16 / 19
十六、 守り刀
しおりを挟む「夜が明けたのか。やっと、熱が下がった。一人で起き上がれそうだ」
ゆっくりと寝返り、体を横向きにしてみる。変だな。誰かに見られている気がする。早起きの父さんが心配して様子を見に来てくれたのか。でも、いつもと人影が違う。ずいぶんと大きな黒い影。誰だろう。優しい目でおれを見つめている。少し寒い。朝の冷気か。もう夏も終わりだ。
「榧丸久しぶりだな。病の具合はどうだ。また痩せたんじゃないか」
薄暗がりの中、よく目を凝らすと、あぐらをかいた大きな男が榧丸を見つめている。
「あっ、その声は竜兄か。いつからそこにいたんだ。会いたかった」
顔はよく見えないが、夜着を掛けて寝ていた榧丸は、寝筵に手を付いて上体を起こすと、無我夢中で竜ノ介に飛びついた。
「おっと、思ったより元気だな」
竜ノ介は榧丸の勢いで、そのまま仰向けにひっくり返り、大の字に寝転がる。榧丸は覆いかぶさるように、しがみついた。
「やっと会えた。竜兄だ」
榧丸は竜ノ介の胸に頬を乗せて、手を伸ばして太くてふさふさとした眉を何度も、指でなぞるように撫でた。竜ノ介はされるがままになっている。
「おい、子犬か何かと間違っていないか」
「子犬じゃない。大きな犬だ」
「おまえは、犬にじゃれつく子猫ってところか」
竜ノ介が逞しい両腕で榧丸を包み込む。
「あやまりたいことがある。せっかく会いに来てくれたのに、竜兄の刀はいつ出来上がるかわからない。おれは一年前から具合が悪くて、刀鍛冶の修行を休んでいる。数日前からは熱が出て、頭が割れそうに痛くて伏せっていた。鍛錬場へ行くこともできない」
竜兄の胸に額を押しつける。
「何だ、そんなことか。刀なんて、いつでもいいよ。急ぐことはないさ」
「だって、竜兄は立派な武士になったんだから、腰に差す名刀が必要だろう。
昨年の六月二十三日に八王子城が落城した後、韮山城と津久井城も落城した。
小田原城は二十二万の大軍にとり囲まれても、ずっと籠城し続けると思っていたよ。どんな敵も城下を囲み、高くそびえる土塁の総構を超えることはできない。だから、七月五日の小田原開城には驚いた。悲しかった。
八王子城で戦った武将たちの首を小田原城内にいる子息たちに送りつけたり、舟で連れてきた小田原城に立て籠もっていた武将の妻子を惨めな姿にして浜辺に晒したり。それで、小田原城主の北条氏直は、豊臣秀吉に城を明け渡すことにしたんだろう。
北条氏政と弟の氏照様は切腹して介錯された。氏照様の首を小姓の山角牛太郎が抱えて逃げようとして捕まった。その話しを聞いた家康が、情の深い忠義者の小姓だと感心して、家来に召し抱えたとか。
中山勘解由の戦ぶりに、前田利家と上杉景勝が惚れ込んだって。一騎当千の勇者を無駄死にさせてはいけないと、降伏するように言ったけど、勘解由様はそれを断り、最後まで戦い八王子城で散った。
小田原城にいた中山助六郎は、父親があまりにも見事な武将だったから、徳川家に召し抱えられた。今では徳川秀忠に中山家の高麗八条流馬術を伝授していると、父さんが言ってた。よかったな。竜兄は助六郎様の家来だから、馬術の稽古もしているよね。竜兄の騎馬武者姿を見てみたいな」
「ははは、おれは相変わらずだよ。門番をしている」
「そうかい。出世して忙しくておれのことは、すっかり忘れていたんだろう」
「まさか、かわいい弟を忘れるわけがない。いつだって想っていたよ」
榧丸の柔らかい唇に触れる物がある。それは人差し指だった。
「竜兄の指、妙に冷たいな」
その指をくわえて舌でちろりと舐めた。
「へへへ、くすぐったい」
「竜兄、嘘言うなよ。美丈夫だから、皆に好かれていて友だちが多くて女にもてる。楽しく暮らしているんだろう。おれのことなんて忘れて当然さ。でも、おれは忘れないよ。いつも想っていた。竜兄の無事と幸せを祈っていたよ」
「まいったな。確かに、おまえのことを忘れていた日もあった。実は好きな女がいたが、やっぱりおまえが一番だ。これは嘘ではない。こうして約束通り、座間まで会いに来たのだから、許しておくれ。ずいぶん髪が伸びたな。手触りのいい綺麗な髪だ」
大きく無骨な手で頭、首筋、背を優しく撫でてくれるから、何だか心地よくなってきた。体が溶けていくようだ。また眠くなってきた。
