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第三章 婚約者編【完】

幸せの隠れ場所 -epilogue-

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「ふー。面倒な事になるところだった」

 チェルトは二人から離れてしばらく、独りごちた。
 時間があるなら、兄弟の交流を深めるのはやぶさかではない。しかし、これからひと仕事やぼようがあるので、長々と弟に関わっている暇がなかった。

 世間一般の人間と比べると、彼の弟の怒りのゲージは海よりも深く寛大だ。意外と根に持つことはない。物事を合理的に判断して、すでに済んだ事を"怒る"ことは無駄だと思っているからだ。
 だから弟は次にその失敗を生かすために、反省を促す言動や確認が、強くなるだけなのだが。

 のだが……。

 話術と言うものが、いかに大切なものであるかという事が、弟の話しぶりを見ていると再確認できる。
 弟の話術は、彼が望む望まないに関わらず、はっきり言って「厭味」にしか聞こえないのだ。
 穏やかな外見と口調が、更にそのギャップを際立たせ、相乗効果で炎上する。

 しかも今回は弟の最愛の女性を泣かせてまったのだ、進んで厭味を言ってくるだろう。
 しかも夜、テラスで二人いい雰囲気で……と言うところを邪魔した兄には容赦ないはずだ。

 にこやかな顔で穏やかにネチネチと、延々と。聞かされるのは、まぁ忙しい今はかなりうっとおしい。
 チェルトには全く落ち度はないのだから。

 弟の穏やかに窘めるような声が、背後から聞こえたような気がした。当たり前だが、目の前の彼女を一人にしてまで追ってくる気配はなかった。残ったアリメアが、涙のわけをちゃんと説明してくれるだろう。
 それにあれは、幸せの涙なのだからチェルトは何も後ろ暗いことはなかった。


『君たち二人が結婚するとは』


 アリメアはすごいなあという称賛のつもりで、つい口が滑ってしまった。
 それはチェルトの本音だった。
 階級差のある恋は、弟がアリメアの負担を軽くするために大分環境を整えたといえど、その大変さは弟の比では無いはずだ。
 それを引かずに頑張ると――あんなに臆病だったアリメアが、その困難を乗り越えてでも弟を選んでくれるなんて。という称賛。
 でも、アリメアには反対の意味に読み取られる。

 弟をよく知りすぎているチェルトとしては、確かに弟は身上的な付属品だけ見ると素晴らしいものだろうが、一人の人間としては……こう、少々独特な性格だと判っていた。側に残っている人間が、アリメアとクーヴェルチュラー男爵しか居ないのがその証拠だ。

 チェルト自身の事は、もちろん棚に上げて、である。

 しかし、チェルトは装うことができる。不器用なのか素直すぎるのか、それができないのが弟の可愛いところだ。身内の欲目というやつだろうか?

 そんな弟の本質を、上辺に騙されないで素直に受け取ってくれるアリメアは稀有だ。
 彼女なら弟を選んで、何もわざわざ茨の道を辿らなくても、相応の幸せを手に入れられるだろう。
 不相応なのはアリメアではなく、我が弟。
 だからこそ、弟は長年彼女を手に入れるために長い時間をかけたのだ。
 そう言いたかったけれど。そう言ってアリメアから帰って来る言葉は、もうわかりきったもので。
 そしてそんな彼女だからこそ、弟が心を奪われたのだ。

 ――まぁ口にするだけ野暮って事だ。

 チェルトは手紙と報告だけではわからない二人を見て、上機嫌になりかけたところで、今日ここにきた理由の半分を見つけだした。







「セールブリア……」
「レーベンハイトナー様。
 私、あの方から聞きましてよ? 何でもあの方のご婚約者を、公衆の面前で罵倒したとか」
「俺はっ、セールブリアの事を思って……」


