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#3 春仁、出会い
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朝8時開始で大学の練習室使用を予約し、ピアノ練習のためにその練習室に入ろうと思い扉の前に立った。8時を5分過ぎている時刻。扉に手をかざそうとした時、中からほのかにピアノの音が聞こえた。
「誰だろう、こんな早くに」
耳を澄ます。次第に聞こえてくる。
「……何だろう、この曲」
曲名が出てこない。聴いたことがあるような、どこか懐かしく、切ない曲。
扉を少し開けて隙間から覗く。さっきより音が強く聞こえる。
ピアノが目に入る。そして、切ない旋律を生み出している手元が見える。鍵と鍵の間をしなやかに行き来する指の動き、譜面には無数の書きこみ。
上手い、率直に感じた。
旋律は生まれたその瞬間に消えていく。生まれては消え、生まれては消え、それを繰り返していくことで音に連なりができ、進行していく。
もう少し聴いていたい、いや、ずっと聴いていたい。目を閉じる。どんな人が弾いているんだろう。どうしたらこんな音が出せるんだろう。もどかしい。このままずっと聞いていたい気持ちもある。ただ、やっぱりどんな人なのか気になる。
気づかれないよう慎重に扉に手を置き、目を開く。
再び手元、そこから徐々に目線を上げる。
横顔が見える。
「誰だろう? ピアノ専攻にあんな人いたかな」
彼の目は閉じられている。旋律に身を委ねるように、音色に溶けこむように体が揺れている。
不意に目が開いた。その目は宙の一点を見据えたまま動かない。自身の世界に集中しているがどこか表情が冴えない。
音が止まった。
彼は溜め息をし、譜面を閉じた。席を立ち、こちらに近づいてくる。緊張が走る。盗み聴きをしていたことがばれてしまう。必死になって隠れる場所を探そうとしたがもう遅かった。気づいた時には目の前にいた。
「もしかして、ここ使う? ごめん、空いてたからてっきり」
「あ、うん」
奏澄は上手く答えられなかった。
「じゃあ」
そのまま彼は部屋を出て行こうとした。
「あっ、ちょ、ちょっと……」
「ん?」
自分から声をかけたものの彼の目を見ることができない。目が合った瞬間に視線を外す。その先には例の譜面があった。
「……それ。えっと、ピアノ専攻?」
「ヴァイオリンだけど」
「でもそれってピアノ譜?」
「まぁね」
「何で?」
「クラシックでも現代曲でも他の楽器で演奏すると色々なイメージが湧くんだよ。楽曲の背景、作曲者の思い、楽器の個性、奏者の気持ち、とかね。自分の知らなかった世界が見えてくるっていうのかな、楽しいよ」
彼の表情にふわりと笑みがこぼれる。
「あ、そうなん……だ。チャイコフスキーだっけ? それともプロコフィエフ?」
「あぁこれ? そんなすごい曲に聞こえた?」
「クラシックじゃないの?」
「自分で書いた曲」
「本当に? 信じられない」
「そこまで驚かなくても、音大生なんだから」
「そうだけど。でも素敵な曲」
「うん。自分で言うのも変だけど俺も大好き。何かあると気づいたらこの曲弾いてるんだよね。俺にとって一番大切な曲かな。ある意味クラシックよりも別の次元にあるイメージ」
「曲名は?」
「決めてないよ」
まだドキドキしている。次に何を話そうか考えようとする。しかし、全く浮かばない。頭の中は真っ白。目の前にさっきの演奏をした人がいる。しかも、ヴァイオリン専攻なのに作曲までも、そう考えると尚更だ。
「さっきのどうだった?」
意表を衝かれた。
「えっ?」
「最初の方、音が飛んでたでしょ」
始めから気づかれていた。
「ウソ、どこが?」
全然分からなかった。むしろ完璧とさえ思ってしまった。それは私だけでなく他の人が聴いてもそう思うはず。
「まだまだだなぁ~俺って」
廊下の窓枠に肘をつきながら言う。背中が見える。白藍に染まるシャツをほんの少し捲り、夏の暑さを感じさせない爽やかな印象。動揺した。私が、たじろぐなんて。何だろうこの感覚。こんなにそばにいると心臓の鼓動を聞かれそうで怖い。意識的に平静を装い話しかける。
「私、4年の澤村奏澄、作曲専攻」
「藤崎春仁、俺も4年。よろしく」
「うん、よろしく」
今まで分からなかった。同学年にこんな人がいたなんて。結構、顔見知りは多いと思っていたのに。
これが初めての出会いだった。
奏澄は翌日・翌々日と同じ練習室を借りて練習していた。また会えるかもとにわかに期待を寄せていたが両日とも春仁はいなかった。どうしても気になる。なぜ?
