上 下
2 / 95
前篇:夢の通ひ路

第一話 其の一

しおりを挟む
 令和○年、3月――

「ほら、三条さんじょうさん。せっかくの機会なんだから、よく見ておくといいですよ」
「はい」

 教授の言葉に促されて、整然と並べられた冊子に目をやった。
 紙でできただけのそれはひどく軽いもののはずなのに、ずしりとした存在感を放っている。これが歴史の重みというものか。

 古い、という言葉ではもう足りないほどの昔の、そう、千年以上も前に書かれたという物語――『夜半の月よわのつき』。
 その写本の一つが、今、自分の目の前にある。
 じわりと沸き立つ興奮を鎮めようと努めながら、一方で、私は確かに感動に打ち震えていた。



『夜半の月』――
 全三十じょうから成ると言われている、平安時代の長編物語。

 言われている、などと曖昧な言い方をするのは、現代まで残らなかった帖があるという説もあるからだ。帖と帖の間で話が飛んでいたり、最終帖の後に続く物語があるという見方もあるが、現在までに確かに見つかっているのは、三十帖。
 作者は未だ不明。女性目線で書かれていることから女性作者説が一般的だが定かではなく、その性別でさえ、現代に至っても解明できていない謎の多い作品だ。

 内容とはいうと、一言で恋愛小説。これに尽きる。
 時は平安、左大臣家の「物の怪もののけ姫」と呼ばれる主人公が、「尼になる!」などと髪を切ろうと大騒ぎするところから物語は始まる。やがて(諸々あって)親王しんのうに見初められて結婚するまでを描いた前篇『夢の通ひ路ゆめのかよいじ篇』と、幸せな結婚生活のさなか、数々の陰謀に巻き込まれつつも、親王のただ一人の正妻として、これまたひたすら愛される後篇『燃ゆるおもひ篇』から成る。

 「物の怪姫」だけに、本物の物の怪なり生霊なりが現れたり、はたまた天狗が現れたり、登場人物も実にバラエティに富んでいる。愛と憎しみが渦巻く、とはいえなかなかに突っ込みどころの多いコメディタッチな古文で、現代語訳なんかは思わずプッと笑ってしまいそうになる場面も多い。

 奥ゆかしさが大切にされた平安時代に、左大臣家の姫という立場でありながら、初っ端から出家騒ぎを起こした主人公の性格もぶっ飛んでいるが、そんな主人公を愛してやまない親王も物語のヒーローだけに格好よく描かれていて、それがまた萌えポイントだったりするのだ。
 姫が親王と結婚して以降は、甘い。とにかく甘い。まあ、いわゆる二人のいちゃいちゃが延々と続くのもこの物語の特徴でもある。ちなみに最後は、幸せになりましたとさ、めでたしめでたし、で終わる王道の恋物語だ。

 古典の世界では、そんな、ある意味異色の存在とも言える『夜半の月』だが、残念ながら原本はすでに消失したと考えられ、現代に内容を伝えているのは写本だけ。それでも、最古のものなんかは当然価値も高いし、一部は有名な博物館に展示されていたりする。一番有名なものは、確か、私の記憶が正しければ重要文化財に指定されていたはずだ。


 私が今目にしているこの写本も、それなりに古い、それこそ何百年も前に書かれたであろうことは間違いなかった。
 変色しきった表紙は薄汚れてはいるが、戦禍せんかを免れ、ばらばらになることもなく、冊子という本来の形で残ったというだけでも十分奇跡的なことだ。虫食いや破れがあるのは残念だが、この時代のものなので当然ではある。

「三条さん、そっちの箱にもあるから出してください」
「は、はい」

 教授に声をかけられてハッとした。
 そうだ、今はこの作業に集中しなければ。

 埃をかぶった木箱の中には、『夜半の月』が何冊か納められているようだった。
 それを一つ一つ、丁寧に取り出しては机の上に並べていく。
 この貴重かつ幸運な機会を私が手にしたのは、半年も前のことだった。


 「京都の書庫を調査するから君も来ないか」――そう教授に誘われたのは、学会発表も無事終わり、気の抜けた宴席でのことだった。
 「書庫」と言っても、文字通りただの本の倉庫というわけではない。先祖代々何百年も受け継がれてきた、京都の歴史ある名家の蔵なのだという。一般の人間なら絶対に立ち入ることのできない場所。教授はその蔵へ調査で入る申請をしたらしい。そして、ゼミの学生である私にも声をかけてくれたのだ。
 更に聞けば、その書庫には『夜半の月』の写本もあるらしいというではないか。しかも、奇跡的に三十帖すべて揃っているという夢のような話だ。断るはずもなく、大きく頷いた。


 小学生の時に古典に目覚め、中・高とそのまま古典愛を胸に成長した私は、大学でも当然のように文学部に進み古典文学を専攻した。現在は院の一回生、研究対象は言うまでもないが、もちろん、『夜半の月』。
 だって、大好きなのだ。

 はじめて『夜半の月』を読んだのは、十年以上も前。
 現代語訳された児童向けのロイヤルラブストーリーの衝撃を侮ることなかれ。それまでの古典=難しい、古いなんていうイメージをすべて吹き飛ばすほどの面白さだった。古典の世界へようこそ!!なんて声が頭の中に響いた気がした(多分、幻聴だけど)。

 周りの友達がみんな漫画やアイドル、オシャレに夢中だった頃、ひたすら本の虫と化して学校の図書館の本を読破した私は、今度はもっと本の多い市の図書館に通い、その時代のものをひたすら読みふけった。現代語訳に飽きると原文にも手を出した。また違った世界にいたく感激した。古典ってなんて面白いんだろう!!
 お小遣いの少ない学生にとって、図書館とはこれほどありがたいものかと思ったものだ。福沢諭吉が何枚も必要なお高い専門書まで揃っていて、しかもタダで読めるというのだから、私にとってはパラダイスのような場所だった。