 目の前に居る男は、セールブリアの数多居る求婚者の一人だった。いつものような他者への高慢な態度は全くなく、まるで雨の中に打ち捨てられた子犬のようだ。
 しかし、セールブリアはそんな態度には全く心を動かされない。
 あの方とは比べるべくもなく劣った男。
 だからこそ、こう臆面もなくセールブリアに話しかけてこれるのだろう。

「確かに。使用人として区別するのは仕方のないことですけれど……」

 それはセールブリアの本音だった。

「でも、か弱き女性をいじめるような男性は紳士として失格ですわ。
 ……それに、私の為というのなら、私の品位を落とすような真似は慎んでいただけるかしら?」

 見た目は凡庸だった。
 どこにでもいるような……セールブリアにはどこも負けるはずのない、少女。
 でも、彼はその少女を選んだのだ。

 それは、会話をしてすぐに分かった。

 とても愚かだけれど、偽りも打算もない純粋な愛情をあの方にまっすぐに向ける。
 セールブリアにはない、真心が暖かい少女だった。

 セールブリアは初めて会った時、彼こそ夫として全ての条件に当て嵌まる男性だと思った。
 自分の美しさに並び立てる外見を持ち、賢く、身分は低いが実家の財力がそれを補う。彼の方もセールブリアの家の人脈と身分を使い、それ相応の見返りを得るだろう。
 それには人格など、不必要だ。
 きっとセールブリアといい環境をパートナーとして作り上げただろうに。

 しかし、もう彼はあの少女に会って、すでに選んでしまっていたのだ。
 掛け値なしに、心を捧げる相手を。

 あの二人を支えているのはお互いの想いだけ。
 それは何とも脆く、儚げで――そして、尊いもの。

 その気持ちはセールブリアには分からない。
 それを羨ましいと思ってしまうけれど、彼女には感じられたことがない。いつか、感じる事があるのだろうか? あったとしても相手はきっと――この男ではなさそうね。
 愚かにも言い訳を続ける男を、冷めた目で見ていると、セールブリアの背後から声がかけられた。

 この声は、知っている。

「お久しぶりです、セールブリア嬢と……レーベンハイトナー様」

 二人が振り返ると、優雅に目上の者への礼を取っていたのは、チェルト=ソル……セールブリアの元婚約者候補の兄君だった。
 まるで双子の様に似ていたが、まとう雰囲気が違うのですぐに見分けがつく。

「お久しぶりですね、チェルト様。
 お声ならもっと早くに掛けてくださればいいのに」

 先ほど、彼の弟とその婚約者との歓談中に視線を向けているのを気がついていた。こちらを伺う試すような視線は、三人の内誰に向けていたのか。

「さっきは君のお邪魔してはいけない気がしてね」
「まぁ」

 鈴を転がすようにセールブリアが笑った事で「今は邪魔をするべきだ」と、遠回しにからかわれた事にレーベンハイトナーは気がついたらしい。セールブリアはそれを気にも留めずに会話を続ける。
 どう考えても、闖入者のチェルトと話していた方が楽しい事になりそうだ。

「ステューミランドー伯爵のご令嬢とのご婚約おめでとうございます。
 社交界の今シーズン一番の華を、誰が射止めるのか評判でしたのよ?」
「はは、有難う。君のように求婚者が多い人だからね、このような場は針の筵だよ」
「まぁご謙遜を。チェルトさまの方こそ、泣かせた女性は沢山いるのではなくて?」
「まさか!」

 レーベンハイトナーは二人の話が弾むのを、忌ま忌ましそうに見ている。
 そして、ある事を思い出し口を開いた。
 噂によると令嬢は子供のいない伯爵家に引き取られた養女。元々は落ちぶれていた傍流の親族で。いままで事もあろうか侍女をしていたとか。

「まぁ君の婚約者といえば、伯の養女だとかいう噂の女性だろう? 全くもってお似合いじゃないか。今日は連れて来ていないのか? 大方こんなきらびやかな場には、自分の出自が恥ずかしくて出てこれないのだろう?」