顔、性格。確かに格好いいし、性格も穏やかそう。演奏。それにピアノの技術がピアノ専攻の学生以上といっても過言ではない。
もっと彼を知りたい。
次に会えたのは学食だった。その日は授業が午後のみになっていたので奏澄は食事を摂ってから実技に臨もうと考えていた。いつものパスタを受け取り、席を探していると春仁が目に入った。隣には笑窪と八重歯が特徴の華奢な女の子。明るい茶色のショートヘアでゆるくウェーブがかかっている。腕には青い水玉のシュシュ。ご飯を食べながら女の子は譜面をテーブルいっぱいに広げ、春仁に楽曲の解説をしてもらっているようだった。
少し離れたところから二人を見つめる。食事もほとんど喉を通らない。何を食べているのかも分からないほど。ただ、手持ち無沙汰なので機械的に手を動かしているにすぎない。あの子もヴァイオリン専攻なのであろうか。荷物を見る限り楽器らしきものは見当たらない。少なくとも作曲専攻では見かけたことがない。
「あ~ごめん、ごめん」
学食の中庭で練習していた弦楽四重奏の声ではっと我に返った。音を間違えたチェロの学生が両手を合わせ、お茶目に謝っている。
「ふふっ。何だか私、ストーカーみたい。まったく何やってんだか」
アイスティーを含み、さっきまでの自分諸共、水に流した。
「よし、忘れた、忘れた。譜面さらっとかなきゃ」
譜面を広げて左手にフォーク、右手でテーブル上を鍵盤に見立て指を運ぶ。タッタッタタッ、タッタッタタッタッ、明るく軽やかな音がテーブルを弾んでいく。頭の中を音符がかけめぐる。
音を消さないよう、逃げないように想いを込める。眠気にも似た感覚に体が揺られる。休む間もなく忙しく鍵盤を流す。何も見えない。自分の音しか聞こえない。
徐々に難しい局面に入ってくる。心臓の鼓動に音が共鳴する。繊細な音を拾って絶妙に音量・タイミングを配分し、バランスをとる。
ここからがクライマックス。最も難しい主題が続く。指が激しく移動する。きつくなってくる。指が回らない。手首が限界に近づく。あと少し、ここを乗り越えられれば……
「随分難しいのやってるね」
同時に肩をポンと叩かれた。
息が止まった。
悲鳴と共に思わず左手を振りかざした。
「お~っと、ストップ、ストップ」
奏澄の細い左手首を俊敏な動きでつかむ。
「殺す気かよ。俺はパスタでもないぞ」
「あっ、ごめんっ。ど、どうしたの? 藤崎くん」
「それはこっちのセリフ、あんな激しくテーブル叩いてればみんな気づくよ」
隣にいた女の子はもういなくなっていた。
「あら~、そんなに?」
ごまかしながら奏澄はあの女の子のことを聞きたいと考えていた。なかなか切り出せない。取り繕うように別の話題を振る。
「この曲難しいって言ったよね? あなたでもそう思うの?」
「俺ってどんなふうに見えてるの? 天才でも奇才でもないよ。それにこの曲は弾いたことないね、ヴァイオリンでも。聴いたことはあるけど」
奏澄の隣に座る。
「ふ~ん、そうなんだ」
脈の拍子が速くなる。
「同じヴァイオリン専攻の子だよ」
「えっ?」
瞬時に春仁へ振り向いた。しまった。目が合ってしまった。じっと見つめられると動けなくなってしまいそう。
「んんっ? な、何の話?」
声が上擦った。ばればれだ。あぁ、時間を戻したい。そして、家に帰り神様にお願いしてもう一度今日という日を最初からやり直したい。ダメですか? ダメ……ですよね。はい、分かってます。
「ウソつくの下手だね。そういうところ、結構しっかりしてるように見えるけど」
「どういうところよ、もぉ」
心中を見透かされているみたい。不思議と楽しい。もっと話したい、あなたはどんな人なの? 時間が惜しい。
「仲いいね、彼女と」
「別に彼女じゃないけどね。教えてって言われたから自分の思うこと言っただけ」
「ふ~ん、なるほどねぇ。ヴァイオリン持ってなかったようだけどぉ?」
痛いところを突くように、にやけながら自信満々で攻める。してやったりみたいな。
「あれぇ、おかしいなぁ。ヴァイオリン専攻の子なのにねぇ?」
「……」
「隠さなくてもいいのにぃ」
彼の視線が奏澄で止まる。
「ずっと見てたんだ」
「えっ!?」
やられた。
「いやいや、そうじゃなくて。偶然見えたというか。ほらっ、あの~」
「あの子、たまたま今日は授業ないんだよ。だから時間がもったいないから教えてって」
へぇ~、ああ見えて結構、真面目な子なんだ。無理矢理、心を落ち着かせる。
「い、いいじゃない。彼女のためなら」
何か私、必死になってる?