「ところで竜兄は、中山家の館の門番ということか。館は何処にあるんだい。今日はここに泊まるのかい」
榧丸は再び深い眠りに落ちていた。目覚めた時には、すでに朝日が狭い部屋の隙間から差し込んでいる。いつもと違い、難なく起き上がることができた。めまいも無い。
「竜兄、何処へ行ったの。そうか、先に鍛錬場へ行ったのか」
母の形見の藍色の小袖を羽織り立ち上がる。髪を束ねる事も無く、ふらつきながら壁を伝って庭へ出る。頬に秋の気配を感じた。
「おっ、榧丸だ。久しぶりだな。体の具合はどうだ」
「病が治ったのか。だが、まだ顔が青白いぞ」
「髪が伸びたな。美人の幽霊みたいだ」
小屋の前では兄弟子たちが、榧丸を物珍しそうに見つめて、口々に声をかけてきた。榧丸は何も言わずに恥ずかしそうに微笑む。
鍛錬場から、慌てて源治郎が出て来た。
「昨夜までは熱にうなされていたが、今日は具合が良さそうだな。でも、まだ無理するな。寝ていろ。あとで、婆さんに粥を持って行かせるから」
「もう熱は無いよ。咳もあまり出ない。それより今朝は、やっと竜兄が会いに来てくれたね。もう、なかにいるのかな」
「何のことだ。誰も来てやしないよ。お前の部屋に竜が立ち寄ったのか。この辺にお役目でもあって、朝早くやってきたのかもしれないな。それはよかったな」
源治郎が目を細める。
「うん、二年ぶりに会えて嬉しかったよ。しばらく、ここで父さんの仕事を見ていてもいいかな」
小屋へ入ると壁ぎわに置かれた木の道具箱の上に腰掛けた。
源二郎は、刀の焼き入れのための土置を始める。燃えにくい粘土と砥石の粉を混ぜ合わせた秘伝の薄茶色の焼刃土を、細い小さなへらを滑らせるようにして、刀身に塗っていく。土の置き方に変化をつけて刃文を描く。硬く仕上げる刃には薄く、それ以外には柔軟な鉄にするために厚く焼刃土を重ねて塗った。いつも朝一番に行う仕事。榧丸はそれを見るのが好きだった。相模川支流の小川のせせらぎと、小鳥のさえずりに心が和む。今朝は榧丸の咳が響く。
「まだ、咳こんでいるな。早く部屋へ戻れ。気になってかなわん。それから、わしの部屋に朴の木の鞘に入った短刀がある。一昨日、おまえが眠っている時に、訪ねてきた客人が持って来た短刀だ。ひょっとすると、そのおかげで病が治ったのかもしれない。よく見てごらん。また、詳しい話しは夜だ」
「わかりました。でも、久しぶりに父さんの刀の焼き入れを見たいから、もう少し、ここに居させてください」
炎で焼かれて赤くなる刀身の色を見やすくするために、弟子たちは開け放たれた戸を閉め、小屋を暗くする。火床に風を送る鞴の音が激しく、かたかたと音を立てる。炎の色はめまぐるしく変わり、刀匠は炎と向き合い真剣勝負をしている。やがて、炎を封じ込めた赤く光る刀身が現れた。
源二郎が、炎から引きずり出した赤い刀を右手に掲げ持ち「やあー」と勇ましい雄叫びを上げて湯の入った細長い桶、湯船に入れる。すると刀が生き物のように「きー」と何度も鳴いた。それは人の声にも似ている。刀に魂が吹き込まれた瞬間だった。
今朝は竜兄に会えた。久しぶりの刀の焼き入れも見た。満ち足りて晴々とした気分となった榧丸は鍛錬場を出た。屋敷の敷地内にある厨房へ行くと、飯炊きの老婆が榧丸に粥を作ってくれた。熱いから少しずつ、ゆっくりと口に入れて飲み込む。滋味豊かな味噌の味と雑穀が、とろりと五臓六腑に染み渡る。久しぶりに食べ物が上手いと感じた。
源二郎の部屋へ入ると、枕元に置いてある短刀を手にして鞘から抜く。
「ああ、美しい。直刃が清々しい。刃縁が冴えている」
さぞや名のある刀匠の物だろうと思い、銘を確かめたくなった。刀身から目釘を抜いて柄をはずす。
「天正十七年 竜 為榧丸」
榧丸は息を飲む。短刀の茎には、文字の大きさが不ぞろいな銘が切られていた。まさか、これは竜兄が初めて作刀したやつか。不出来だからと言って、おれには見せてくれなかった短刀。榧丸は喜びとも悲しみとも怒りともつかぬ気持ちで、胸が苦しくなり、柄を元に戻して鞘に収めた短刀を、胸に抱き寝筵の上に倒れ込んだ。
「かやまるのためだと。二年前おれのために作刀したというのか。それなら竜兄から手渡してもらいたかったよ。どんなに嬉しかったことか。竜兄の馬鹿野郎」
夜着を被ってうずくまった。
