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第五の事件

最終話 これは、恋愛小説である

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「怖いんです」
 こういう時に限って本音が出てしまう。呆れた顔でため息をつき、また求人誌を開いたサキエさんに対して、申し訳ないという気持ちで一杯になった。私は一体何をやっているのだろう? 自分自身を変えよう、変わろうと思えば思うほど、それとは正反対の行動や考えを取ってしまう。バイトをして、自立して、胸を張って生きる。ただそれだけのことが、私にとっては凄まじく大変なことに思えた。
「どんな仕事をしていたんですか?」
 思わず私は聞いていた。よく考えてみれば、私自身サキエさんのことをほとんど知らない。その代わり死因を知っているというのはおかしなことだが……。
「私? 学生時代は花屋でバイトしてたわ。卒業してからは普通のOL。上司の無能さに毎日苛々しながらビールばっかり呑んでた」
「やっぱり仕事って大変ですか?」
「そりゃそうよ」と外人のようなオーバーリアクションで答えるサキエさんをぽかんと見ていた。それが恥ずかしかったのか、すぐに手を引っ込める。
「まあ、お金を稼ぐというのはすごく大変なことよ。嫌なことにも我慢しなきゃいけないし、全然休みないし、家と職場の往復ってやつ」
 いつになく饒舌になったサキエさんの思い出話は、それから一時間ほど続いていた。アルバイトでさえ怖気づいていた自分が恥ずかしくなった。その話が二時間近く続いた所で、我慢の限界が来てしまい、話を無理やり中断させた。文句を言いたそうな顔をしているサキエさんの指に素早く煙草をねじ入れると、機嫌が直ったのだろうか、満足そうな顔でベッドにふんぞり返った。
「まあ、最初は簡単そうなバイトから始めればいいんじゃない。本が好きなんだから本屋とかさ」
「そうは言いますけど、結局仕事ってどれも大変なんでしょう? 接客業は怖い客が来そうですし、肉体労働は私の貧弱な体ではできませんし」
 結局の所、自分にできることなどないのではないか? という思いが頭に過ぎってしまう。例えできなくてもやるというのが金を稼ぐと言うことなのだろう。それは分かっている。頭で分かっていても実行に移せない。
「とりあえずやってみて、無理だったら一週間とかで辞めればいいじゃん。気負いすぎても駄目だって。所詮はバイトなんだから」
 サキエさんの一言は、私の中に渦巻いていたそういう気持ちを振り払ってくれる力がある。もう一度頭の中で今日の出来事を思い返してみる。ライヴハウス、バンド演奏、そしてサキエさんが働いていた仕事の話。どれも私にはない物であるし、私が欲しいと思っても手に入れることは難しいであろうということは想像に難くない。それを手に入れることは不可能だったが、自分自身の成長というものは願ってもいいはずであるし、それを実行させ結果に残そうとすることも可能なはずだ。それなのに私は、バイト先に面接の約束を取り付けることでさえ躊躇し、サキエさんに救いの手を求めてしまっている。それでいいのだろうか? 否!
「それで良いはずがない!」
 私が急に立ち上がり拳を振り上げたのを見て、少し遅れてサキエさんが大きなリアクションと共に宙をふわふわと浮いた。その衝撃によって積み上げていた小説の山が音を立てて崩れ落ちた。下に人が住んでいたら苦情問題になるが、幸いなことに私の住んでいる部屋の下には誰も住んではいない。どれだけ叫ぼうとも暴れようとも、裏側にあるブラジルまで物音が届くということはないだろう。
「ありがとうございますサキエさん。とりあえず電話してみようと思います」
 決意した私の顔を見て、サキエさんは優しく微笑んだ。
「何だこういう優しい顔もできるんじゃないですか」と言い終わる前に本の角で殴られたのは言うまでもないだろう。
 
 数ある仕事の中から、私は結局あのコンビニを選択した。仕事内容は今更言うまでもないだろう。基本的には接客をし、時間が空けば商品整理などをする。時給は七百八十円。一人暮らしとしてはなかなかきついものはあるが、贅沢は言っていられない。雑誌が宙に浮くという怪奇現象がアルバイト連中の間でまことしやかに噂されている。正体は知っているが言わない。

 そして私は両親の元へ行き、大学を辞めたことを伝えた。隣にサキエさんがついていてくれたから、言えたのだと今になって思う。当然素直にことが運んだわけではない。しかし私の必死の説得――プラスサキエさんの助言により、最終的には納得してくれた。同時に、当然だが仕送りは止めてもらった。