「そう思いたければそれでもいいけど」
ということは、どっち?
「じゃ、本当に彼女じゃないの?」
「最初から言ってるじゃん」
「そうなんだ」
一安心。ん? 安心?
「ところで藤崎くんは、普段どんな音楽聴いてるの?」
それまでの会話を忘れるかのように話題を変える。そんな奏澄に抵抗もせず、素直に聞かれたことに答える春仁。
「クラシック、イージーリスニング、ダンス、ロック、邦楽も洋楽も」
「ロックも聴くんだ。意外」
「いいものは、いいからね。どんなジャンルでも」
「偏らない方がいいのかもね」
「色んな音が聴けるってすごくない? 洋楽の一つとってみても例えばイギリスで生まれた曲が遠い日本ですぐに聴けるし、他にも自分が生まれる前の昔に作られた曲が時代を越えて自分の元にやってきたりとか、意識してないかもしれないけど、それって本当にすごいと思う」
「逆に日本で生まれた曲も世界に伝えられるんだよね」
「そう、面白い」
言葉は通じなくても音楽は万国共通。心への響き方が違ったとしても曲のイメージは伝わる。
「それとハルって呼んで。周りからそう言われてるから」
「あっ、はい。承知いたしました」
「何で急に敬語? 全くカスミは」
「ごめん。あはは、気にしないで」
胸が張り裂けそう。あれ? 今もしかして下の名前で呼ばれた?
「どういう字書くの?」
「へっ?」
「カスミって漢字」
ほら、また。
「あ、えっと~、奏でるに……清澄白河の"すみ"」
「きよすみ……あぁ、"さんずい"に"のぼる"?」
「そうそう、うちの両親が私に音楽をやらせたいと思って付けたの」
「そっか、いい名前だね」
「うん、ありがとう」
少しの緊張感。
「ハ、ハルは?」
「季節の春に、仁義の"じん"。春に生まれたから」
「素敵。私、はる好きよ」
素直に口から出た。
「あっ、は、はるって季節の春だからね」
「そんなに俺を否定しなくても」
「いや、そういうつもりじゃ」
春仁が席を立ち、去り際に小さく口を開く。
「まぁ、俺は好きだけどね」
「えっ? ごめん、もう一回」
「もうすぐ次の授業始まるよ。頑張って」
言われて時計を見る。大学入学時に父からもらったシルバーの時計。小さなダイヤが文字盤にちりばめられている。
「本当だ、行かなきゃ」
慌てて準備して教室へと走る。
「また今度ね~、ハルぅ~」
半月後、まだ残暑が厳しい日が続く。こういう時、ピアノ専攻の人のメリットを感じる。ピアニストは基本、学校や音楽ホールなどすでに設置されているピアノを使用する。理由は簡単、運搬が困難だからだ。ただ反面、自分が普段弾いて慣れ親しんだピアノではないため演奏調整に支障を来たす。稀に自分専用のピアノを毎回、演奏会場に搬入するプロのピアニストもいないことはない。
それに比べて弦楽器や管楽器の奏者は大変だなと思う。自分の楽器をいつでも持ち運べて自身の技術を発揮しやすいというメリットはあるが、やはり管理が難しいと思う。音高を調整するのが一苦労で、気象条件や温度・湿度によって音が変わってしまうこともあるからである。
「マジ? 彼氏できたの?」
「うん」
親友の坂木彩乃と大学近くのカフェで恋愛話に花を咲かせる。彼女のフルートはこの暑さに耐えられるのであろうか。彩乃は同じ学部のフルート専攻である。奏澄とは大学1年次からの知り合い。
「どんな人?」
「う~ん、ヴァイオリン専攻でピアノも上手くてクールな感じで、思いやりがあるかな」
「どこが好きなの?」
頼んだ抹茶あんみつを頬張りながらも目をキラキラさせて聞いてくる彼女はまるで知りたがりの子供みたい。まぁそこが愛しいのだけれど。
「ねぇ、どこどこ?」
「雰囲気……かな」
「雰囲気ってどんな?」
