名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

牛の出産

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 アデルは厩舎の中で、敷き藁の上に座り込んだ。子牛の足に繋がったロープを強く握り締める。

 子牛の体はまだ踵までしか出ていない。おそらくエッケルとクニッゲが引っ張ったのだろうが、それでも出てこなかったのだろう。

 母牛はもう立てないのか、体を横たえたまま敷き藁の上で切なげに鳴き声を上げている。



 牛の巨体越しにロルフの顔を見る。



「ロルフ、わしはロルフに乗るぞ! 引っ張ればよいのじゃな!」

「俺が合図したら引っ張ってくれ」

「わかった、なんでもよい、もうおぬしに従う」



 アデルは片足を母牛の腿に置いて、ロープを強く握り締めた。さすがに敷き藁の上で何かを引っ張ろうとしたところで、足が滑って力が入らない。

 母牛には悪いが、その腿に足をかけさせてもらう。こうすれば脚力を使ってロープを引っ張ることが出来る。

 こちらがロルフに協力しようとしたことで、クニッゲは驚いたようだ。いつもより高い声で言う。



「アデル?! お前までどうしたんだ?!」

「ロルフが言うんじゃから、責任は全部ロルフにひっ被せる。クニッゲさんも手伝ってくれ」



 いかに自分が怪力であろうと、人数は多いに越したことはない。

 クニッゲは鼻根に皺を寄せて唸っていたが、もはや反対したところでどうにもならないと思ったようだ。



「くそっ……、ああもう、母牛がどうなっても俺は知らんぞ」



 クニッゲはロープを手に取り、いつでも引ける体勢に入った。何やら厩舎のほうで物音がしたかと思えば、村長とリーゼもやってきてこちらを覗きこんでいる。

 エッケルは持っていた蝋燭をリーゼに渡し、自身もロープを手に取った。



 準備が整ったのを見て、ロルフは母牛の鼻に手を当てた。それから鋭い大声を上げる。



「今だっ!」



 両腕に力を篭め、足で踏ん張りを利かせる。思い切り引っ張ってみたものの、子牛の体は出てこない。

 子牛の足にかけたロープはギチギチと音を立てたが、これだけではまだ足りないようだ。

 もっと強く引っ張らねば、と思った瞬間にロルフが声をあげた。



「やめっ!」



 その声を聞いてアデルが力を緩める。後ろにいた二人も同じく力を緩めたので、ロープが少したわんだ。

 ロルフは母牛の表情を真剣に眺めている。それから再び声を上げた。



「引っ張れ!」

「ぬおおおっ!」



 歯を食い縛り、思い切り力を篭める。腕の血管が太く浮き上がり、ロープを握った手はやや白みがかかっていた。

 これでもまだ出てこない。逆子とはいえ、これほどまでに抵抗があるとは思ってもいなかった。



「やめっ!」



 ロルフの合図で力を緩める。どうやらロルフは牛の呼吸を読み、その息みに合わせているらしい。

 よくもまぁそんなものが読めるものだと感心してしまう。ロルフは鋭い眼差しで母牛の顔を見つめ、さらに声を上げた。



「引っ張れ!!」

「うおおおおおおっ!!」



 踏ん張りを利かせながら思い切り引っ張る。それと同時に、子牛の体がわずかに迫り出してきた。後少しだとアデルがより力を篭めようとした瞬間、再びロルフが制止をかけてきた。

 だが次で必ず子牛の体は外に出るはずだ。問題は、その時に母牛の体を傷つけてしまわないかということだ。

 本来は剥がれ落ちてはいけない部分まで一緒に出てくることもある。牛の陰部からは羊水とは違う、赤色の液体が流れているのが見えた。

 あれは臍の緒が千切れたからなのか、それとも胎内で何かの異常が起こったからなのか、わからない。



 わからないが、もうロルフに従うと決めたのだ。こうなったらロルフと奇跡を信じるしかない。

 ロルフは牛の呼吸を読み、さらに声を上げた。



「今だ!」

「おりゃあああああっ!!」



 ずるっ、と音がして、子牛が敷き藁の上に落ちた。その体は半透明の羊膜で覆われていて、そこに走る細かな血管がプツプツと破れて血の色を帯びていた。

 臍の緒は千切れて子牛の体から垂れている。



 ロルフはすかさず子牛に近寄った。子牛が泣き声をあげない。呼吸をしていない。ロルフが子牛の後ろ足を両手で掴んだ。そのまま引っ張り上げ、子牛を逆さづりのような格好にする。



