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第二部 第三章
公国の首都
しおりを挟むそれは平原の中央に位置していた。遥かに遠く見える円形の都市、公国の首都ヴェアンボナ、二十万の魔族を撃退し、人間の土地を魔族から守りぬいた要衝。
その傍では幅の広い川が都市をかすめて走っている。薄霞の中に浮かび上がったその都市を見て、シシィは額の汗を拭った。
ようやく目的地が見えた。朝靄が晴れる頃にはあそこまで辿り付けるだろう。
「ふぅ……」
シシィは息をひとつ吐いて馬を止めた。小高い丘から首都を見下ろし、その姿が自分の知るものと変わりが無いことを確認する。
人間の都市の中では最も大きく、何十万人という人間があの城郭の中で生活をしているのだ。
ヴェアンボナは二つの巨大な山脈のちょうど切れ目のあたりに位置している。二つの山脈は高く、夏でも白い帽子を被るほどに寒い。
厳寒な気候と峻厳な地形は人の立ち入りを拒み、何者も踏破できない秘境になっている。山の至るところに魔物が潜んでいて、一度入れば二度と出られないとまで言われていた。
その山脈が、人の土地と魔族の土地を隔てている。公国の首都ヴェアンボナはその山脈の切れ目に位置し、魔族の軍勢が人間の土地に入ろうとすればまずそこを通らなければいけない。
要衝であるがゆえにヴェアンボナは人間の暮らす都市の中で最も堅牢な作りになっている。
城壁自体はさして高くない。むしろ過去に作られた都市のものと比べれば数段低い。大砲が出現したことで、高い城壁はほぼ無用な物になりさがったせいだ。
城壁からは槍の穂先のように稜堡がいくつも突き出ていて、死角ができないようになっている。
堀がその城壁をぐるりと取り囲んでいて、緑がかった水を湛えている。あの堀は意外と浅いと聞いたことがある。人が歩いて渡ることもできるが、ところどころが異様なまでに深くなっているという。
敵が堀に雪崩れ込み、渡れると判断したとしても、それらの深みにはまった瞬間に身動きができなくなるのだ。その深くなっている場所は機密になっていて、どのように張り巡らされているのかはわからない。
そして、その堀の外にある緩やかな坂道こそが城郭や堀よりも重要な防衛線となっている。
氷を意味するグラキスという斜堤で、そこに建物を建てることは禁じられていた。グラキスは城壁に向かって緩い登り坂となっており、その延長線上にちょうど城壁の上部が来るようになっている。
守備を担当する砲兵は、その坂道を登ってくる敵をいとも容易く殲滅することが出来る。
もし高い場所から地上の敵兵を撃つとなれば、銃身の狙いを上下左右に動かさなければいけない。しかし、あの坂道がちょうど城壁の上端に延びるようになっているので、守備兵は殆ど左右に銃身を動かすだけで敵兵を狙うことが出来る。
あの坂のおかげで、守備兵は高い位置からでも、平野に並んだ敵を撃つかのように敵を一掃できるのだ。
その堅牢な城砦都市だからこそ、魔族二十万の軍勢に囲まれてもどうにか耐え切れた。
グラキスは魔族が掘った大量の塹壕によってずたずたにされていたはずだが、どうやら修復が終わったようだ。どうせだからと石を運んできて石灰モルタルと一緒に埋めたというから、もしまた魔族が攻め入ったとしても塹壕を掘るのはもう難しいだろう。
シシィは馬から降り、その場で着替えを済ませた。その後で荷物を整理し、あの都市に持ち込むものを揃えておく。あの都市に入ると、通行税や関税が生じる。普通は気にするような額ではないが、今回はいくらか高価な物も持って入ることになる。
準備を整えてから、シシィは首を軽く回した。
馬のためにパンを用意しておく。
「わたしはしばらく向こうに行ってくる。夕方には帰るから、それまで誰にも捕まらないように」
そう言ってみたが、馬が理解してくれているのかはわからない。エクゥもアトも誰かに捕まるような間抜けではないから心配はいらないだろう。
真っ黒な馬パンを差し出すと、二頭が気だるそうに齧りついた。
「……美味しくない?」
馬の顔を察するに、不満があるようだった。確かに馬パンというのは美味しくないものだ。ふすまとライ麦、時には燕麦などを加えて作られていて、人が食べたならあまりの不味さに吐き出してしまうと言われている。
自分は食べたことが無いが、シャルロッテは食べたことがあるのだという。地にも落ちる不味さだと言っていたから、少なくとも人が食べるものではないのだろう。
「がんばって食べて」
