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第三章 婚約者編【完】
幸せの隠れ場所 《4》
しおりを挟むアリメアは家に帰ると、今日するべきはずだった使用人としての仕事を急いで済まし、自室へと向かった。
そして書き物机へとアリメアは向かう。
する事は、手紙を書く事。
内容は精一杯の感謝を込めて、お別れの手紙を。
……そして、ごめんなさいの手紙を。
お約束を守れなくてごめんなさい。
やはり旦那さまの奥様にはなれそうにありませんと。
少しの間夢を見れて幸せでした。ありがとうございましたと。
お別れは自分のわがままですと。
好きだからこそ、お傍にはいれませんとは書けなかった。
そうすれば、旦那さまをもっと困らせてしまいそうで。
公式の場に出ていないアリメアと旦那さまの仲は、まだ内々にしか知られていない口約束。
今婚約が破談になっても、旦那さまの恥になることはない。
荷物が少ないアリメアの準備は、すぐに終わった。
鞄一個。
それが彼女の全財産――それがアリメアの価値。
沢山の思い出が詰まった、書き物机は借り物で、持っていく訳にはいかない。
ここを出ていくとしても、後の事のためと、個人的に執事のオルティスさまだけにはご挨拶していかなければ……。
そう考えながら、アリメアは旦那さまが一番手紙を発見しやすい居間に置く。そして自分の全てが入った鞄を持って、家を出ようと扉に手をかけた。
途端、手が止まる。
……もしかしたら自分と旦那さまの家庭を築きあげるはずだった家。
色んな思い出と感情が現れては消え、一度振り返って周りを見渡そうと思ったが、二度と動けなくなるような気がして、アリメアはしばらく扉が開けられない。やっと勇気を出して開けると、いつの間にか家の前に一台の豪華な馬車が停まっている。その馬車には見覚えがあった。
「お久しぶりね、アリメア」
その馬車から颯爽と出てきたのは奥様……旦那さまのお母上のエイダさまだった。
数年ぶりに会うエイダさまは、華美と質素のギリギリの線のドレスを身にまとい。本来の年を感じさせないほど、相変わらず若く美しく。そして旦那さまにそっくりだった。ただ雰囲気が違う。
……全てを見透かされてしまうような、少し厳しい瞳。
そしてそれは思い違いではなく、鞄をもったアリメアを一目見ただけで、どうやらややこしい時にエイダさまは来てしまったと、すぐに理解したようだった。
「お話をしたいのだけれど、中に入れてもらえるかしら?」
そう静かに微笑んで言われると、アリメアに拒否権はない。居間にお通しすると、まるでこの家の女主人の如く貴婦人然とした態度で、ソファに座る奥さまにのまれる。居る人物が違うだけで、これほど部屋は変わるのかという程、別の部屋のように、いつもより居心地がよそよそしい空気になった。
手紙とはいえ、結婚のご報告をし許していただけたあとの対面が、こんな事になってしまったことがアリメアには申し訳なくて……顔を俯いたままあげられない。アリメアは立ったまま、鞄の持ち手をぎゅっとにぎりしめる。
「それで、貴女はこれから。どうするおつもり?」
「……すみません」
「私に謝らなくてもいいのよ。これはあなたたちの問題。この家のメイドもやめるというのなら、他の家への紹介状を書きますが」
「そ、そんなご迷惑をおかけするわけには……」
自分の息子をたぶらかしたと罵られても仕方が無いのに。
あくまでも奥さまの態度は、長年勤めてくれた使用人の退職に対する、それだった。
美しいその表情からは……凛とした声からは、何もうかがえない。
「オルティスなら迷惑とも思わないでしょう。それにしても、あの子がよく許したものね」
「あの子」と言われてアリメアはびくっとする。
旦那さまが帰って来る前に、早くここを離れなくては……それを思い出した。そんなそわそわした態度にエイダさまはまた気付く。アリメアの行動が、その息子の意志を無視したものだと。
「……もしかして、逃げるつもりなの?」
逃げる。
そう言われてしまえば自分の行動が、とても卑怯な事に感じてしまう。旦那さまの事を考えて、自分は応しくないと改めて気付いて離れようと思った。けれど、それは本当にいいことなのだろうか。でも。
「逃げるなんて、あの子の何がそんなに不満なの? 確かに、とても癖のある子だとは……思うけれど」
「……そんな、旦那さまに不満なんて……ありません!! ある訳無いです」
精一杯アリメアがそういうと、エイダさまは少し驚いた顔をする。
「では何故?」
「旦那さまが、とても素敵な女性と……歩いている所を見たんです」
「あの子が、浮気をしたとでも?」
「い、いいえっ!! まさかそんなことは考えておりません……」
先ほどの光景をアリメアは思い出す。
公園のカフェテラスで、旦那さまはとても美しく、身分のありそうなお嬢様をエスコートしていた。
「そうではなくて……」
二人の姿は周りの視線を釘づけにするほど目立っていた。
それほど絵になる二人。
二人の間になにかあると感じ取った訳ではない、それは旦那さまの表情を見ていればわかるし、日々過ごしていた旦那さまを信じてる。それでも旦那さまが女性と腕を組んで、エスコートしている姿は衝撃的だった。
屋敷で開くパーティーなどは、どんくさいアリメアは裏方であって。会場での旦那さま達ご家族の様子は、会場を手伝った他のメイドからは、それとなく話だけは聞いていた。けれど、聞くと見るとでは大違いだった。
アリメアといる時とは違った、凛々しくスマートなエスコート。
しかも、旦那さまにエスコートされているお嬢様はというと、これが淑女たる完璧な見本。
そんな完璧を見て、アリメアはやっぱり無理だと思った。
頑張ろうと思った心が、みるみる萎れてへこんでしまう。
上流の身のこなしや、旦那さまの隣に立っても見劣りしない振る舞いなんて、身につけるのはアリメアには無理だ。
――――夜会を見学して、淑女たる態度を勉強する?