「何て言ったらいいのかな。どこか自分と同じ色を持った人だなと思うのよね。波長が合う感じがする。お互いに音楽をやってるからっていうのもあるかもしれないね」
「どっちから告白したの?」
「向こうだけど、私も好きだったよ」
「え~何それぇ~。うらやましいぞぉ~。幸せ分けてよ~」
「アヤだって、いい人見つかるよ」
普段は子供っぽいところがある彩乃。一度だけ大学内の演奏会で彼女のフルートを聴いたことがある。別人かと見紛うほどの大人っぽさ。それは衣装から来るものではなく、発する音からのものである。スイッチが入った時の彼女は、近寄りがたくなるほど音に憑かれたかのようで魅力的な女性の印象を受ける。
「今度、紹介してよぉ~」
「ふふっ」
照れ臭かった。もう一方で、その照れ臭さをはねのけ悦に入っている自分がいる。こんなに幸せでいいのかな。毎日でも彼の声が聞きたい。想像するだけでも心が躍る。
雰囲気、確かにそこに惹かれた。春仁と自分、同じ感覚を持っていると感じるからこそお互いにこれを言ったらダメだろうなとか、あれをやったら喜んでくれるだろうなとか想像できる。
本当に大切な人。
「誰だろう、こんな早くに」
耳を澄ます。次第に聞こえてくる。
「……何だろう、この曲」
曲名が出てこない。聴いたことがあるような、どこか懐かしく、切ない曲。
扉を少し開けて隙間から覗く。さっきより音が強く聞こえる。
ピアノが目に入る。そして、切ない旋律を生み出している手元が見える。鍵と鍵の間をしなやかに行き来する指の動き、譜面には無数の書きこみ。
上手い、率直に感じた。
旋律は生まれたその瞬間に消えていく。生まれては消え、生まれては消え、それを繰り返していくことで音に連なりができ、進行していく。
もう少し聴いていたい、いや、ずっと聴いていたい。目を閉じる。どんな人が弾いているんだろう。どうしたらこんな音が出せるんだろう。もどかしい。このままずっと聞いていたい気持ちもある。ただ、やっぱりどんな人なのか気になる。
気づかれないよう慎重に扉に手を置き、目を開く。
再び手元、そこから徐々に目線を上げる。
横顔が見える。
「誰だろう? ピアノ専攻にあんな人いたかな」
彼の目は閉じられている。旋律に身を委ねるように、音色に溶けこむように体が揺れている。
不意に目が開いた。その目は宙の一点を見据えたまま動かない。自身の世界に集中しているがどこか表情が冴えない。
音が止まった。
彼は溜め息をし、譜面を閉じた。席を立ち、こちらに近づいてくる。緊張が走る。盗み聴きをしていたことがばれてしまう。必死になって隠れる場所を探そうとしたがもう遅かった。気づいた時には目の前にいた。
「もしかして、ここ使う? ごめん、空いてたからてっきり」
「あ、うん」
奏澄は上手く答えられなかった。
「じゃあ」
そのまま彼は部屋を出て行こうとした。
「あっ、ちょ、ちょっと……」
「ん?」
自分から声をかけたものの彼の目を見ることができない。目が合った瞬間に視線を外す。その先には例の譜面があった。
「……それ。えっと、ピアノ専攻?」
「ヴァイオリンだけど」
「でもそれってピアノ譜?」
「まぁね」
「何で?」
「クラシックでも現代曲でも他の楽器で演奏すると色々なイメージが湧くんだよ。楽曲の背景、作曲者の思い、楽器の個性、奏者の気持ち、とかね。自分の知らなかった世界が見えてくるっていうのかな、楽しいよ」
彼の表情にふわりと笑みがこぼれる。
「あ、そうなん……だ。チャイコフスキーだっけ? それともプロコフィエフ?」
「あぁこれ? そんなすごい曲に聞こえた?」
「クラシックじゃないの?」
「自分で書いた曲」
「本当に? 信じられない」
