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#13 白い翼
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「ひどいよ」
何で助けてくれなかったの。
こんな最期なんてあんまりだよ。私が何かした? もうこんな人生なんて。
春仁の留学が迫った夏も終わりに近づく暑さの厳しい日。突として春仁は信号無視をしてきた車に命を奪われた。これから夢を叶えようという道半ばで非情にも。 どれだけの希望を持ってヴァイオリンのことを考えていたか。そして、二人の将来のことも。
病院のベッドで眠る春仁はとても健やかな顔をしていた。すぐに「ごめん、ごめん。寝ちゃった」と言って目を覚ましそう。しかし、それは叶わない。甘い旋律を奏でるあの指も腕も、もう動くことはない。演奏している時の横顔も目にすることはない。
大切な人を失うのって不思議な感覚。昨日まで笑っていた人が、もう次の日にはいないなんて考えられない。疲れて休んでいるだけだよね? 留学の準備で最近忙しかったから。もうすぐ起きるんでしょ?
やり切れない思いに苛まれる。
「ハル」
これからなのに。
「ねぇ、ハル」
ヴァイオリン製作。
「何とか言ってよ」
楽しみにしていたのに。
「また、カレー作るから」
驚く顔、見せてよ。
「いつもの鼻で笑うクセ、やってよ」
好きよ、あのクセ。
「浜松にも、また連れてってよ。浜名湖とか」
お父さんお母さんにも会いたいよ。
「ほら、クレモナが待ってるよ。早く行かなきゃ」
置いていかないでよ。私が時間ギリギリに来るからって。
「ねぇ」
「ハル」
「ハル?」
「……ハルってば! ねぇ、お願い! 起きてよっ!」
「そろそろ帰らないとな」
6日目、陽が沈みかけている。橙が水平線に迫る。
「……きれい」
白鶴浜の波は穏やか。風も緩やか。
今一度、浜へ入る奏澄。
天草に触れ、人々と出会い、自分も何か変われそうな気がした。生き生きとしたここの人達のように。
明日には帰らなければならない。もう少しで答えがつかめそうだけれど。
海一面が真っ赤に染まる。
手を伸ばす。
夕陽は、すぐそこに。
つかみたくてもつかめない。こんなにも近いのに。
時間は待ってくれない。
夕映えは温もりに表情を変え、指先から全身へと伝わっていく。
感覚を研ぎ澄ませ、全てを感じ取る。
肌を伝う風が優しくなる。
そして、その風は止む。
「遅いよ、来るの」
赤を携えた白波が一つの線となって浜に打ち寄せる。
「一緒に来たかったよ、ここ。ねぇ、ハル」
「……そうだね。俺が見せてあげたかった」
「いいところね」
「うん」
二人の他には誰もいない。
「そうそう、ピアノって何で黒なんだっけ? 前に聞いたことあった?」
「うん、コンサートを除いてヨーロッパでは木目が多かったりするけど、日本では確かに黒が多いね」
「不思議ね」
「日本での最初のピアノには漆が使われていたこともあって、それが黒になったきっかけだって言われてるよ。湿気の多い国だから木目のままだと日本の風土に合わなかったのかもしれない。それに黒い方が格好良く見えるしね」
柔らかく微笑む春仁。流暢に言葉は出てくるが感情がこもっていない。
「今も漆?」
「ポリエステル塗料かな」
「へぇ~、そうなんだ」
気まずい空気が漂っている。
「コンサートの時にピアニストを目立たせるためっていうのも聞いたことあるよ。演奏技術とか衣装とか」
「よく知ってるね」
「好きだからね」
「元気ないね、カスミ」
あなただって。
「何か分かんなくなっちゃった」
「何が?」
「自分が、自分ってどういう人なんだろうって」
「うん」
「ハルは自分が他人からどう思われてるのかって気にならない?」
「気になるよ、すごく。けど、気にしないようにしてる」
「強いね」
「強くなんかないよ。自分が人から悪口だとか陰口だとか言われてるのを想像したくないから自分も言わないようにしてるだけ。怖いんだよね。人にはいい面も悪い面も両方あるのに悪い面ばかりがピックアップされてる。いい面をわざと見過ごすかのように。そういうのが嫌だから、それだったら他人はどうでもいいって割り切って気にしないでいる方が楽なんだよ」
「そう考えられるだけでもすごいと思うよ」
「自分のことしか考えない俺が?」
