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第8章 戸惑い
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サーカスの芸の基本とは訓練に訓練を重ねることである。そしてひとつの芸の形が仕上がったら、あとはひたすら同じ事をくり返す。疑問は不要、迷いは禁物。
スキルは早朝の訓練を行なっていた。パートナーであるシアとの練習はすでに終えて、ステージにいるのはスキル只1人。
彼のサーカスでの役目は空中アクロバット。
天井に張られた一本のロープを使って、腕の力を頼りに体重を支えてさまざまなポーズを取りながら演技をする。
このアクロバットは天性の体のしなやかさだけでは不十分で、筋肉も充分に鍛えられていなければならない。そうでなければ反りかえった筋肉を元に戻したりすることはできないから。
訓練とはいえ、アクロバットには相当の体力を消耗する。すでにスキルの服は汗のせいでピタリと体に張りついてしまっていた。額から流れ落ちる汗を手の甲で拭い取る。
今の季節は春だから良いものの、これからの季節を考えると気が重い。
中にはその暑さと厳しい訓練ゆえに倒れてしまうものもいるほどだ。
一通り訓練を重ねた後、スキルは床に腰を下ろして休憩をした。力いっぱい空気を吸い込んでまるで猫のように伸びをする。
「おはよう。もうご飯よ。そろそろ休憩したらどう?」
そう声をかけて、朝食を載せた盆を手に現れたのは母のソアラだった。熱心に練習に励んでいるスキルを気遣うように微笑んでいる。
「おはようございます、母上。いつもならリグが届けてくれるはずなんだけど…リグはどうしたんです?」
いつもなら朝食を持ってくるはずの、今はこの場にいないリグの姿を探す。
「リグならまだ動物達のお世話をしているみたいよ。ブレンが今日から手伝っているみたいだけれど…大丈夫かしら」
ソアラの語るところによると、ブレンがつまずいた拍子に動物の餌をぶちまけてしまって、それを運悪く頭から被ってしまったリグとで後片付けをしている最中なのだという。
話を聞いたスキルは思わず苦笑をもらした。
「あらあら、笑い事ではないのよ。あなたは昔からリグを困らせることしかしないのだから」
ソアラは困ったように小首を傾げる。叱っているつもりなのだろうが、おっとりしているのでちっとも迫力がない。
「レイピアちゃんのことだってそうよ。あの子をあんまり困らせては駄目よ。とっても傷つきやすくてか弱い女の子なのだから」
「そう……ですね」
それは分かっている。レイピアは強気に振舞っているけれど、本当はとても傷つきやすくて繊細な女性だということは。
あのとき。
レイピアが腕に怪我をして熱を出して眠っていたとき。
何度も寝言でつぶやいていた言葉がある。
ユーザ。
不安そうに眉根を寄せて、痛いであろう右手を伸ばして誰かを捜し求めるように何度も宙にさまよわせた。
おそらくそのユーザという人物と過去に何かがあったのだろう。
あの事件のときのレイピアの過剰なほどの荒れた様子も少なからずその事が関係しているのではないかと思う。
生憎それが何であるかはスキルでもさすがにわからなかったが。
「それがわかっているのにレイピアちゃんをいじめているの?」
スキルは苦笑して肩をすくめる。
「俺にもどうしてだか…。ああ、きっとあれかな、好きな娘にいたずらをしたくなるっていうやつ。あれはそうか…こんな感じなのか」
1人で納得したようにぶつぶつとつぶやくスキルに、ソアラはもうっとため息をつく。
「いつまでたっても大きい子供みたいねぇ。一体誰に似たのかしら?」
ソアラはもちろんのこと、父も一途なタイプだ。
恋愛に対して大変不真面目なスキルのことは息子ながら理解できないと思われている節がある。
「正直あのお嬢さんに対してどう接していいのかわからないんですよ。…いつも怒らせるか泣かせてばかりだ」
「不器用な子ねぇ…。あなたがレイピアちゃんのことを本気で好きになったのなら応援するわ。お嫁さんに来てもらったらとっても嬉しいもの。でもね、そうでなかったら…中途半端に関わっては駄目よ」
レイピアちゃんの心は壊れてしまうかもしれないから。
そう言ったソアラの言葉にスキルは「肝に命じておきます」と、それだけ返した。
ソアラの意見は正しい。
レイピアの心はガラスのようだ。性格はレイピアというその名にふさわしく鋭いものがある…けれどそれは表面上のもの。