いくらか腹を満たしておいて貰わないと困る。間違って羊歯のようなものを食べてしまうと、馬は足腰が弱り、場合によっては死んでしまう。
自分が見ていないところで変なものを食べられてはいけない。今のうちに腹を満たしておいてもらいたいが、二頭ともまったく食が進んでいない。
三日ほど一緒に旅をしていて感じたのだが、エクゥもアトも少々贅沢に慣れてしまっているような気がする。ブラシがけも丹念にやらないとあからさまに不満を訴えてくるのだ。
あの村で可愛がられているうちに、それが当たり前だと思うようになったのだろう。
平和な生活で変わったのは自分だけではないらしい。
馬をどうにか宥めてパンを食べさせた後、残りのパンを置いてからヴェアンボナに向かって歩き始めた。城壁の中まで馬を持っていこうとすると余計にお金がかかるし、預けるにしてもお金がかかる。
それに、この二頭くらいになると自由に走れる状況で誰かに捕まるようなことはない。夕方まで離しておいても問題はないはずだ。
およそ一時間ほど歩いて門まで辿り着き、シシィは入場の手続きを済ませた。時間がかかるかと思っていたが、ローブの下に騎士団の制服を着ていたおかげですんなりと通ることが出来た。
こちらが騎士だと分かるやいなや、門兵や役人の態度がころりと変わった。税金まで免除されたし荷物を調べられることもなかった。
無事に中へと入った後、すぐさま市場へ向かって歩き出す。その道中、この都市の人々の服装に変化が現れていることに気づいた。
ヴェアンボナはあらゆる土地から人々が流入するため、生活様式や服装も多岐に渡っていた。魔族の土地に近いということもあって、その影響を受けた装いをするものもいる。
しかし、今は違うようだ。女性のスカート丈が異様に短くなっている。中には膝が見えるような格好で歩いている若者もいた。
騎士団のスカートと同じように、街の女性が穿いているスカートはヒダがつけられている。あれは動きやすいようにと、ふいごの蛇腹に発想を得て作られたもののはずだ。
どうやら騎士団の服装がこの都市の流行に影響を与えたらしい。
賑やかな通りを横目に見ながら、シシィは市場へと足を踏み入れた。様々な露店が立ち並び、酷い悪臭が漂っている。魚を扱っている店が近いせいかもしれない。
大通りとは違って、笑い声よりも商人の掛け声のほうが大きかった。魚や肉の腐敗臭に顔をしかめつつ、シシィは早足で進んだ。
最初の目的地は薬屋だった。一軒の薬屋まで行き、手持ちの薬をすべて売り払う。
ここでも騎士団の制服をちらりと見せると、店主の対応があからさまに変わった。
「いや申し訳ない、騎士さまでいらしたとは……。ならこのような高価な薬を持っていても納得ですな」
五十台の店主は後頭を掻きながら商売用の笑みを浮かべていた。確かに、竜血樹から取れる竜血は普通の娘が手に入れられるような安い品ではない。
他にも貴重な薬があったから、店主が本物かどうかを疑ったのも無理はないだろう。本物だとわかった後も、相場より安い値段で買い叩こうとしたのだから、商売熱心と言う他ない。
手持ちの薬を売った後で、他にも不要な品々を売り歩く。もう戦いの世界とは無縁なのだから、持っていても役に立たないものも多い。
それらを売り払った後、今度は買い物に出かけた。あの小さな村ではなかなか手に入らない品を購入する必要がある。
こうやってヴェアンボナまで来たのは、リディアが死亡したという話がルイゼに届くようにするという理由だった。しかし、内心はこちらのほうが自分にとって重要だった。
あの小さな町では手に入らない物を、ここで揃えておく必要がある。
普段から買うようなものではなかったので色々と戸惑ったが、それらの用事も終えた。
「ふぅ……」
軽くなった荷物が再び重くなったことで、額に汗が流れてしまう。騎士団の制服の上にローブを羽織っていたが、あまりの暑さに脱いでしまいたくなる。
冬が近くなっているはずだが、今日は天気が良い上に蒸していて暑い。ヴェアンボナは山脈の切れ目にあるため、風が漏斗の底に落ちるかのように流れ込む。急に厚い雲が現れたり、急に寒くなったり暑くなったりと、気候が変化しやすい。
「暑い」
思わず呟きが口から漏れてしまう。今は誰も反応してくれる人がいなくて、独り言は街の喧騒へと溶けてゆく。
早く用事を済ませなければいけない。
杖を握り、ローブの下に魔法で涼しい風を送り込む。少しは体を冷やしておかないと、体力を消耗してしまう。
あらかた汗が引いたところで再び歩き出した。
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