「そんなことないよ。誰でも自分のことを一番に考えてる。それでもハルは他の人のことも真剣に考えてくれてるよ。お父さんお母さんやおじいさんおばあさん、私のことだって」
どうなんだろう。奏澄の言う通りなのか。確かに身近な存在の人には、そうなのかもしれない。
「私なんかどうしたらいいのか」
「考えるのは大事だけど深く思い詰めすぎるのは良くないのかもね。マイナス思考だと進むべき道も進めない。できることもできない。生きづらくなってしまう」
辺りが暗くなってきた。陽はもう見えない。夜凪に波音だけが強くなってくる。
「うれしかったよ、あの日。俺のために泣いてくれて」
「あの日?」
「事故に遭った日」
「見てたの?」
「まぁね」
「どこから?」
「カスミの横、病室で一緒に自分を見てた」
「教えてよ」
「そう言われてもねぇ、自分じゃ思うようにコントロールできなかったし、死んだとは思いたくなかったし、それに……」
春仁の言葉が途切れる。口は静かに閉じられている。目元は前髪が重なり、あまり見えない。
奏澄が表情を窺う。
「それに?」
聞いた途端、ドキッとした。泣いている。表情を変えずに静かに涙を溜めて。
「悔しかった」
「ハル」
「認めたくなかった。死にたくなかった」
奏澄も堪えられない。
「今でも生き返れるんじゃないかって、どこかで期待してる自分もいる。だけど、思うだけ無駄なんだなって。どうにもならないって分かってるのに、それでも悪あがきしたくなる」
春仁が泣くなんて。私が慰めなきゃ。あなたのために。
そっと抱き寄せる奏澄。
春仁の堪えていたものが溢れ出す。
「ごめんな、カスミを守れなくて」
そんなことないよ。いつも私のそばにいてくれた。
「俺、カスミのために何もできなかった」
大丈夫だから、自分を責めないで。
「もっと素直に話したかった。音楽も教えてあげたかった。クレモナにだって連れていってあげたかった。二人の将来だって……」
「もういいよ、ハル。分かったから、十分」
私の方こそあなたに何もしてあげられなかった。いつももらうばかり。だからもう、謝らないで。笑ってよ。クールなあなたに、戻ってよ。
「ごめん」
自分のために泣いてくれる。人のために泣ける奏澄こそ、強い人間だよ。
これが等身大の春仁。やっと出会えたね。背伸びしないあなたの気持ち、伝えてくれて良かった。
「ありがとう。楽になったよ」
「ハル、私の方こそ感謝してるよ」
「うん」
「ほらぁ、元気出して。こんなに美人のお姉さんが慰めてあげてるんだから」
「ふっ」
「それそれぇ、やっといつものハルに戻った」
「からかうんじゃないって」
「ふふっ、これ見て」
バッグから取り出す奏澄。
手に取る春仁。
「覚えてる?」
「もちろん。オルゴール博物館の」
「そうそう、ハルが買ってくれたガーネット入りオルゴール」
「俺のはエメラルドで。3月の浜松、寒かったなぁ」
「桜、満開だったね」
「うん」
「浜名湖も舘山寺温泉も最高だったね」
「写真も撮った」
良かった。奏澄の心に残っていて。
「これ、大切にしてるよ」
「そう? 俺も……」
言葉を遮るように急な破裂音が夜の白鶴浜に轟く。
澄みきった夜空に、昇る花火。
見上げる春仁と奏澄。
二人を色彩豊かに照らし出すその花は過去から現在、そして未来へと続く架け橋なのかもしれない。
「うわぁ~今の水色、見た?」
「うん、見たよ。音もすごいね。こんな間近で、降ってきそう」
「何年ぶりだろう。二人で見るのは初めてだよね?」
「そうだね。カスミの浴衣姿、見たかったなぁ」
「また、変なこと考えてない?」
「うん、考えてる」
「えっ、随分と素直に……」
二人だけの時間。
芽吹く色とりどりの花が空高く祝福する。
互いの頬に、その赤が咲く。
「ねぇ、ハル」
「ん?」
「ヴァイオリン弾いて」
「いいよ。何がいい?」
「もちろん……」
目を閉じて深呼吸し、弓を構える。
花火と波音が交差する。
その音も徐々に聞こえなくなっていく。
春仁の音が聞こえ始める。
もう聴きたくないとも思ったことのある、それでも初めて聴いたあの日から記憶の片隅に流れ続けている曲。
彼の作った名前のない曲。大学の練習室が懐かしい。いつもの時間に二人で。もう一度、あの日に戻れないかな。一日だけでもいいから。こんなこと言ったらあなたは怒る? いいでしょ?
優艶な旋律が展開される。
もの悲しい主題。前は切ないとしか思えなかった。でも今は希望も感じられる。自分の明日は自分で拓かなければならない、そんな感情を呼び起こしてくれる。
春仁の演奏している時の立ち方、指や腕の動き、顔の表情、どれも素敵。吸いこまれそう。一緒に弾きたいな。ヴァイオリンとピアノで。
何度聴いても心に響く。春仁が弾いているからより強く。私もこんなふうに弾きたい。聴いている人を魅了するような音を奏でたい。
弦の上を春仁の指が滑らかに移る。
眉根が下がる。
苦しそうな顔つき。
私はまだつぼみで、いつか花を咲かせたい。それがどういう形になるかは予想しきれないけれど。ただ、形に残るような、心に残るようなことがしたい。
体がふわりと浮かぶ。
流れる雲の中を飛んでいるような安らぎ。
音符が雲間に見える。
通過する度にそれらは呼応して光り輝き、胸へと音が響いてくる。
これが春仁の世界。
この一音を手放したくない。
忘れ去られた過去の中に埋もれた未来への断片を探し出す。その断片に色が帰ってきた時、自分の色、自分の道がつかめるはず。
それぞれの色をまとった鳥達も愉しげに舞い上がる。
陽も燦々と降り注ぐ。
眼下には美風の守られた山・家・学校。
あの中には、たくさんの笑顔がある。泣き顔だってある。
うれしさもつらさも、喜びも悲しみも経験することで人は大きくなっていく。
それから、思い出の川。
二人の男の子が一緒に何か捕まえている。
魚かな。服、そんなに汚しちゃって。お父さんお母さんに怒られちゃうよ。
川は次第に幅を広げ、新しい世界が見えてくる。
ここは? どこ?
温かい旋律と眼差しで満たされた空間。
音楽ホール? ステージで男の子が懸命に演奏している。
上手ね、ヴァイオリン。指も体もあんなに小さいのに。
……あの横顔。
そっか。上手いはずね。
あどけなくて、けれど面影は残っているね。
盛大な拍手とトロフィーを贈られ、得意げな顔。
お辞儀をして聴衆にとびきりの明るい表情。
おめでとう。私もうれしい。
また世界が変わる。
今度は? どこだろう。
旋律に委ねて空を飛びながら再び眼下に開けた世界を見る。
見えてきた。
コバルトブルーの海。
最後はやっぱり、ここね。
白く大きな鶴が流麗な翼を広げている。
私達を呼んでいるのだろうか。
昔の春仁を見ることができたのは、あの鶴のお陰なのかな。
共に飛んで、共に音を楽しもう。
大好きな人を育ててくれた天草。
いつまでも見ていたい。
この場所も、あなたも。
これからも聴いていたい。
あなたの音を。
幸せな時間って過ぎていくのが早い。
この世界にもう少し浸りたい。
そう思っても終わりは近づいてくる。
私がこの音をつないでみせる。
必ず。
丁寧に色を付けられた音は誇らしげに春仁を称える。
余韻からさめる。
「ありがとう……いい曲、ね」
ハルが亡くなって1年、私はその時から時間が止まっている。前に進めない。どんどん弱気になっていきそうで、何をしたらいいのかも分からなくなっていた。
花火はもう辺りを照らしていない。
風が動き出す。
「もう会えないの?」
「……大丈夫、いつでもそばにいるから。カスミのやりたいことなら俺は賛成。きっと前にも進める」
「行かないでって言っても?」
引き止めてはいけない、分かってる。
「見守ってるよ」
そんなに悲しい目をしないでくれ。
「今までありがとう。カスミ」
初めて会ったあの日から惹かれていたよ。実は楚々とした雰囲気を持っているのかなと感じていた。もっと純粋に奏澄を知りたいと思った。奏澄にだけは本当の自分を知ってほしいとも思った。交わす言葉のそれぞれが恋しくて、大事にしたいと思えた。
なぜだろう? 音楽が二人をつなげてくれた?
