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第二部 第三章
お裁縫
しおりを挟む「出来たわ!」
リディアの嬉しそうな声を聞いて、ソフィは視線を上げた。リディアはボタンをつけ終えたベストを両手で高く掲げ、嬉しそうに笑顔を浮かべている。
ソフィも釣られてそのベストに視線を向けるが、喜ぶほど何かが変わったようには見えなかった。
リディアはよほど嬉しかったのか、自慢気に笑みを浮かべて自分のやったことを褒めた。
「ふふふ、完璧な仕事だわ」
「そうかのう?」
ソフィは手元に視線を落としながらそう答えた。
昼過ぎに、ソフィはリディアに連れられて村の中央まで来ていた。リディアはリーゼに用事があったらしい。
なんでもアデルの服を引っ張った時にボタンが取れたとかで、それを直す方法をリーゼに聞きたかったのだという。ボタンくらいアデルなら自分ですぐに付けられるし、リーゼに方法を聞くよりもリーゼに直接頼んだほうが早いのではないかと思えた。
しかしリディアは自分で直すことを選び、四苦八苦しながらようやくボタンを付け終えた。
リーゼの家の庭までやってきて、何故こんなことに付き合わなければいけないのだろうとソフィは溜息を吐いた。ふと視線を上げると、リーゼは何か手元で刺繍のようなものをしているのが見えた。
リディアはベストをリーゼの顔の前まで持ってきて尋ねた。
「ねぇどうこれ? いい感じでしょ」
「うん? いいんじゃない」
リーゼは気のない返事を寄越して、再び手元に視線を落とした。
どうでもよさそうな返事だったが、それを聞いたリディアが嬉しそうに笑みを浮かべる。
「でしょ! これでアデルもあたしにお礼を言うに違いないわ。褒めるかもしれないわね」
リディアはそんなことを言って胸を張る。ソフィは呆れてしまった。リディアが壊したものを、リディアが直しただけであって、お礼を言われたり褒められたりするようなことだとは思えない。
そもそもリディアがアデルの服を引っ張らなければこんなことは起こらなかったのだから。
それを直接リディアに言うのはさすがに躊躇われたので、ソフィは黙ったまま自分の作業に戻ることにした。
リーゼが呆れたように首を振る。
「それってリディアが千切ったんでしょ? それを戻しただけでお礼とか言われるわけないじゃん」
ごもっともな指摘だと思えた。それを聞いたリディアがむっと唇を尖らせる。
「そんなことないわよ、あたしが一生懸命やったんだもの。褒められて当然じゃない」
「えー? そんなことないと思うけどなぁ」
リーゼは訝しげに眉を寄せて息を吐いた。リーゼが三つ編みに編んだ髪を肩の後ろに持ってきて、それから椅子に深くもたれかかった。
リーゼは背も高いし、体重も相当ある。お腹は出っ張っているし、太腿もお尻も太ましい。それより目を引くのが、胸の大きさだった。リーゼはエプロンをしているが、瓜のような大きな胸がそのエプロンを押し上げている。
ソフィも一旦手を止めて首を振った。小春日和のよい天気だったので、今日はリーゼの家の庭でこうやってテーブルを囲んでお喋りをしている。
お菓子などが出てくるのは嬉しいことだったが、裁縫の練習をするのはなかなかに苦痛だった。
針を針刺しに刺して、ソフィは自分の顔を両手で覆った。それから目頭を揉んで、息を吐き出す。
「んあー……、疲れたのじゃ」
理由はよくわからないが、リーゼは自分に裁縫を教えてくれる。しかし、裁縫を覚えるということに対してはあまり気乗りしなかった。
今後の人生で服を作る予定もないし、おそらく何か繕うくらいのことしかしないだろう。あまり熱心に上達を願う気持ちが湧いてこなくて、ただチマチマと同じような作業をしているだけのような気になってしまう。
何故こんなところでこんな作業をしなければならないのだろう。ソフィはそう思いながら首をまわした。
強張った筋肉をほぐしていると、リーゼが手を伸ばしてくる。ソフィがしていた縫い物は机の上に置いてあったので、それを取ろうとしたのだろう。
リーゼが体を前のめりにしたものだから、その巨大な胸がテーブルの上にドンと乗った。
さきほどまでソフィが縫っていたものを見て、リーゼが頷く。
「うんうん、いい感じだよソフィちゃん」
「ふむ、さすがに一年もあれば上達するのじゃ」
「まぁそうかもしれないけど、でもカールちゃんのほうがまだ上手いかな」
「なんと?! 妾よりカールのほうが上手いと言うのか?」
「そりゃそうだよ、カールちゃんのほうが長いことやってるんだから」
別に裁縫の上達に興味があるわけではないが、カールに負けているというのは何か気に入らない。
カールは同じ年頃の男の子で、女の子みたいな可愛い顔をしている。この村で同じ年頃の子はカールしかいないので、村長の下で勉強や遊びをする時はいつもカールと一緒になる。
カールは真面目だし、優しい子なので色々と世話になることも多い。しかし、カールに負けるわけにはいかない。
あの可愛らしい顔で、アデルのことをアデル兄ちゃんと呼び慕っている。アデルのほうもそんなカールを自分の弟のように可愛がっていて、カールのためならと色々と世話を焼いている。
アデルがカールに何か丁寧に教えている時の様子を見ていると、こう、むかむかと腹が立つ。
ソフィは眉を吊り上げ、再び裁縫の練習を始めた。
そんな様子を見ながら、リーゼが微笑む。
「ソフィちゃんを見てると思い出すなぁ。あたしもアデルとかロルフに対抗心燃やして頑張ったもん」
「んあ? なんじゃ」