実際の彼女は触れると壊れてしまうガラスのようにもろい。あの普段のつんけんとした態度はそうやって人から距離を置いて自分の心を遠ざけているように思える。
…心を守っているのだ。
だからこそどう接してよいものか戸惑う。
ゲームの対象としてレイピアを見ているのなら話は簡単だった。極力関わらないようにして、ピンクダイヤを守っていれば良いだけなのだから。
なのに、ついレイピアの顔を見ると引き寄せられるように近づいてしまう。
わざと挑発したり、からかって怒らせたり。レイピアの反応1つ1つを見るのがいつの間にか楽しくなっていた。
自分は彼女に惹かれている。
そう思うようになったきっかけはあの事件。
ライのために涙を流したレイピアの姿がたまらなく美しいと思った。けれどそれはほんのきっかけにしか過ぎなくて、たぶん最初に一目その姿を見たときから惹かれていたのだろう。
いつもなら少しでも好意を持った相手がいたら、すぐに口説いてしまうというのに。しかし、どうしてもその一歩が踏み出せずにいる。
俺らしくもない……。
前髪を掻きあげて自嘲する。
スキルには悪い癖がある。
口説いた女性と長く続かないのだ。いつも関係を持った上で、終わりにする。その繰り返し。
自分でも悪い癖だと思っているけれどこればかりはどうしようもないのだ。
彼女達に対してすぐに冷めてしまう自分にいつだったかリグが言った言葉があった。
「きっとそれはあなたが彼女達に対して本気ではなかったということでしょうね」と。
レイピアに対しての気持ちも、同じなのかもしれない。
単に普通の娘よりも毛色が変わっているから側にいて楽しいだけで、一度でも関係を持ってしまえば、そこで終わってしまう気持ちなのかもしれない。
スキルのそうした恋愛観をレイピアは理解できないと言った。
彼女は遊びで手を出していい相手ではないのだ。
レイピアちゃんの心が壊れてしまうかもしれないから。
ソアラの言葉が頭の中で反芻する。
そう、だからこそ迂闊に踏み込めない。
***
「若君―――――――っ!!」
凄まじい程の足音を立てて、サーカスのステージに駆け込んで来たのは顔を怒りで真っ赤にしたリグだった。その後からブレンも同じように顔を真っ赤にして入ってくる。
何事かとスキルとソアラは顔を見合わせて首を傾げる。
「どうして私がブレンと仕事をしなくちゃならないんですか! ブレンときたら手伝うどころか余計に仕事を増やすんですから!」
「俺だってお前なんかと仕事なんかしたかねぇや! 口を開けばお小言ばっかり言いやがってー! お前がごちゃごちゃ言うから気が散って足が滑ったんだ」
ぎゃあぎゃあとリグとブレンは顔を向かい合わせて怒鳴りあった。
スキルは先程ソアラが言っていたブレンが餌をこぼしてリグに引っ掛けたという言葉を思い出す。
リグを見ると服のところどころに野菜をすりつぶした餌がくっついていた。
「朝から賑やかだな」
笑いを噛み殺して声を掛けると、途端にリグがキッと睨んで振り返った。そして恨めしそうな顔をしながらスキルに詰め寄る。
「若君~~~~っ! もしかしてこれは私に対しての新たな嫌がらせですか!? そうでしょう、そうなんでしょう!?」
「嫌だな。俺は純粋にリグの負担を軽くしてあげようとブレンを手伝いに向かわせたというのに」
心外だな、とばかりに顔を曇らせる。
彼を知らない者から見れば、心やさしい青年が純粋にリグの身を案じているように映るかもしれない。顔だけは大変良いので余計にタチが悪い。
「そんな顔しても騙されませんよ! …ああ、もうどうしてあなたは私を困らせてばかりなんですか!」
とうとう泣きそうな顔で詰め寄られたので、今度ばかりはスキルが折れることにした。
さも残念そうに顔を歪めて。
「仕方ないな、ブレンには違う仕事についてもらうとするか…。そうなるとリグには余裕ができるな。それじゃあ違う仕事を引き受けてもらうとしよう。もちろん受けてくれるな? リグ」
スキルに浮かんだ笑顔はまさしく新しい悪戯を思いついた子供の顔そのものであった。笑顔であるものの、スキルの物言いには有無を言わせぬ迫力がある。
嫌な予感がしたリグが何とか断ろうとするより前にスキルが差し出したのは1枚の紙。
紙には鮮やかな色彩を使ったイラストが描かれている。
その長方形の紙はサーカスのチケットだった。
「これは…?」
「サーカスの招待状さ。もちろんあのお嬢さんにね」
今度は何をたくらんでいるんだろう…?