「ほら! 息をしてくれ!」



 そう言いながらロルフが子牛を揺らす。

 子牛は母の胎内ですでに死んでいたのだろう。それ以上やってももう無駄だ。そう思った瞬間だった、子牛が頭を動かした。目をぎょろぎょろと動かし、それから小さく泣き声を上げた。

 逆さになった子牛の鼻と口から羊水がぼたぼたと流れ出し、敷き藁の上に染みを作る。



 アデルの喉から自然と声が漏れる。



「おお……」

「い、生きてるのか」



 クニッゲも目の前のことが信じがたかったようだ。子牛は小さな体を揺り動かしている。ロルフは手を降ろして子牛の体を藁の上に寝かせてやった。

 すぐさま母牛が立ち上がり、子牛の体を舐め上げてゆく。気のせいかもしれないが、その母牛の表情は誇らしげなものに見えた。



 ロルフはすべて終わったとばかりに長い息を吐き、汚れた手を敷き藁でガシガシと拭き取った。こちらに視線を向けて爽やかな声で言う。



「ありがとう、みんなのお陰で助かったよ」

「お、おお……」

「いや俺は」



 礼を言われても困る。まさか子牛が生まれてくるとは思っていなかったので、まだ今ひとつ現実感が沸かない。それはクニッゲやエッケルも同じだったのだろう。

 ロルフに促されて通路のほうに出た。



 母牛は子牛の体を舐め上げている。まるで舌で子牛を転がそうとしているようにも見えた。

 蝋燭の明かりの中、新しい命が母親の愛を受けている。



 アデルが一歩下がると、何かにぶつかった。



「うおっ?!」

「痛いわこの阿呆!」

「なんじゃ、村長か」



 どうやら村長に気づかずぶつかってしまったらしい。村長の背が低いせいで見えなかった。

 村長は鼻を擦った後、ロルフに尋ねた。



「どうやら無事に出産が終わったようじゃな」

「無事かどうかはまだわからないけど……、この後、この子が立って、それからお乳を飲むまでは。それにこいつが無事かどうかも見なきゃいけないし」



 そう言ってロルフが母牛に視線をちらりと向けた。素人目には母牛は健康そのものといった様子に見えるが、どうなるかはロルフにもわからないのだろう。

 村長はゆっくりと頷き、自身の白いヒゲを手で撫でた。



「ロルフ、よくやった」

「いや、頑張ったのは俺じゃないからなぁ」



 そう言ってから再び母牛に目を向けた。確かに、一番辛い思いをしたのも頑張ったのもあの母牛だろう。初めての出産で苦しんだはずだ。それに逆子という不運にも見舞われた。

 それでも産んだ。



 村長はヒゲを撫でながらロルフに尋ねた。



「ロルフ、何故この母牛が出産できると思ったんじゃ?」

「そりゃ……、毎日見てるから、こいつが出産を控えて沢山エサを食べるところも、出産間近になってちょっとエサが減ったのも」

「ほう、なるほど。母牛の意気込みを見ておったわけか。そういえばこの敷き藁、よく乾燥しておって綺麗じゃな」

「うん、出産が近いと思ってさ、こいつのところは厚めに、そんでいつも綺麗になるよう気をつけてたから」

「ロルフ、牛の息みを読んでおったようじゃが」

「まぁ、そろそろ力むだろうなっていうのは分かるよ」

「まだ子牛が生きておると確信しておったのか?」

「母牛がまだ諦めてなかったから、絶対に生きてると思ってた」

「そうか……」



 村長は目を閉じてゆっくりと息を吸い込んだ。





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