 チェルトへのイラつきのためか、セールブリアの前ということをすっかり忘れているのだろう。
 先ほど女性への品位のない口ぶりを釘を刺されたばかりだというのに、レーベンハイトナーはここぞとばかりに厭味を言ってくる。

「そうですね。僕の愛しの婚約者殿は今日は殊の外、自分の身の上を恥ずかしがっておいでなので、欠席なのですよ。レーベンハイトナー様はまだお会いしていないようでしたね。今度機会があれば是非紹介させてください。彼女も貴方のような方に紹介して貰えるとなれば、喜んで出席することでしょう」

 所詮、生粋の貴族の育ちではなく、ただの養女ごときではないか。
 そう当てこすられても、チェルトは顔色を変えるどころかにこやかに受け流す。
 その態度は弟とは違い、下手に出ていることが明らかに見えて。分を弁えているじゃないかと、レーベンハイトナーは満足げだった。

 しかしセールブリアは気付いていた。

 チェルトの目は笑っているが、それはまるで何もわかっていない幼子を生暖かく見守る目だ。

 ――真に見下されているのは、どちらなのかと。

「仰る通り。彼女は下々の生活に身をおいた苦労人で、生粋の令嬢とは毛並みが違いますが。だからこそ共通の話題が沢山あるので、私としては貴族のご令嬢とお話をするよりは、気が楽なのですよ」

 ――まぁセールブリア嬢は、別格ですが。
 目の前の男とは違って、チェルトはフォローすることも忘れない。

「そうそう、そういえば。ここでお会いできたのは幸運でした。レーベンハイトナー様」

 チェルトは今思い出したかと言うように、レーベンハイトナーに心底同情するように語りだした。




 全く、本当に恐い方ね。

 チェルトの話を聞いてレーベンハイトナーは真っ青になって慌てて退出していった。でもセールブリアへの挨拶は忘れないのは、流石と言うべきか。あの調子だと、途中で何かにぶつかるかもしれない。
 チェルトが"ここだけの話"と前置きして伝えたのは、レーベンハイトナーが個人的に……と言うべきか、あの慌てようでは少なくとも、実家の潤沢な資金を使い込んでいるに違いない……投資の破滅の話だった。
 偶然に知ったのですが、と言うチェルトも同じような取引をしていたらしいが、しかしチェルトは儲けた側だった。
 その儲けを見込んで、倉庫まで建て人を雇ったと自慢げに話していたのを、セールブリアはなんとなく覚えている。
 その流通がどうやら止まり、別の流れになったらしく。仕事の話は女性であるセールブリアには難しくて詳しくはわからないが、倉庫を建て損どころか、先を見込んで注ぎ込んでいたお金さえも回収できない程の痛手を受けてしまったらしい。
 しばらくはセールブリアに話しかけるいとまもない程だろう。

「お教えしてよろしかったんですの?」

 事実逆恨みか、チェルトに教えてもらい、報告を知るよりも早く手を打て為になるはずなのに、感謝こそすれ悪意を向けていた。
 チェルトにはそのまま何も言わないでいる選択もあったはずだ。

「まぁあの方の事ですから、父君へご報告の際にも僕から聞いたという悪態をつくのを辞めないでしょう。
 父君は彼とは違って賢い方ですから、分かってくださいますよ」
 そうにっこりと答えるチェルトとしては、事前に教えたのは善意というよりは、このまま破滅されて逆恨みだけ残されるよりは、恩を売っていた方がうまみがあるとの判断だった。
 これで損失の半分は流出するのを防げるだろう。
 勿論、彼にその才覚があるのならだが。

 今回のソル家としては、二つ別の方向から取引を持ち掛けられていて、その話のどちらかにのるかと決断を迫られていた。その二つの取引にはどちらも遜色ない話で。その決め手になったのは、意外にもアリメアの事。
 「尊重しあえる取引相手でなければこの先上手くはやっていけないでしょうね」との母上の冷静な鶴の一声で、今回のレーベンハイトナー側の困窮が決まったのだが。
 そんな情には基本、絆される様な人ではないのだけれど。
 チェルトは我が母上ながら考えが読めない。