その思いつきは所詮、子供の浅知恵に思えた。
一朝一夕で学べるものではない程の振る舞い。
いくら否定しようとも、旦那さまはあの世界の住人で。
そして旦那さまの求婚を受けたのは、自分の思い上がりだという現実を突き付けられた。
「旦那さまの隣には、あのお方のような素敵な淑女がお似合い……と、思います」
それは、今持っているこの鞄一個しか価値のない自分が、とてもみすぼらしくて……。
しかし、奥さまはこの言葉を聞いて、心底わからないといいたげに、ため息をついた。
「あの子と貴女の結婚を、私達が許したのは何故だと思いますか、アリメア?」
「……わかりません」
それはアリメアも不思議だった。
てっきり反対されると思ったのに。
奥さまはアリメアを、値踏みするような視線で見た。
でもそれには、あの貴族の青年のように悪意はなく、まるで雇主の面接のように冷静に物事を判断するような瞳で、アリメアは自然と背筋が伸びる。
「貴女の財産は、その鞄一個ね」
「はい」
「その鞄の中に、あの子が欲しがりそうな物はあるかしら?」
「いいえ、ありません、奥さま」
「つまりはそういうことよ……あの子は貴女が欲しいのよ。なによりも」
「!!」
アリメアはその言葉に真っ赤になる。
それは恥ずかしさの所為なのか、泣きそうだからかなのか、感情が上手く表現できない。そんなアリメアに畳み掛けるように奥さまは話す。
「あの子が騎士の仕事の他に、家の仕事を手伝ってるのは知ってますね?」
「……はい」
「あれは……あの子なりの、私達家族への誠意と決意の表明なのよ」
「決意……ですか?」
「貴女を選んでも、損をさせないというね」
――ご実家の仕事を手伝うことに、そんな意味があるなんて、何も知らなかった。
アリメアの感情が出やすい顔にその驚きが出ていたようで、エイダさまは当たり前のように読む。
「あの子はどうやら……貴女を甘やかし過ぎているようね」
それほど、愛されているという事。
「あの子にばかり努力をさせて、貴女は何もせず逃げるの?」
嫌味ではなく、純粋な問いかけ。
ここまで聞いてしまうと――逃げる事は卑怯な事でしかない。
旦那さまは努力してくださっていたのだ、他の誰でもないアリメアの為だけに。
そして二人の未来の為に。
それなのに、自分は何をしていたのだろう。
旦那さまの優しさに甘えすぎて……勝手に何もできないと落ち込んで。
何もしないで、勝手に高い壁ばかり見てしまって、諦めて、逃げ出す事を選択して。
アリメアは何も言い返せなかった。
どれだけの無言の時間が流れただろうか、その沈黙を破ったのは硬質なノックの音。奥さま付きの秘書の神経質そうな声が響いた。
「奥様。そろそろお時間です。これ以上はザネルラ卿とのお約束のお時間に」
「そう、仕方がないわね」
何の未練もないように、奥さまはソファを立つ。
これで、この話は終わり、そう思ったアリメアにエイダさまは言った。
「貴女の人生、貴女がお決めなさい。あの子とやはり別れるというのなら、貴女は長年よく使えてくれました。それ相応の手続きをさせてもらいますよ」
「奥さま……私、逃げないで考えます」
その答えで十分だと。満足げに、奥さまはうなずいてくれる。
そして部屋から出る前に、一言。
「個人的には……。
次に会える時には、お義母様と呼んでほしいのだけれど」
そう言われて、お見送りをするつもりだったアリメアは固まった。
文面ではなく直に伝わる……初めて自分が旦那さまの傍に居てもいいという、祝福。
その一言はアリメアの事を認めてくれている。
アリメアが旦那さまの妻になってもいいと言ってくれている。
アリメアは出ていく筈の恰好そのままに自分の部屋に篭って、じっくりと考えることにした。
考えて、考えて。
いつの間にか、窓の外が暗くなっているのも気がつかず考えて。
玄関が荒々しく開かれたのも、気がつかず考えて。
さらにしばらく経ってから、足音も荒く。アリメアの部屋のドアがノックもされずに開かれる。
それで、やっと我に返る。
名前を呼ばれてのろのろと顔を上げると、そこには少し厳しい顔をした旦那さまのお顔があった。
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