夜になると、源二郎が芋粥と白湯を持って部屋へやって来た。
「具合はどうだ」
「もう大丈夫。明日から小屋へ手伝いに行くよ」
「まだ、しばらくはのんびりしていろ。こんなに痩せちまって、力も無いのに刀鍛冶の手伝いはできないだろう」
親指と人差し指の二本で手首を掴む。
榧丸は無言でうなずきながら指を振りほどき、箸で粥に浮かぶ里芋をつつく。細い首と肩を黒髪が覆っている。
「実は一昨日、おまえに会いに若い尼僧が訪ねてきた。熱でうなされている時だったから会わせなかったが、また来るそうだ。相模国下溝の天応院の貞心尼という。その時、この短刀を榧丸に渡してくれと言った。受け取った時は気づかなかったが、昨夜よく見たら竜が作刀したものだった。茎に切られた下手くそな銘は初めて見たが。貞心尼は竜のことを、よく知っているに違いない。気になるから明日、天応院を訪ねて話しを聞いてみようと思う」
「父さん、おれも一緒に行きたい」
「下溝は近いが、まだ出かけるのは無理だ。とりあえず、わしが行ってくるから大人しく待っているのだ」
「わかったよ。待っているから、早く話しを聞かせてよ」
おれは大切にされている。でも、いつまでも小さな子ども扱いされているような気がして嫌になる。長い一日を榧丸は一人過ごしていた。落ち着かない様子で庭を散歩する。そして短刀をじっと見つめるばかり。
「竜兄の短刀を見ていると心が落ち着くよ。地金は細かい板目肌。青竹のように真っ直ぐな刃文。刃の中に生気が見える。竜兄らしい刀だな。魂込めて作ったんだろうな。見れば見るほど、短刀に見られているような気さえしてくるから不思議だ」
短刀に話しかけていた。
日暮れ前に源二郎が、顔を曇らせて帰って来た。
「榧丸、残念な知らせだ。貞心尼は亡くなられたそうだ。寺で聞いたところによると、貞心尼とは北条氏照様の娘の波利姫だ。八王子城に居たという姫は生きていたのだな。北条家滅亡後、中山助六郎の室となったが、お優しい姫だったのだろう。すぐに戦乱の世をはかなんで出家されたとか。無理もない。落城の時に、さぞやおつらい思いをされたのだろう。そして昨日、同じ寺の尼僧の目の前で相模川に身投げされたという。今、大騒ぎになっている。まだご遺体は見つかっていないとのこと」
「何だって。何故、八王子城の波利姫が竜兄の短刀を持っていたんだ。そういえば、竜兄は好きな女がいたって。まさか波利姫か」
父と子は互いに顔を見合わせ、しばらく沈黙した。
「竜の短刀は銘以外は見事な出来映えだ。初めて作刀したとは思えぬほど。もっと褒めてやれば良かったと、後悔している。引き留めるべきだった。足軽なんぞにならなければ、名を残す刀匠になったかもしれない。最初で最後の竜の刀は、おまえのための守り刀だ。おそらく、竜は小田原城へは行っていない。中山勘解由の家来として、最後まで八王子城で戦ったに違いない。この短刀は竜の形見の品」
淡々と語っていた源二郎の目から突然、止めども無く涙が溢れ出した。
「父さん、泣くなよ。まさか、そんなわけない。竜兄は昨日、おれに会いに来たんだぞ」
榧丸は初めて大声で父親を怒鳴りつけた。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
豊家軽業夜話
黒坂 わかな
歴史・時代
猿楽小屋や市で賑わう京の寺院にて、軽業師の竹早は日の本一の技を見せる。そこに、参詣に訪れていた豊臣秀吉の側室・松の丸殿が通りがかり、竹早は伏見城へ行くことに。やがて竹早は秀頼と出会い…。
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
通史日本史
DENNY喜多川
歴史・時代
本作品は、シナリオ完成まで行きながら没になった、児童向け歴史マンガ『通史日本史』(全十巻予定、原作は全七巻)の原作です。旧石器時代から平成までの日本史全てを扱います。
マンガ原作(シナリオ)をそのままUPしていますので、読みにくい箇所もあるとは思いますが、ご容赦ください。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』
原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる