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7章 急転直下
彼のそんな顔を姫香は知らない
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もうすでに日付が変わっていた。いつもなら、すでに寝ているであろう時間だ。
私は申し訳ないと思いながらも、シグルドの部屋のドアをノックした。木の音が完全にかき消えてから、数秒の間があって、
「どなたですか?」
部屋の中から声がした。
「私、ヒメカ」
もう一度間があって、そしてキィッと小さな音とともにドアが開く。
「どうしたんですか? こんな夜更けに」
扉の向こうに立っていたシグルドはいつもの騎士服のままだった。眠っていたところを起こしたわけじゃないようなので、ひとまずホッとした。
「ごめんね。ちょっと話したいことがあって」
「……中に、入りますか?」
声に抑揚はなく、表情も些かかたい気がする。
こんな夜遅くに訪ねて来たことを迷惑だと思っているのかもしれない。やっぱり明日にしておけばよかった。
「いいの?」
「はい、構いませんよ」
後ろめたくなって確認をするが、シグルドはいつもと同じ笑顔を浮かべて招き入れてくれた。
――ガチャリ。
夜の雰囲気が恐怖を招くのだろうか?
なんでもない鍵のかかる音。さらにはシグルドだって傍にいる。怖いことなんて何もないはずなのに、どうしてこうも恐怖心を駆り立てるのだろう。
「どうして、鍵をかけるの?」
何かが起きるような、漠然とした予感がする。これも、時間帯が夜だから……?
「どうしてって……それは――」
私はギュッと目を瞑った。
静かな声で紡がれたその言葉は、まるで赤ずきんちゃんの問いかけに答えるオオカミのもののようだった。
答えを聞いてはいけない――聞いたらその時点で、『予感』だったものが『事実』となり、認めまいとしていたことを受け止めなくてはいけなくなる。
「普通ではないですか? こんな時間にわざわざ訪ねてきて話す事ですから、重要な話なのでしょう。だったら、誰にも邪魔されないよう鍵くらいかけますよ。そうじゃなかったら何のために鍵が付いているのか分からないじゃないですか」
おかしな人ですね、と彼は軽く笑った。
私の予想に反して、彼の返答は当たり前で無難なものだった。
「それとも」
シグルドの声のトーンが一気に下がる。
彼を見ると、
「身の危険でも感じましたか?」
笑っていた、いつもと同じように。けれどいつもの笑顔とは違う。
まるで女性のように妖艶で……こんな笑い方をするシグルドは見たことがなかった。
「シ、グ……ルド……?」
妖しい笑みを浮かべたまま近づいてくるシグルド。
私の知る……私の好きなシグルドとはかけ離れていて――別人みたいだ。
――怖い。
スゥーッと伸ばされた腕に反応できなかった。殴られるのか、首を絞められるのか――一瞬先に起こる何かに脅えて、私は身をこわばらせた。
「ヒメカ様」
しかし、思っていたような衝撃は襲ってこなかった。代わりに力強く抱きしめられる。
「……え?」
強く、強く。
このままシグルドの体に取り込まれてしまうのではないかと思った。体だけでなく心までがしびれてくる。
ルカ王子の抱擁とはちがう。腕の強さも、聞こえてくる心音も……。なによりの違いは匂いだった。
比べるのは悪いけど、さっきまでルカ王子に抱きしめられていたんだ。違いを探してしまうのも無理はない。
今さっきまで婚約者であるルカ王子の胸で泣いていて……けれど、今はこうしてシグルドに抱きしめられている。
しかもそれが嫌じゃない。もっと言ってしまえば、抱きしめられてシグルドの体温を感じることで、安心してる自分がいる。
そんな自分が卑怯者に思えて、すごく嫌だった。自分がとんでもなく汚らわしい存在のように感じる。
「……ルカ王子の、匂いがしますね」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。まるで冷や水をいきなりかぶせられたかのような――今にも動きを止めてしまいそうな、気分の悪い動悸。
一度高く跳ねた鼓動はその後、早く小刻みになっていく。それに合わせるように、身体も小さく震えだす。
「非常に不愉快です」
私はシグルドの顔を見上げた。深い海の色をした瞳が、冷たく私を見下ろしている。
いつもの穏やかな笑顔が嘘のようで、怒っているのが一目でわかった。
「さっきまで部屋に二人きりでいたようですし……。……一体、何をしていたのでしょうね」
「見て、たの?」
「部屋に入っていくところをたまたま目撃しただけですよ」
シグルドの腕にさらに力がこもる。
「まったく、結婚前に……はしたない」
「え……?」
はしたない?