どれだけ自分の想いを伝えられたか、ほとんど伝わらなかったかな? 時々、自分の性格を恨みたくなるよ。大切な人にさえ想いを伝えられない、そんな自分を。
二人で一緒に過ごした学生時代。社会人になってからも一緒だった。楽しい思い出ばかりだった。あなたにとって俺と過ごした期間は、これからの人生の1ページでしかない。長い道の岐路に立っているんだよ。未来を生き抜くためには、そのページを増やしていかなければならない。立ち止まってはいけない。
だから俺のこと、ただの思い出の一つとして捉えてもらっても構わないから。
忘れてくれてもいい。
自分を信じて、自分の人生を。
それでも後悔だけは、しないでほしい。
つらさを知った人間は大きくなれるから。
「ハル」
もう何も言えない。もっと話し続けて春仁を行かせたくないのに。
「最後くらい笑ってくれなきゃ。美人のお姉さんが台無しだよ」
「……もぉ」
涙を拭いながら春仁の優しさに触れる。
「じゃあね」
「……うん」
行ってしまう。時間がない。早く。
「……待っ……て」
伝えないと。
「ハルっ」
振り向く春仁。
「好き」
波音にかき消される。
「ん? ごめん、もう一回」
「あなたが好きっ! 好きで好きでどうしようもないくらいっ、あなたが好き~っ! これまでもこれからも絶対忘れないからっ!」
必死に伝える。体中から思い切り叫ぶ。これ以上、声が出ないというくらいに。
忘れることなんてない。
あなたは私の中にいてくれる。
私も望んでいる。
届けたい、あなたに。
私を、感じてほしい。
「……ふっ」
しっとりとした春仁の笑み。
潮の香りがする。
その中にもう一つ、甘い香気。
春仁の匂い。
空・海・砂浜、天草へ溶けこんでいく。
「ハル、好きだよ」
陽の沈んだ海に向かい、つぶやく。
何で助けてくれなかったの。
こんな最期なんてあんまりだよ。私が何かした? もうこんな人生なんて。
春仁の留学が迫った夏も終わりに近づく暑さの厳しい日。突として春仁は信号無視をしてきた車に命を奪われた。これから夢を叶えようという道半ばで非情にも。 どれだけの希望を持ってヴァイオリンのことを考えていたか。そして、二人の将来のことも。
病院のベッドで眠る春仁はとても健やかな顔をしていた。すぐに「ごめん、ごめん。寝ちゃった」と言って目を覚ましそう。しかし、それは叶わない。甘い旋律を奏でるあの指も腕も、もう動くことはない。演奏している時の横顔も目にすることはない。
大切な人を失うのって不思議な感覚。昨日まで笑っていた人が、もう次の日にはいないなんて考えられない。疲れて休んでいるだけだよね? 留学の準備で最近忙しかったから。もうすぐ起きるんでしょ?