サーカスのチケットを受けとったままリグはちらりとスキルの顔を伺う。生憎その顔からは何も読み取ることができなかった。
サーカスの芸の基本とは訓練に訓練を重ねることである。そしてひとつの芸の形が仕上がったら、あとはひたすら同じ事をくり返す。疑問は不要、迷いは禁物。
スキルは早朝の訓練を行なっていた。パートナーであるシアとの練習はすでに終えて、ステージにいるのはスキル只1人。
彼のサーカスでの役目は空中アクロバット。
天井に張られた一本のロープを使って、腕の力を頼りに体重を支えてさまざまなポーズを取りながら演技をする。
このアクロバットは天性の体のしなやかさだけでは不十分で、筋肉も充分に鍛えられていなければならない。そうでなければ反りかえった筋肉を元に戻したりすることはできないから。
訓練とはいえ、アクロバットには相当の体力を消耗する。すでにスキルの服は汗のせいでピタリと体に張りついてしまっていた。額から流れ落ちる汗を手の甲で拭い取る。
今の季節は春だから良いものの、これからの季節を考えると気が重い。
中にはその暑さと厳しい訓練ゆえに倒れてしまうものもいるほどだ。
一通り訓練を重ねた後、スキルは床に腰を下ろして休憩をした。力いっぱい空気を吸い込んでまるで猫のように伸びをする。
「おはよう。もうご飯よ。そろそろ休憩したらどう?」
そう声をかけて、朝食を載せた盆を手に現れたのは母のソアラだった。熱心に練習に励んでいるスキルを気遣うように微笑んでいる。
「おはようございます、母上。いつもならリグが届けてくれるはずなんだけど…リグはどうしたんです?」
いつもなら朝食を持ってくるはずの、今はこの場にいないリグの姿を探す。
「リグならまだ動物達のお世話をしているみたいよ。ブレンが今日から手伝っているみたいだけれど…大丈夫かしら」
ソアラの語るところによると、ブレンがつまずいた拍子に動物の餌をぶちまけてしまって、それを運悪く頭から被ってしまったリグとで後片付けをしている最中なのだという。
話を聞いたスキルは思わず苦笑をもらした。
「あらあら、笑い事ではないのよ。あなたは昔からリグを困らせることしかしないのだから」
ソアラは困ったように小首を傾げる。叱っているつもりなのだろうが、おっとりしているのでちっとも迫力がない。
「レイピアちゃんのことだってそうよ。あの子をあんまり困らせては駄目よ。とっても傷つきやすくてか弱い女の子なのだから」
「そう……ですね」
それは分かっている。レイピアは強気に振舞っているけれど、本当はとても傷つきやすくて繊細な女性だということは。
あのとき。
レイピアが腕に怪我をして熱を出して眠っていたとき。
何度も寝言でつぶやいていた言葉がある。
ユーザ。
不安そうに眉根を寄せて、痛いであろう右手を伸ばして誰かを捜し求めるように何度も宙にさまよわせた。
おそらくそのユーザという人物と過去に何かがあったのだろう。
あの事件のときのレイピアの過剰なほどの荒れた様子も少なからずその事が関係しているのではないかと思う。
生憎それが何であるかはスキルでもさすがにわからなかったが。
「それがわかっているのにレイピアちゃんをいじめているの?」
スキルは苦笑して肩をすくめる。
「俺にもどうしてだか…。ああ、きっとあれかな、好きな娘にいたずらをしたくなるっていうやつ。あれはそうか…こんな感じなのか」
1人で納得したようにぶつぶつとつぶやくスキルに、ソアラはもうっとため息をつく。
「いつまでたっても大きい子供みたいねぇ。一体誰に似たのかしら?」
ソアラはもちろんのこと、父も一途なタイプだ。
恋愛に対して大変不真面目なスキルのことは息子ながら理解できないと思われている節がある。
「正直あのお嬢さんに対してどう接していいのかわからないんですよ。…いつも怒らせるか泣かせてばかりだ」
「不器用な子ねぇ…。あなたがレイピアちゃんのことを本気で好きになったのなら応援するわ。お嫁さんに来てもらったらとっても嬉しいもの。でもね、そうでなかったら…中途半端に関わっては駄目よ」
レイピアちゃんの心は壊れてしまうかもしれないから。
そう言ったソアラの言葉にスキルは「肝に命じておきます」と、それだけ返した。
ソアラの意見は正しい。
レイピアの心はガラスのようだ。性格はレイピアというその名にふさわしく鋭いものがある…けれどそれは表面上のもの。
実際の彼女は触れると壊れてしまうガラスのようにもろい。あの普段のつんけんとした態度はそうやって人から距離を置いて自分の心を遠ざけているように思える。