シグルドの言葉を反芻して、ようやく彼の言わんとしている事に気付いた。一気に顔に熱が集中する。
「違う! 何か誤解してるよ、シグルド! 私はルカ王子と……その、なんていうか……シ、シグルドが思っているようなことは、してないからッ!」
そんな誤解受けたくない。特に、シグルドには。
懸命に説明しようとしたが、内容が内容だったせいで上手く言葉にできない。
「じゃあなんで、こんなにも匂いが移っているんでしょうかね? ――あぁ、分かりました」
シグルドは、大きな手で乱暴に私の顔を掴むと、そのまま唇へとキスを落とした。
一瞬のことで、何が起きたのか分からなかった。
「ルカ王子とは途中までだった……だから、僕でその熱を冷まそうと思ってここへ来たんですね」
「シグルド、今……んんっ!」
キスした? と問いかける前に、もう一度口づけられてしまって言葉にならなかった。
私は申し訳ないと思いながらも、シグルドの部屋のドアをノックした。木の音が完全にかき消えてから、数秒の間があって、
「どなたですか?」
部屋の中から声がした。
「私、ヒメカ」
もう一度間があって、そしてキィッと小さな音とともにドアが開く。
「どうしたんですか? こんな夜更けに」
扉の向こうに立っていたシグルドはいつもの騎士服のままだった。眠っていたところを起こしたわけじゃないようなので、ひとまずホッとした。
「ごめんね。ちょっと話したいことがあって」
「……中に、入りますか?」
声に抑揚はなく、表情も些かかたい気がする。
こんな夜遅くに訪ねて来たことを迷惑だと思っているのかもしれない。やっぱり明日にしておけばよかった。
「いいの?」
「はい、構いませんよ」
後ろめたくなって確認をするが、シグルドはいつもと同じ笑顔を浮かべて招き入れてくれた。
――ガチャリ。
夜の雰囲気が恐怖を招くのだろうか?
なんでもない鍵のかかる音。さらにはシグルドだって傍にいる。怖いことなんて何もないはずなのに、どうしてこうも恐怖心を駆り立てるのだろう。
「どうして、鍵をかけるの?」
何かが起きるような、漠然とした予感がする。これも、時間帯が夜だから……?
「どうしてって……それは――」
私はギュッと目を瞑った。
静かな声で紡がれたその言葉は、まるで赤ずきんちゃんの問いかけに答えるオオカミのもののようだった。
答えを聞いてはいけない――聞いたらその時点で、『予感』だったものが『事実』となり、認めまいとしていたことを受け止めなくてはいけなくなる。
「普通ではないですか? こんな時間にわざわざ訪ねてきて話す事ですから、重要な話なのでしょう。だったら、誰にも邪魔されないよう鍵くらいかけますよ。そうじゃなかったら何のために鍵が付いているのか分からないじゃないですか」
おかしな人ですね、と彼は軽く笑った。
私の予想に反して、彼の返答は当たり前で無難なものだった。
「それとも」
シグルドの声のトーンが一気に下がる。
彼を見ると、
「身の危険でも感じましたか?」
笑っていた、いつもと同じように。けれどいつもの笑顔とは違う。
まるで女性のように妖艶で……こんな笑い方をするシグルドは見たことがなかった。
「シ、グ……ルド……?」
妖しい笑みを浮かべたまま近づいてくるシグルド。
私の知る……私の好きなシグルドとはかけ離れていて――別人みたいだ。
――怖い。
スゥーッと伸ばされた腕に反応できなかった。殴られるのか、首を絞められるのか――一瞬先に起こる何かに脅えて、私は身をこわばらせた。
「ヒメカ様」
しかし、思っていたような衝撃は襲ってこなかった。代わりに力強く抱きしめられる。
「……え?」
強く、強く。
このままシグルドの体に取り込まれてしまうのではないかと思った。体だけでなく心までがしびれてくる。
ルカ王子の抱擁とはちがう。腕の強さも、聞こえてくる心音も……。なによりの違いは匂いだった。
比べるのは悪いけど、さっきまでルカ王子に抱きしめられていたんだ。違いを探してしまうのも無理はない。
今さっきまで婚約者であるルカ王子の胸で泣いていて……けれど、今はこうしてシグルドに抱きしめられている。
しかもそれが嫌じゃない。もっと言ってしまえば、抱きしめられてシグルドの体温を感じることで、安心してる自分がいる。
そんな自分が卑怯者に思えて、すごく嫌だった。自分がとんでもなく汚らわしい存在のように感じる。
「……ルカ王子の、匂いがしますね」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。まるで冷や水をいきなりかぶせられたかのような――今にも動きを止めてしまいそうな、気分の悪い動悸。
一度高く跳ねた鼓動はその後、早く小刻みになっていく。それに合わせるように、身体も小さく震えだす。
「非常に不愉快です」
私はシグルドの顔を見上げた。深い海の色をした瞳が、冷たく私を見下ろしている。
いつもの穏やかな笑顔が嘘のようで、怒っているのが一目でわかった。
「さっきまで部屋に二人きりでいたようですし……。……一体、何をしていたのでしょうね」
「見て、たの?」
「部屋に入っていくところをたまたま目撃しただけですよ」
シグルドの腕にさらに力がこもる。
「まったく、結婚前に……はしたない」
「え……?」
はしたない?
シグルドの言葉を反芻して、ようやく彼の言わんとしている事に気付いた。一気に顔に熱が集中する。
「違う! 何か誤解してるよ、シグルド! 私はルカ王子と……その、なんていうか……シ、シグルドが思っているようなことは、してないからッ!」
そんな誤解受けたくない。特に、シグルドには。
懸命に説明しようとしたが、内容が内容だったせいで上手く言葉にできない。
「じゃあなんで、こんなにも匂いが移っているんでしょうかね? ――あぁ、分かりました」
シグルドは、大きな手で乱暴に私の顔を掴むと、そのまま唇へとキスを落とした。
一瞬のことで、何が起きたのか分からなかった。
「ルカ王子とは途中までだった……だから、僕でその熱を冷まそうと思ってここへ来たんですね」
「シグルド、今……んんっ!」
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