やり切れない思いに苛まれる。
「ハル」
これからなのに。
「ねぇ、ハル」
ヴァイオリン製作。
「何とか言ってよ」
楽しみにしていたのに。
「また、カレー作るから」
驚く顔、見せてよ。
「いつもの鼻で笑うクセ、やってよ」
好きよ、あのクセ。
「浜松にも、また連れてってよ。浜名湖とか」
お父さんお母さんにも会いたいよ。
「ほら、クレモナが待ってるよ。早く行かなきゃ」
置いていかないでよ。私が時間ギリギリに来るからって。
「ねぇ」
「ハル」
「ハル?」
「……ハルってば! ねぇ、お願い! 起きてよっ!」
「そろそろ帰らないとな」
6日目、陽が沈みかけている。橙が水平線に迫る。
「……きれい」
白鶴浜の波は穏やか。風も緩やか。
今一度、浜へ入る奏澄。
天草に触れ、人々と出会い、自分も何か変われそうな気がした。生き生きとしたここの人達のように。
明日には帰らなければならない。もう少しで答えがつかめそうだけれど。
海一面が真っ赤に染まる。
手を伸ばす。
夕陽は、すぐそこに。
つかみたくてもつかめない。こんなにも近いのに。
時間は待ってくれない。
夕映えは温もりに表情を変え、指先から全身へと伝わっていく。
感覚を研ぎ澄ませ、全てを感じ取る。
肌を伝う風が優しくなる。
そして、その風は止む。
「遅いよ、来るの」
赤を携えた白波が一つの線となって浜に打ち寄せる。
「一緒に来たかったよ、ここ。ねぇ、ハル」
「……そうだね。俺が見せてあげたかった」
「いいところね」
「うん」
二人の他には誰もいない。
「そうそう、ピアノって何で黒なんだっけ? 前に聞いたことあった?」
「うん、コンサートを除いてヨーロッパでは木目が多かったりするけど、日本では確かに黒が多いね」
「不思議ね」
「日本での最初のピアノには漆が使われていたこともあって、それが黒になったきっかけだって言われてるよ。湿気の多い国だから木目のままだと日本の風土に合わなかったのかもしれない。それに黒い方が格好良く見えるしね」
柔らかく微笑む春仁。流暢に言葉は出てくるが感情がこもっていない。
「今も漆?」
「ポリエステル塗料かな」
「へぇ~、そうなんだ」
気まずい空気が漂っている。
「コンサートの時にピアニストを目立たせるためっていうのも聞いたことあるよ。演奏技術とか衣装とか」
「よく知ってるね」
「好きだからね」
「元気ないね、カスミ」
あなただって。
「何か分かんなくなっちゃった」
「何が?」
「自分が、自分ってどういう人なんだろうって」
「うん」
「ハルは自分が他人からどう思われてるのかって気にならない?」
「気になるよ、すごく。けど、気にしないようにしてる」
「強いね」
「強くなんかないよ。自分が人から悪口だとか陰口だとか言われてるのを想像したくないから自分も言わないようにしてるだけ。怖いんだよね。人にはいい面も悪い面も両方あるのに悪い面ばかりがピックアップされてる。いい面をわざと見過ごすかのように。そういうのが嫌だから、それだったら他人はどうでもいいって割り切って気にしないでいる方が楽なんだよ」
「そう考えられるだけでもすごいと思うよ」
「自分のことしか考えない俺が?」
「そんなことないよ。誰でも自分のことを一番に考えてる。それでもハルは他の人のことも真剣に考えてくれてるよ。お父さんお母さんやおじいさんおばあさん、私のことだって」
どうなんだろう。奏澄の言う通りなのか。確かに身近な存在の人には、そうなのかもしれない。
「私なんかどうしたらいいのか」
「考えるのは大事だけど深く思い詰めすぎるのは良くないのかもね。マイナス思考だと進むべき道も進めない。できることもできない。生きづらくなってしまう」
辺りが暗くなってきた。陽はもう見えない。夜凪に波音だけが強くなってくる。
「うれしかったよ、あの日。俺のために泣いてくれて」
「あの日?」
「事故に遭った日」
「見てたの?」
「まぁね」
「どこから?」
「カスミの横、病室で一緒に自分を見てた」
「教えてよ」
「そう言われてもねぇ、自分じゃ思うようにコントロールできなかったし、死んだとは思いたくなかったし、それに……」
春仁の言葉が途切れる。口は静かに閉じられている。目元は前髪が重なり、あまり見えない。
奏澄が表情を窺う。
「それに?」
聞いた途端、ドキッとした。泣いている。表情を変えずに静かに涙を溜めて。
「悔しかった」
「ハル」
「認めたくなかった。死にたくなかった」
奏澄も堪えられない。