 一時期はまりすぎて、古文特有の「かな」や「けり」を語尾につけて会話するという、若干恥ずかしい黒歴史ができたのも致し方なし。周囲に「古文オタク」と罵られようと気にしなかった。基本私はマイペースである。論文の評価は気にするが、他人からの印象は一切気にしない。古文オタクで結構、むしろ私にとっては名誉のあだ名よ。そういうメンタルの持ち主なので、古典道を貫いた。古典が好きで何が悪い。

 そうして棚の端から端まで一通り読んで、最後にもう一度スタート地点に戻って気付いた。
 私は物語が好きなのだ、と。それも甘々のいちゃいちゃがある、『夜半の月』が一番好きなのだ、と。

 それに『夜半の月』は私の恋愛バイブルでもある。男女の駆け引きというものはここから学んだように思う(※実践したことはない)。そんな実益と趣味を兼ねた本が大好きなのは、考えてみれば当然のことでもあった。一周回って解ったというやつだ。
 古典愛と『夜半の月』について語ると長くなるので、ひとまず割愛する。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

美しい貴婦人と隠された秘密

瀧 東弍
恋愛
使用人の母と貴族の屋敷で働く四歳の少女アネイシアは、当主の嫡子である十歳の少年ディトラスと親しくなり、親交を深めるようになる。 ところが三年目の夏、忌まわしい事件がおこり彼女は母親ともども屋敷を追い出された。 それから十年の時が過ぎ、貴族の父にひきとられていたアネイシアは、伯爵家の娘として嫁ぐよう命じられる。 結婚式当日、初めて目にした夫があのディトラスだと気づき驚くアネイシア。 しかし彼女は、自分が遠い日の思い出の少女だと告げられなかった。

元侯爵令嬢は冷遇を満喫する

cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。 しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は 「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」 夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。 自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。 お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。 本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。 ※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

会うたびに、貴方が嫌いになる

黒猫子猫(猫子猫)
恋愛
長身の王女レオーネは、侯爵家令息のアリエスに会うたびに惹かれた。だが、守り役に徹している彼が応えてくれたことはない。彼女が聖獣の力を持つために発情期を迎えた時も、身体を差し出して鎮めてくれこそしたが、その後も変わらず塩対応だ。悩むレオーネは、彼が自分とは正反対の可愛らしい令嬢と親しくしているのを目撃してしまう。優しく笑いかけ、「小さい方が良い」と褒めているのも聞いた。失恋という現実を受け入れるしかなかったレオーネは、二人の妨げになるまいと決意した。 アリエスは嫌そうに自分を遠ざけ始めたレオーネに、動揺を隠せなくなった。彼女が演技などではなく、本気でそう思っていると分かったからだ。

田舎の娘、風が吹くを見て詠む事

はぎわら歓
恋愛
皇太子のニシキギは宮廷を抜け出し、一人の娘、ミズキを見初める。その娘と間違えられた地方受領の姫、クチナシは、自分とよく似た下女、ミズキと入れ替わる。ミズキは実はクチナシと従妹同士だった。 ミズキはニシキギと結ばれゆるゆると蜜月を過ごすが、やがて戦乱が始まる。

私達、政略結婚ですから。

恋愛
オルヒデーエは、来月ザイデルバスト王子との結婚を控えていた。しかし2年前に王宮に来て以来、王子とはろくに会わず話もしない。一方で1年前現れたレディ・トゥルペは、王子に指輪を贈られ、二人きりで会ってもいる。王子に自分達の関係性を問いただすも「政略結婚だが」と知らん顔、レディ・トゥルペも、オルヒデーエに向かって「政略結婚ですから」としたり顔。半年前からは、レディ・トゥルペに数々の嫌がらせをしたという噂まで流れていた。 それが罪状として読み上げられる中、オルヒデーエは王子との数少ない思い出を振り返り、その処断を待つ。

妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか? 「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」 「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」 マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。

7年ぶりに私を嫌う婚約者と目が合ったら自分好みで驚いた

小本手だるふ
恋愛
真実の愛に気づいたと、7年間目も合わせない婚約者の国の第二王子ライトに言われた公爵令嬢アリシア。 7年ぶりに目を合わせたライトはアリシアのどストライクなイケメンだったが、真実の愛に憧れを抱くアリシアはライトのためにと自ら婚約解消を提案するがのだが・・・・・・。 ライトとアリシアとその友人たちのほのぼの恋愛話。 ※よくある話で設定はゆるいです。 誤字脱字色々突っ込みどころがあるかもしれませんが温かい目でご覧ください。

旦那様は魔王様!

狭山ひびき@バカふり160万部突破
恋愛
十七歳の誕生日―― 誰からも愛されずに生きてきた沙良の目の前に、シヴァと名乗る男があらわれる。 お前は生贄だと告げられ、異界に連れてこられた沙良は、シヴァの正体が魔王だと教えられて……。 じれったい二人と、二人を引っ掻き回す周囲との、どたばたラブコメディ! 【作品一覧】 1、イケニエになりました!? 2、ミリアムのドキドキ大作戦☆ 3、放蕩王弟帰城する! 4、離宮の夜は大混乱!? 5、旦那様は魔王様 外伝【魔界でいちばん大嫌い~絶対に好きになんて、ならないんだから!~】※こちらの作品内ではなく別掲載です。

処理中です...