 まあ、どちらにしろ、チェルトとしては、レーベンハイトナーと組むわけにはいかない程の理由が、先ほどの会話からでも十二分にあるので、有効に使わせてもらうとする。


 セールブリアはチェルトを見つめた。
 彼ら兄弟は"二通りの意味"に取れるセリフを話すことが多い。
 そしてその二通りのうちどちらを受け取るのかは、聞いた側の心にかかっている。
 あの方は、何も意図していないのに悪意に取られることが多く。
 そして目の前のチェルト様の言葉は――とても人当たりがいい方向へと受け取ってもらえるが、彼の本質は残酷だ。

「本当に、怖いお方」

 セールブリアは、そうは言いながらもどことなく楽しそうな表情だった。







「あら、あなた。お久しぶりね」
「少し驚かせようと思ってさ、愛しい人」

 ソル家の街屋敷に、エイダは帰宅予定通りに到着すると、予定には居なかった夫が屋敷にいた。
 予定通りにならないことは、彼女にはお気に召さない事の一つだが、この予想外は気にはならない……例外の一つだ。

「ええ、十分驚きましたとも」

 眉を少し上げるだけで、その厳しくも美しい顔はいつもよりほころんでいる。
 おいで。と言うようににこやかに微笑まれて、エイダは夫座っているソファの隣に座った。広々としたエイダ好みの格式ばった家族用の居間は、夫が居るだけでその雰囲気を様変わりさせる。
 夫の笑顔は、自分の息子達ももう二人とも嫁を貰う程歳を重ね、シワが出来ても、二人が出会った頃となんら変わらない気持ちを抱かせる。二人の子供の顔はエイダにそっくりだが、柔和な印象も身にまとう空気も、間違いなく夫から受け継がれていた。
 抱き寄せられて夫の肩に顔を預けると、深いため息をついた。このところ前よりも疲れが抜けにくい身体になってきたからだ。

「歳はとりたくないものね」
「そうかい? 自分は色んな歳を重ねた君と家族になった事を楽しめる事が嬉しいさ」

 いつまでも子供のような笑顔。
 そしてエイダの前では、故郷訛りの不思議な抑揚で話す響きは出会った頃と変わらない。

 何事も慎重に計画を立てその通りに行動しないと気が済まないエイダとは違い、夫は楽天的で、計算ではなく勘で動く。なのにそれがまるで初めから計画されたかのように最後はうまくいくので、時折エイダは自分の生き方を否定されているような気分になる。が、だからと言って生き方を変えられず……でも、そんな正反対の男女が夫婦となって、寄り添って生きていけるから不思議だった。

「貴方は、今回のあの子の結婚には初めから反対しませんでしたものね」

 アリメアの出自が如何であれ。あのような性格では、あの子についてこれないと思った。
 だからそれをあの子がどうフォローするのか、守って行くのかが大事だと思って試した。
 でもお互いに一緒になると覚悟を決めたというのなら、エイダとしては手を貸すことはやぶさかではない。

 アリメアを与えることで、あの子ももっとこちらの言う事を聞くようになるだろうと、エイダは己の息子相手でも、打算的になってしまう。

 ……それなのに夫は一言。

「自分が君に出会った時と一緒なのに、何を言うことがあるさ?」

 それこそ反対するのは一番の無駄だと。
 簡潔で一番分かりやすい回答……なのに核心をついている。
 色々と思案している自分が、まるで愚か者のようになった気さえするから不思議だ。

 そんなエイダの腑に落ちないが、落ちてしまう複雑な気持ちを知ってか知らずか。
 そっと、夫はエイダの手を握る。

「……」

 それを振り払わずに、エイダは深い深いため息をついて。
 夫と出会って、何度めか……いやすでに数える事を辞めてしまった諦めを噛みしめた。


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