「今でも生き返れるんじゃないかって、どこかで期待してる自分もいる。だけど、思うだけ無駄なんだなって。どうにもならないって分かってるのに、それでも悪あがきしたくなる」
春仁が泣くなんて。私が慰めなきゃ。あなたのために。
そっと抱き寄せる奏澄。
春仁の堪えていたものが溢れ出す。
「ごめんな、カスミを守れなくて」
そんなことないよ。いつも私のそばにいてくれた。
「俺、カスミのために何もできなかった」
大丈夫だから、自分を責めないで。
「もっと素直に話したかった。音楽も教えてあげたかった。クレモナにだって連れていってあげたかった。二人の将来だって……」
「もういいよ、ハル。分かったから、十分」
私の方こそあなたに何もしてあげられなかった。いつももらうばかり。だからもう、謝らないで。笑ってよ。クールなあなたに、戻ってよ。
「ごめん」
自分のために泣いてくれる。人のために泣ける奏澄こそ、強い人間だよ。
これが等身大の春仁。やっと出会えたね。背伸びしないあなたの気持ち、伝えてくれて良かった。
「ありがとう。楽になったよ」
「ハル、私の方こそ感謝してるよ」
「うん」
「ほらぁ、元気出して。こんなに美人のお姉さんが慰めてあげてるんだから」
「ふっ」
「それそれぇ、やっといつものハルに戻った」
「からかうんじゃないって」
「ふふっ、これ見て」
バッグから取り出す奏澄。
手に取る春仁。
「覚えてる?」
「もちろん。オルゴール博物館の」
「そうそう、ハルが買ってくれたガーネット入りオルゴール」
「俺のはエメラルドで。3月の浜松、寒かったなぁ」
「桜、満開だったね」
「うん」
「浜名湖も舘山寺温泉も最高だったね」
「写真も撮った」
良かった。奏澄の心に残っていて。
「これ、大切にしてるよ」
「そう? 俺も……」
言葉を遮るように急な破裂音が夜の白鶴浜に轟く。
澄みきった夜空に、昇る花火。
見上げる春仁と奏澄。
二人を色彩豊かに照らし出すその花は過去から現在、そして未来へと続く架け橋なのかもしれない。
「うわぁ~今の水色、見た?」
「うん、見たよ。音もすごいね。こんな間近で、降ってきそう」
「何年ぶりだろう。二人で見るのは初めてだよね?」
「そうだね。カスミの浴衣姿、見たかったなぁ」
「また、変なこと考えてない?」
「うん、考えてる」
「えっ、随分と素直に……」
二人だけの時間。
芽吹く色とりどりの花が空高く祝福する。
互いの頬に、その赤が咲く。
「ねぇ、ハル」
「ん?」
「ヴァイオリン弾いて」
「いいよ。何がいい?」
「もちろん……」
目を閉じて深呼吸し、弓を構える。
花火と波音が交差する。
その音も徐々に聞こえなくなっていく。
春仁の音が聞こえ始める。
もう聴きたくないとも思ったことのある、それでも初めて聴いたあの日から記憶の片隅に流れ続けている曲。
彼の作った名前のない曲。大学の練習室が懐かしい。いつもの時間に二人で。もう一度、あの日に戻れないかな。一日だけでもいいから。こんなこと言ったらあなたは怒る? いいでしょ?
優艶な旋律が展開される。
もの悲しい主題。前は切ないとしか思えなかった。でも今は希望も感じられる。自分の明日は自分で拓かなければならない、そんな感情を呼び起こしてくれる。
春仁の演奏している時の立ち方、指や腕の動き、顔の表情、どれも素敵。吸いこまれそう。一緒に弾きたいな。ヴァイオリンとピアノで。
何度聴いても心に響く。春仁が弾いているからより強く。私もこんなふうに弾きたい。聴いている人を魅了するような音を奏でたい。
弦の上を春仁の指が滑らかに移る。
眉根が下がる。
苦しそうな顔つき。
私はまだつぼみで、いつか花を咲かせたい。それがどういう形になるかは予想しきれないけれど。ただ、形に残るような、心に残るようなことがしたい。
体がふわりと浮かぶ。
流れる雲の中を飛んでいるような安らぎ。
音符が雲間に見える。
通過する度にそれらは呼応して光り輝き、胸へと音が響いてくる。
これが春仁の世界。
この一音を手放したくない。
忘れ去られた過去の中に埋もれた未来への断片を探し出す。その断片に色が帰ってきた時、自分の色、自分の道がつかめるはず。
それぞれの色をまとった鳥達も愉しげに舞い上がる。
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それから、思い出の川。
二人の男の子が一緒に何か捕まえている。
魚かな。服、そんなに汚しちゃって。お父さんお母さんに怒られちゃうよ。
川は次第に幅を広げ、新しい世界が見えてくる。
ここは? どこ?