「そこまで驚かなくても、音大生なんだから」
「そうだけど。でも素敵な曲」
「うん。自分で言うのも変だけど俺も大好き。何かあると気づいたらこの曲弾いてるんだよね。俺にとって一番大切な曲かな。ある意味クラシックよりも別の次元にあるイメージ」
「曲名は?」
「決めてないよ」
まだドキドキしている。次に何を話そうか考えようとする。しかし、全く浮かばない。頭の中は真っ白。目の前にさっきの演奏をした人がいる。しかも、ヴァイオリン専攻なのに作曲までも、そう考えると尚更だ。
「さっきのどうだった?」
意表を衝かれた。
「えっ?」
「最初の方、音が飛んでたでしょ」
始めから気づかれていた。
「ウソ、どこが?」
全然分からなかった。むしろ完璧とさえ思ってしまった。それは私だけでなく他の人が聴いてもそう思うはず。
「まだまだだなぁ~俺って」
廊下の窓枠に肘をつきながら言う。背中が見える。白藍に染まるシャツをほんの少し捲り、夏の暑さを感じさせない爽やかな印象。動揺した。私が、たじろぐなんて。何だろうこの感覚。こんなにそばにいると心臓の鼓動を聞かれそうで怖い。意識的に平静を装い話しかける。
「私、4年の澤村奏澄、作曲専攻」
「藤崎春仁、俺も4年。よろしく」
「うん、よろしく」
今まで分からなかった。同学年にこんな人がいたなんて。結構、顔見知りは多いと思っていたのに。
これが初めての出会いだった。
奏澄は翌日・翌々日と同じ練習室を借りて練習していた。また会えるかもとにわかに期待を寄せていたが両日とも春仁はいなかった。どうしても気になる。なぜ?
顔、性格。確かに格好いいし、性格も穏やかそう。演奏。それにピアノの技術がピアノ専攻の学生以上といっても過言ではない。
もっと彼を知りたい。
次に会えたのは学食だった。その日は授業が午後のみになっていたので奏澄は食事を摂ってから実技に臨もうと考えていた。いつものパスタを受け取り、席を探していると春仁が目に入った。隣には笑窪と八重歯が特徴の華奢な女の子。明るい茶色のショートヘアでゆるくウェーブがかかっている。腕には青い水玉のシュシュ。ご飯を食べながら女の子は譜面をテーブルいっぱいに広げ、春仁に楽曲の解説をしてもらっているようだった。
少し離れたところから二人を見つめる。食事もほとんど喉を通らない。何を食べているのかも分からないほど。ただ、手持ち無沙汰なので機械的に手を動かしているにすぎない。あの子もヴァイオリン専攻なのであろうか。荷物を見る限り楽器らしきものは見当たらない。少なくとも作曲専攻では見かけたことがない。
「あ~ごめん、ごめん」
学食の中庭で練習していた弦楽四重奏の声ではっと我に返った。音を間違えたチェロの学生が両手を合わせ、お茶目に謝っている。
「ふふっ。何だか私、ストーカーみたい。まったく何やってんだか」
アイスティーを含み、さっきまでの自分諸共、水に流した。
「よし、忘れた、忘れた。譜面さらっとかなきゃ」
譜面を広げて左手にフォーク、右手でテーブル上を鍵盤に見立て指を運ぶ。タッタッタタッ、タッタッタタッタッ、明るく軽やかな音がテーブルを弾んでいく。頭の中を音符がかけめぐる。
音を消さないよう、逃げないように想いを込める。眠気にも似た感覚に体が揺られる。休む間もなく忙しく鍵盤を流す。何も見えない。自分の音しか聞こえない。
徐々に難しい局面に入ってくる。心臓の鼓動に音が共鳴する。繊細な音を拾って絶妙に音量・タイミングを配分し、バランスをとる。
ここからがクライマックス。最も難しい主題が続く。指が激しく移動する。きつくなってくる。指が回らない。手首が限界に近づく。あと少し、ここを乗り越えられれば……
「随分難しいのやってるね」
同時に肩をポンと叩かれた。
息が止まった。
悲鳴と共に思わず左手を振りかざした。
「お~っと、ストップ、ストップ」
奏澄の細い左手首を俊敏な動きでつかむ。
「殺す気かよ。俺はパスタでもないぞ」
「あっ、ごめんっ。ど、どうしたの? 藤崎くん」
「それはこっちのセリフ、あんな激しくテーブル叩いてればみんな気づくよ」
隣にいた女の子はもういなくなっていた。
「あら~、そんなに?」
ごまかしながら奏澄はあの女の子のことを聞きたいと考えていた。なかなか切り出せない。取り繕うように別の話題を振る。
「この曲難しいって言ったよね? あなたでもそう思うの?」
「俺ってどんなふうに見えてるの? 天才でも奇才でもないよ。それにこの曲は弾いたことないね、ヴァイオリンでも。聴いたことはあるけど」
奏澄の隣に座る。
「ふ~ん、そうなんだ」
脈の拍子が速くなる。
「同じヴァイオリン専攻の子だよ」
「えっ?」
瞬時に春仁へ振り向いた。しまった。目が合ってしまった。じっと見つめられると動けなくなってしまいそう。
「んんっ? な、何の話?」
声が上擦った。ばればれだ。あぁ、時間を戻したい。そして、家に帰り神様にお願いしてもう一度今日という日を最初からやり直したい。ダメですか? ダメ……ですよね。はい、分かってます。
「ウソつくの下手だね。そういうところ、結構しっかりしてるように見えるけど」
「どういうところよ、もぉ」
心中を見透かされているみたい。不思議と楽しい。もっと話したい、あなたはどんな人なの? 時間が惜しい。
「仲いいね、彼女と」
「別に彼女じゃないけどね。教えてって言われたから自分の思うこと言っただけ」
「ふ~ん、なるほどねぇ。ヴァイオリン持ってなかったようだけどぉ?」
痛いところを突くように、にやけながら自信満々で攻める。してやったりみたいな。
「あれぇ、おかしいなぁ。ヴァイオリン専攻の子なのにねぇ?」
「……」
「隠さなくてもいいのにぃ」
彼の視線が奏澄で止まる。
「ずっと見てたんだ」
「えっ!?」
やられた。
「いやいや、そうじゃなくて。偶然見えたというか。ほらっ、あの~」
「あの子、たまたま今日は授業ないんだよ。だから時間がもったいないから教えてって」
へぇ~、ああ見えて結構、真面目な子なんだ。無理矢理、心を落ち着かせる。
「い、いいじゃない。彼女のためなら」
何か私、必死になってる?
「そう思いたければそれでもいいけど」
ということは、どっち?
「じゃ、本当に彼女じゃないの?」
「最初から言ってるじゃん」
「そうなんだ」
一安心。ん? 安心?
「ところで藤崎くんは、普段どんな音楽聴いてるの?」
それまでの会話を忘れるかのように話題を変える。そんな奏澄に抵抗もせず、素直に聞かれたことに答える春仁。
「クラシック、イージーリスニング、ダンス、ロック、邦楽も洋楽も」
「ロックも聴くんだ。意外」
「いいものは、いいからね。どんなジャンルでも」
「偏らない方がいいのかもね」
「色んな音が聴けるってすごくない? 洋楽の一つとってみても例えばイギリスで生まれた曲が遠い日本ですぐに聴けるし、他にも自分が生まれる前の昔に作られた曲が時代を越えて自分の元にやってきたりとか、意識してないかもしれないけど、それって本当にすごいと思う」
「逆に日本で生まれた曲も世界に伝えられるんだよね」
「そう、面白い」
言葉は通じなくても音楽は万国共通。心への響き方が違ったとしても曲のイメージは伝わる。
「それとハルって呼んで。周りからそう言われてるから」
「あっ、はい。承知いたしました」
「何で急に敬語? 全くカスミは」
「ごめん。あはは、気にしないで」
胸が張り裂けそう。あれ? 今もしかして下の名前で呼ばれた?
「どういう字書くの?」
「へっ?」
「カスミって漢字」
ほら、また。
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「きよすみ……あぁ、"さんずい"に"のぼる"?」
「そうそう、うちの両親が私に音楽をやらせたいと思って付けたの」
「そっか、いい名前だね」
「うん、ありがとう」
少しの緊張感。
「ハ、ハルは?」
「季節の春に、仁義の"じん"。春に生まれたから」
「素敵。私、はる好きよ」
素直に口から出た。
「あっ、は、はるって季節の春だからね」
「そんなに俺を否定しなくても」
「いや、そういうつもりじゃ」
春仁が席を立ち、去り際に小さく口を開く。
「まぁ、俺は好きだけどね」
「えっ? ごめん、もう一回」
「もうすぐ次の授業始まるよ。頑張って」
言われて時計を見る。大学入学時に父からもらったシルバーの時計。小さなダイヤが文字盤にちりばめられている。
「本当だ、行かなきゃ」
慌てて準備して教室へと走る。
「また今度ね~、ハルぅ~」
半月後、まだ残暑が厳しい日が続く。こういう時、ピアノ専攻の人のメリットを感じる。ピアニストは基本、学校や音楽ホールなどすでに設置されているピアノを使用する。理由は簡単、運搬が困難だからだ。ただ反面、自分が普段弾いて慣れ親しんだピアノではないため演奏調整に支障を来たす。稀に自分専用のピアノを毎回、演奏会場に搬入するプロのピアニストもいないことはない。
それに比べて弦楽器や管楽器の奏者は大変だなと思う。自分の楽器をいつでも持ち運べて自身の技術を発揮しやすいというメリットはあるが、やはり管理が難しいと思う。音高を調整するのが一苦労で、気象条件や温度・湿度によって音が変わってしまうこともあるからである。
「マジ? 彼氏できたの?」
「うん」
親友の坂木彩乃と大学近くのカフェで恋愛話に花を咲かせる。彼女のフルートはこの暑さに耐えられるのであろうか。彩乃は同じ学部のフルート専攻である。奏澄とは大学1年次からの知り合い。
「どんな人?」
「う~ん、ヴァイオリン専攻でピアノも上手くてクールな感じで、思いやりがあるかな」
「どこが好きなの?」
頼んだ抹茶あんみつを頬張りながらも目をキラキラさせて聞いてくる彼女はまるで知りたがりの子供みたい。まぁそこが愛しいのだけれど。
「ねぇ、どこどこ?」
「雰囲気……かな」
「雰囲気ってどんな?」
「何て言ったらいいのかな。どこか自分と同じ色を持った人だなと思うのよね。波長が合う感じがする。お互いに音楽をやってるからっていうのもあるかもしれないね」
「どっちから告白したの?」
「向こうだけど、私も好きだったよ」
「え~何それぇ~。うらやましいぞぉ~。幸せ分けてよ~」
「アヤだって、いい人見つかるよ」
普段は子供っぽいところがある彩乃。一度だけ大学内の演奏会で彼女のフルートを聴いたことがある。別人かと見紛うほどの大人っぽさ。それは衣装から来るものではなく、発する音からのものである。スイッチが入った時の彼女は、近寄りがたくなるほど音に憑かれたかのようで魅力的な女性の印象を受ける。
「今度、紹介してよぉ~」
「ふふっ」
照れ臭かった。もう一方で、その照れ臭さをはねのけ悦に入っている自分がいる。こんなに幸せでいいのかな。毎日でも彼の声が聞きたい。想像するだけでも心が躍る。
雰囲気、確かにそこに惹かれた。春仁と自分、同じ感覚を持っていると感じるからこそお互いにこれを言ったらダメだろうなとか、あれをやったら喜んでくれるだろうなとか想像できる。
本当に大切な人。
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