「ほら、アデルもロルフもさ、頭はいいし器用だし、女がするような仕事も全部一人で出来ちゃうわけでしょ」
「ふむ、確かにそうじゃのう」
あまり比較対象が無かったから最初は疑問に思わなかったが、アデルは家事であれ何であれ一人で器用にこなしてしまう。
世の男というのはろくに料理も出来ないものだと知ったのは、アデルと出会ってから随分後になってからのことだった。
リーゼは遠い昔を懐かしむかのように視線を空へと向けた。テーブルに両肘をついて指を組み、しみじみと言葉を漏らす。
「さすがに裁縫で負けたらダメだって思って、練習したからねぇ。おかげでかなり上達したけど」
「ふむ、立派な心がけじゃ。妾はそこまで必死になれんのじゃ」
「でもソフィちゃんも今のうちに裁縫覚えておかないと。お嫁に行く時に困るでしょ」
「それは問題ないのじゃ。妾はアデルの嫁になるのでな」
「まだ言ってるのそれ?」
「まだとはなんじゃ。妾はアデルの嫁としてこの村に来て、今は大人になるためのお勉強に精を出しておるのじゃ」
ソフィがつんと顎を上げてそう言った。呆れたのかリーゼが首を振る。
「アデルみたいなのに惚れる気持ちはさっぱりわからないけど、どっちにしたって裁縫覚えておかないと、困るって」
「ふむ、そういうものかのう……。とはいえ、妾は別に裁縫で身を立てる予定はないのじゃ。そこそこで十分なのじゃ」
「甘い、そんなんじゃお嫁にいけないって」
リーゼが強い調子でそう言った。そう言われても、ソフィにはどう返事をしてよいのかわからなかった。
そもそもリーゼ自体が未だに独身だし、何か偉そうに言えるほどの恋愛経験があるとも聞いていない。
独身であることを指摘するとおそらく怒りそうなので、ソフィは口を噤んだ。
リディアが不思議そうに目を瞬かせてリーゼに言う。
「あれ、でもリーゼって独身じゃない。お嫁に行くとか行かないとかのこと、わかるの?」
リディアの言葉を聞いて、ソフィはぎょっと目を見開いた。思っていてもそういうことを直接言うだろうかと疑問に思ってしまう。
リーゼのほうへ視線を向けると、さすがに腹が立ったらしく表情が固まっている。リディアの言葉に棘は無かったし、リーゼを傷つける意図も無かったのだろう。
ただそれを正面から言えるのは凄いと思ってしまう。
リーゼは眉を寄せて、声音を低いものにした。
「あ、あたしは別にお嫁に行くとか、ちゃんと考えてるし、そのうち行くもん。っていうか、リディアだって独身じゃないの?」
「うん、あたしも独身だけど。でも大丈夫よ、アデルの嫁になるから」
「ええっ?! ちょっと、リディアまで何言ってるの?!」
「だって仕方ないじゃない。あいつに惚れちゃったんだから」
「えええっ?! あの馬鹿に?!」
リーゼは怒りもどこへやらといった様子で大きく目を開いた。確かにこんなことを言われれば驚くのも無理はないだろうとソフィは思った。
この美人がアデルのような田舎の農夫に惚れるなど、リーゼには想像も出来ないのだろう。
世の中不思議なこともあるものだ。
ソフィは二人を静観することにした。リーゼはぱちくりと丸い目を瞬かせている。
それから考え込むように唸り、椅子の背もたれに深く体重を預けた。おかげで椅子が短い悲鳴をあげた。
「なんであの馬鹿がそんなにモテるのか意味わかんない」
リーゼの言うこともわからなくはないが、ソフィは同意できなかった。自分も惚れてしまったのだから。
リディアがうんうんと頷いて言う。
「まぁそうかもしれないけど、仕方ないじゃない、あいつに惚れちゃったんだから」
「えー?」
「ちなみにシシィもアデルに惚れてるのよ」
「ええええっ?! シシィさんまで?!」
「そうなのよ」
「大変じゃない! みんな頭がどうかしちゃったの?!」
「恋っていうのはおかしくなるものなのよ」
リディアは余裕の表情でゆっくりと頷いた。リーゼは未だに信じられないのか、口を開けたままそこから感嘆の息を吐きだした。
「はー、あんなのに、シシィさんみたいな人が惚れるなんて……。なんなの、なんでアデルってあんなにモテるの?」
リーゼの言葉にリディアが坦々とした調子で返す。
「あら、リーゼは知らなくていいのよ。リーゼまで恋敵になったら大変だもの」
「ありえないから、そんな心配しなくていいから」
「そう? ならいいんだけど」
「えー、でも、なんなの、大変じゃない。リディアとかシシィさんみたいな美女に惚れられてるとか知ったら、アデルのやつ……」
何故そこに自分の名前が入ってないのかと、ソフィは少し腹が立った。最初に好きになったのは自分だし、嫁になろうとしたのも自分が最初のはずだ。
そして結果として嫁になるのも自分に違いない。何度も断られたけれど、そのくらいで諦めてしまうつもりはない。
リーゼは未だに信じられないのか、腕を組んで唸っている。目を閉じたまま椅子の背もたれに深くもたれかかり、渋いものでも口にしたかのように眉間に皺を寄せた。
その後、鼻からゆっくりと息を吐いた。
「こんなこと、本当は言うべきじゃないのかもしれないけど……、二人には言っておいたほうがいいのかも」
何を言いたいのかわからず、ソフィが小首を傾げる。
リーゼはソフィとリディアの顔を交互に見てから、真剣な表情で言った。
「アデルってさ、昔、三股かけて修羅場になって、そんで刺されたことがあるの」
その言葉を聞いて、リディアもソフィも凍りついた。
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