温かい旋律と眼差しで満たされた空間。
音楽ホール? ステージで男の子が懸命に演奏している。
上手ね、ヴァイオリン。指も体もあんなに小さいのに。
……あの横顔。
そっか。上手いはずね。
あどけなくて、けれど面影は残っているね。
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私達を呼んでいるのだろうか。
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いつまでも見ていたい。
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これからも聴いていたい。
あなたの音を。
幸せな時間って過ぎていくのが早い。
この世界にもう少し浸りたい。
そう思っても終わりは近づいてくる。
私がこの音をつないでみせる。
必ず。
丁寧に色を付けられた音は誇らしげに春仁を称える。
余韻からさめる。
「ありがとう……いい曲、ね」
ハルが亡くなって1年、私はその時から時間が止まっている。前に進めない。どんどん弱気になっていきそうで、何をしたらいいのかも分からなくなっていた。
花火はもう辺りを照らしていない。
風が動き出す。
「もう会えないの?」
「……大丈夫、いつでもそばにいるから。カスミのやりたいことなら俺は賛成。きっと前にも進める」
「行かないでって言っても?」
引き止めてはいけない、分かってる。
「見守ってるよ」
そんなに悲しい目をしないでくれ。
「今までありがとう。カスミ」
初めて会ったあの日から惹かれていたよ。実は楚々とした雰囲気を持っているのかなと感じていた。もっと純粋に奏澄を知りたいと思った。奏澄にだけは本当の自分を知ってほしいとも思った。交わす言葉のそれぞれが恋しくて、大事にしたいと思えた。
なぜだろう? 音楽が二人をつなげてくれた?
どれだけ自分の想いを伝えられたか、ほとんど伝わらなかったかな? 時々、自分の性格を恨みたくなるよ。大切な人にさえ想いを伝えられない、そんな自分を。
二人で一緒に過ごした学生時代。社会人になってからも一緒だった。楽しい思い出ばかりだった。あなたにとって俺と過ごした期間は、これからの人生の1ページでしかない。長い道の岐路に立っているんだよ。未来を生き抜くためには、そのページを増やしていかなければならない。立ち止まってはいけない。
だから俺のこと、ただの思い出の一つとして捉えてもらっても構わないから。
忘れてくれてもいい。
自分を信じて、自分の人生を。
それでも後悔だけは、しないでほしい。
つらさを知った人間は大きくなれるから。
「ハル」
もう何も言えない。もっと話し続けて春仁を行かせたくないのに。
「最後くらい笑ってくれなきゃ。美人のお姉さんが台無しだよ」
「……もぉ」
涙を拭いながら春仁の優しさに触れる。
「じゃあね」
「……うん」
行ってしまう。時間がない。早く。
「……待っ……て」
伝えないと。
「ハルっ」
振り向く春仁。
「好き」
波音にかき消される。
「ん? ごめん、もう一回」
「あなたが好きっ! 好きで好きでどうしようもないくらいっ、あなたが好き~っ! これまでもこれからも絶対忘れないからっ!」
必死に伝える。体中から思い切り叫ぶ。これ以上、声が出ないというくらいに。
忘れることなんてない。
あなたは私の中にいてくれる。
私も望んでいる。
届けたい、あなたに。
私を、感じてほしい。
「……ふっ」
しっとりとした春仁の笑み。
潮の香りがする。
その中にもう一つ、甘い香気。
春仁の匂い。
空・海・砂浜、天草へ溶けこんでいく。
「ハル、好きだよ」
陽の沈んだ海に向かい、つぶやく。
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夫は愛人を連れて帰宅した。(その愛人は妊娠中)
笑顔で愛人をわたしに紹介する夫。
え。この人、こんな人だったの(愕然)
やだやだ、気持ち悪い。離婚一択!
※全15話。完結保証。
※『愚かな夫とそれを見限る妻』というコンセプトで書いた第四弾。
今回の夫婦は子無し。騎士爵(ほぼ平民)。
第一弾『妻の死を人伝てに聞きました。』
第二弾『そういうとこだぞ』
第三弾『妻の死で思い知らされました。』
それぞれ因果関係のない独立したお話です。合わせてお楽しみくださると一興かと。
※この話は小説家になろうにも投稿しています。
※2024.03.28 15話冒頭部分を加筆修正しました。
浮気くらいで騒ぐなとおっしゃるなら、そのとおり従ってあげましょう。
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