…心を守っているのだ。
だからこそどう接してよいものか戸惑う。
ゲームの対象としてレイピアを見ているのなら話は簡単だった。極力関わらないようにして、ピンクダイヤを守っていれば良いだけなのだから。
なのに、ついレイピアの顔を見ると引き寄せられるように近づいてしまう。
わざと挑発したり、からかって怒らせたり。レイピアの反応1つ1つを見るのがいつの間にか楽しくなっていた。
自分は彼女に惹かれている。
そう思うようになったきっかけはあの事件。
ライのために涙を流したレイピアの姿がたまらなく美しいと思った。けれどそれはほんのきっかけにしか過ぎなくて、たぶん最初に一目その姿を見たときから惹かれていたのだろう。
いつもなら少しでも好意を持った相手がいたら、すぐに口説いてしまうというのに。しかし、どうしてもその一歩が踏み出せずにいる。
俺らしくもない……。
前髪を掻きあげて自嘲する。
スキルには悪い癖がある。
口説いた女性と長く続かないのだ。いつも関係を持った上で、終わりにする。その繰り返し。
自分でも悪い癖だと思っているけれどこればかりはどうしようもないのだ。
彼女達に対してすぐに冷めてしまう自分にいつだったかリグが言った言葉があった。
「きっとそれはあなたが彼女達に対して本気ではなかったということでしょうね」と。
レイピアに対しての気持ちも、同じなのかもしれない。
単に普通の娘よりも毛色が変わっているから側にいて楽しいだけで、一度でも関係を持ってしまえば、そこで終わってしまう気持ちなのかもしれない。
スキルのそうした恋愛観をレイピアは理解できないと言った。
彼女は遊びで手を出していい相手ではないのだ。
レイピアちゃんの心が壊れてしまうかもしれないから。
ソアラの言葉が頭の中で反芻する。
そう、だからこそ迂闊に踏み込めない。
***
「若君―――――――っ!!」
凄まじい程の足音を立てて、サーカスのステージに駆け込んで来たのは顔を怒りで真っ赤にしたリグだった。その後からブレンも同じように顔を真っ赤にして入ってくる。
何事かとスキルとソアラは顔を見合わせて首を傾げる。
「どうして私がブレンと仕事をしなくちゃならないんですか! ブレンときたら手伝うどころか余計に仕事を増やすんですから!」
「俺だってお前なんかと仕事なんかしたかねぇや! 口を開けばお小言ばっかり言いやがってー! お前がごちゃごちゃ言うから気が散って足が滑ったんだ」
ぎゃあぎゃあとリグとブレンは顔を向かい合わせて怒鳴りあった。
スキルは先程ソアラが言っていたブレンが餌をこぼしてリグに引っ掛けたという言葉を思い出す。
リグを見ると服のところどころに野菜をすりつぶした餌がくっついていた。
「朝から賑やかだな」
笑いを噛み殺して声を掛けると、途端にリグがキッと睨んで振り返った。そして恨めしそうな顔をしながらスキルに詰め寄る。
「若君~~~~っ! もしかしてこれは私に対しての新たな嫌がらせですか!? そうでしょう、そうなんでしょう!?」
「嫌だな。俺は純粋にリグの負担を軽くしてあげようとブレンを手伝いに向かわせたというのに」
心外だな、とばかりに顔を曇らせる。
彼を知らない者から見れば、心やさしい青年が純粋にリグの身を案じているように映るかもしれない。顔だけは大変良いので余計にタチが悪い。
「そんな顔しても騙されませんよ! …ああ、もうどうしてあなたは私を困らせてばかりなんですか!」
とうとう泣きそうな顔で詰め寄られたので、今度ばかりはスキルが折れることにした。
さも残念そうに顔を歪めて。
「仕方ないな、ブレンには違う仕事についてもらうとするか…。そうなるとリグには余裕ができるな。それじゃあ違う仕事を引き受けてもらうとしよう。もちろん受けてくれるな? リグ」
スキルに浮かんだ笑顔はまさしく新しい悪戯を思いついた子供の顔そのものであった。笑顔であるものの、スキルの物言いには有無を言わせぬ迫力がある。
嫌な予感がしたリグが何とか断ろうとするより前にスキルが差し出したのは1枚の紙。
紙には鮮やかな色彩を使ったイラストが描かれている。
その長方形の紙はサーカスのチケットだった。
「これは…?」
「サーカスの招待状さ。もちろんあのお嬢さんにね」
今度は何をたくらんでいるんだろう…?
サーカスのチケットを受けとったままリグはちらりとスキルの顔を伺う。生憎その顔からは何も読み取ることができなかった。
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