
フランケスコの机はその窓に向かって据えつけられていて、その明かりを頼りに日々の書き仕事や読書をしている。
書斎の一角で黒猫が座り込んでいる。シシィは杖を脇に立てかけてからその黒猫に近寄り、そっと手を伸ばした。
ゆっくりとした仕草で猫を抱き上げ、胸の中で揺らす。
フランケスコは椅子をこちらに寄越し、自身もその肥満体をどさりと椅子の上に乗せた。
「いやぁ、なんのおもてなしも出来ませんが」
「構わない」
そう言いながらシシィは胸に抱いた黒猫を揺らした。フランケスコは目を細めてこちらの様子を見ている。
「おや、カーくんも大人しくしていますね。金色の羊のことを覚えていたのでしょうか」
「……」
「ほーらカーくん、私たちはお話があるから、少し席を外していてください」
その呼びかけに黒猫が胸の中でもがきはじめる。それから腕の間をすり抜けて床に飛び降りると、部屋の外へと出て行った。
「我が家の騎士さまも賢いでしょう。さて、話の続きをしましょうか金色の騎士さま」
「……」
言いたいことがまとまらず言葉にならない。自分は羊でも騎士でもないし、金色の騎士と呼ばれていたのはルイゼのほうだ。
あと、あの黒猫がいたところで話の邪魔にはならないし、もう少しだけ胸に抱いていたかった。
ただ、あの猫にも仕事がある。この家で本をネズミから守っているのだ。フランケスコにとっては、誰よりも頼りになる騎士なのだろう。
時間が惜しい。シシィは背負っていた鞄から一冊の本を取り出した。羊皮紙に革の装丁で、膝に乗せて読むには重過ぎる本だった。
表紙には何も書かれていないので、フランケスコにとっては何の本なのかわからなかっただろう。だが、表紙に何も書かれていないというのが何より重要なのだ。
現代の本とは違い、古書にはそういうものが多い。さらに革の装丁、羊皮紙、これらは庶民では手が出ないほど高価なものだ。
フランケスコは表情を引き締め、本を両手で受け取った。フランケスコの腕が本を取るのと同時にわずかに下がる。思っていたよりも重たかったのだろう。
「これは……」
膝の上で広げる類の本ではないと思ったのか、フランケスコは背を向けて机に本を置いた。婦女子のヴェールを持ち上げるかのようにフランケスコがそっと表紙をめくる。
それと同時にフランケスコの肥満体がさらに膨らんだように見えた。
「これは、まさか?!」
フランケスコの巨体が細かく震えだす。堪えきれないのか、頁をめくり続ける。どうやら何の本なのかがわかったようだ。
あの本は千年以上前の政治家が書いた本だ。元になった本は既に散逸したと言われていて、この本自体は写本になる。原本は降り積もる歴史の中に埋もれて消え去ったため、その内容は名前を除いてまったく知られていない。
シシィはその背中に向かって声をかけた。
「あなたならその本の内容が理解できるはず。そして、それが偽りなどではないことも」
後世に誰かが書き上げたものなどではない。そういう本にはある種の誤りが含まれているが、その本にそういうものは見当たらない。
フランケスコも同じ判断を下すはずだ。
「え、ええ……、この格調高い文体、正確無比な理論の展開、まさしく……、ほ、本物」
「その本を売りに来た」
「いくらですか?!」
フランケスコはがばっと振り返りこちらに詰め寄ってきた。瞳孔が完全に開ききっている。さらに息も出来なくなったのか肩が荒く上下していた。
こんな巨体に詰め寄られるのは困る。シシィは脇に立てかけておいた杖を手に取ってフランケスコの眼前に突き出した。
「落ち着いて」
「おお、お、落ちついてられますかッ?! そ、そんな馬鹿な、ああ、な、なんということですか?! 歴史的大発見ですよ!! あ、あなたはこ、これをどこで、どうして隠して」
フランケスコは落ち着くどころか興奮が増しているようだった。この本が偽書ではないとわかったこと、それが自分の手元にやってきたこと、新しい事実が次々とフランケスコを殴りつけてゆく。
杖で数回叩いたとしてもあの興奮は収まらないのではないかと思えてしまう。
「ああああ、な、なんということでしょう。こ、こんなことが、ああ!」
フランケスコは無類の本蒐集家であり、そしてこの本の著者を長年敬愛してやまない人物だった。千年以上前に土へ帰った人物に対し、フランケスコはわざわざ手紙まで執筆したことがある。
彼にとって、千年の時は問題ではないのだろう。本を通じて会話を交わし、親睦を深め、自身の糧としている。フランケスコにとって本の著者は隣人よりも遥かに身近な存在なのだ。
フランケスコが興奮を冷ますには現実の話をするのがいいに違いない。
じたじたと足踏みを始めた中年のフランケスコを見て、シシィは心が冷めてゆくのを感じた。
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