 二十一歳最後の夏が終わっていく中、私はそんな重要な時間をアルバイトに費やしていた。というのも、最初は週に三日の予定だったコンビニのアルバイトが、スタッフが数人一気に辞めてしまったせいもあって、五日乃至六日入れさせられることになってしまったのだ。昼夜を問わず働く生活に疲れるものの、充実していた。大抵の仕事はそつにこなし、接客も様になってきたと店長に褒められたりもした。と同時にサキエさんの構って欲しいイライラが頂点に達した。私が朝、アルバイトへ行こうと布団から体を起こそうとするのを金縛りで阻止し出したのだ。
 その時の言い訳は、「働きづめだと疲れるでしょ、休みなさい」であった。今まで一度たりとも休んだことの無かった私は頑としてそれを拒否しようとしたが、霊的な力には敵うはずもなく、しかし出勤時間は刻一刻と迫ってくるという状況に焦っていた。
 私が必死に口を動かしているのを見て、サキエさんの良心が珍しく動いたのだろう、気づけば声だけは出せる状態になっていた。「あー、あーあー」大丈夫だ。
「そういえばサキエさんと私が出会って、どれぐらいになるのでしょうか」
 まさかそんな話題が出るとは思いもよらなかったのだろうか、サキエさんの目が大きく開いた。
「春から夏だから、結構経ってるね。というかもう八月終わりじゃん」
 時の流れはありえないほどに速い。何もしていなくても、何かをしていたとしても、止まってはくれない。それがどうでもいいことであろうが、重要なことであろうが、時間は平等なのだ。
「私はいつまでこのままなのかなぁ」
 体が動くのを確認し、携帯を手にとってバイト先へと電話を掛けた。「体調不良で休む」とだけ告げ、電話を切る。サキエさんは驚いた表情で私を見つめていた。
「今日はぶらりと散歩でもしましょうか」

 二人でアパートを出て、桜さんの前に立った。少し湿ったような冷たい風が体を吹きぬけていく。私たち以外には誰もいない。
 私自身、そろそろ考えを固めねばならないと常々思っていた。私とサキエさんの関係についてどうしたいのか、今まであやふやなまま先送りしていた、二人の関係について。サキエさんがいなくなると、また私は孤独に苛まれることになってしまう。自慢することではないし今まで何度でも言ってきたことだが、私には友人はいない。バイト先でも話はするものの、その先に踏み込むことができないでいた。
「別にまあ、このままでもいいんだけどね。環と一緒にいるの楽しいし」
 その一言が私の心に突き刺さり、私の中での答えが定まった。
「でも、前みたいな怖い目に会うのはこりごりだけどね」と苦笑いをしながら言う。私はそれを無言で聞きながら、火を付けたばかりの煙草をサキエさんに差し出した。
「オカルト好きな女の子のこと覚えてる?」
 サキエさんの吐き出した煙が空に舞って消えた。
「ああ、サキエさんが見える女ですね。悪霊退散とずっと騒いでいた」
 脳裏にあの女の暴れ狂っている姿が浮かんだ。あれから会ってはいないが、今度会えば何をされるか、何を言われるかわからない。
「それで思ったのよ。環が危ない目に会っているのは、私のせいじゃないのかって」
 かなりの確率であなたのせいだと思いますよ、と言おうとした口を無理矢理閉じた。もし口を開いていたら、危ない目どころでは無かった。サキエさんはもう一口煙草を吸うと、私に手渡した。私も同じように一口だけ吸い、それを捨て靴底でもみ消した。
「あの子言ってたじゃない。幽霊は幽霊を引き寄せる力があるってあと生気をどうとか」
 サキエさんの言葉を遮るように、すこし声を上げて言った。
「あんなオカルトマニアの言うことなんて信じちゃいけませんよ。現に今は何も無く平和じゃありませんか。私は今のままで何にも問題はありませんよ。ある意味プラスだと思っています。一般人よりも面白い人生だなあと思いますし……まあ多少怖い目もありますが……。まあつまり、サキエさんにはずっとここにいてほしいということですよ」
「何カッコつけてるの! まぁ、環がそれでもいいなら、もうしばらくここにいてあげるわ」
 サキエさんが私のポケットから煙草を取り出し、火をつけた。私が思い切ってサキエさんの手を握ると、微笑んだサキエさんが私の顔を見た。私も同じようにしてサキエさんを見つめた。
「探偵業兼成仏屋は、今日で廃業ですね」

 数ヵ月後、ついに切られる事になってしまった桜さんを、アパートの住人と共に見送っていた。さすがに、「退去か桜の木温存かを選べ」と言われるとどうしようも無くなってしまったのだ。ここ近辺で今のアパートほど家賃が安い物件などないし、引越しするには膨大な費用がかかる。私たちは諦める他無かったのだ。相変わらず市原は浪人生だし、鈴木は瀬名さんに惚れ続けているし、瀬名さんはよくわからないし、二宮はうるさいし、そして私の隣にはサキエさんがいる。それが何年続くかはわからないけれど、できるだけ一緒にいたいと思っているし、隣にサキエさんがいるだけで私は十分だ。これから先、あの女生徒のような霊が出たとしても、乗り切っていけるような気がする。
 あれから毎日、本当にサキエさんを殺した犯人を見つけなくてよかったのだろうか、という自問自答に苛まれる。多分この悩みは、一生続いてくのだろう。答えは出せない。もし見つけてしまえば、サキエさんは消えてしまう。これまでの霊たちと同じように。だから見つけなくてよかったのだ、と半ば強引に決め付ける。
 ――考えるのをやめた私は、夏の終わりを感じさせる鈴虫の鳴き声を背中で聞きながら、サキエさんに小さく微笑んだ。
「何へらへらしてんのよ! もうっ!」
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