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第二章 愛華薔薇学園の三王子
第三話 愛華薔薇学園の日常
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昇降口をくぐって外へ出ると、薔薇の香りが鼻孔をくすぐった。愛華薔薇学園はその名に相応しく、今日も薔薇の香りが溢れている。
甘い香りに胸を満たし、真愛は軽やかな足取りで正門へと向かった。正門まではまだ距離がある。
愛華薔薇学園は都内の一等地に立つ、私立の学校だ。幼稚舎から大学院まで揃っている超マンモス校。有数の学者や有名企業の社長を輩出している。
人材育成の実績もさることながら、愛華薔薇学園が一目置かれている理由には、学園内のいたるところにある薔薇の生け垣が挙げられる。見る者の心を華やがせる、美しく咲き誇る薔薇。外部の人間にとってはまさに地上の楽園と言えた。
しかし、現在の愛華薔薇学園にはもう一つ、華麗な薔薇よりも人々の心を惹きつける存在があった……。
「キャアアアアアアアァァァァァァァァァ――――ッッ!」
鋭く甲高い悲鳴の束が空気を震わせる。慣れているため「なんだろう」とは思わない。
(誰だろう?)
代わりにそんな疑問を持ち、両手で耳を押さえ、視線を声のした方を見やると、そこには人だかりができていた。
(根岸くんか)
女子が円形の群れを作るその中央に、頭ひとつ高い人物が見える。三王子の一人、根岸優その人だった。
三王子とは、現在愛華薔薇学園の生徒たちを夢中にさせている三人の生徒を指している。
真愛の視界で女子に囲まれている優は、王子の称号に相応しい、涼やかな様子でファンの生徒たちと談笑していた。さらさらと揺れる銀髪は陽の光を受けて宝石のように輝き、細いフレームの眼鏡をかけた目元は知性を感じさせる。神秘的で近寄りがたい美しさから、彼についた二つ名は『氷雪王子』だ。
氷雪王子は真愛の友人の一人ではあったが、人の群れに突っ込んで行ってまで別れの挨拶をする気にもなれず、真愛はそのまま正門の方へ顔を戻す。
薔薇の生け垣に沿って歩いていると、門が見えてきた。が、それ以外のものも同時に視界へ飛び込んできた。
正門付近で、先ほど優が作っていたものに近い群れができている。規模は同等、違うのは人の種類だ。優のファンは八割女子なのだが、今度は女子生徒と男子生徒が半々の割合でその群れを形成していた。
男子生徒の頭が邪魔をして中心にいるのが誰だか確認は出来ない、けれど男女半々のその特徴で推測は可能だ。
(玲音くんかな?)
首を伸ばして彼の顔を探すが、人が多すぎて全然見えやしない。声でも聞こえればいいのだが、歓声が大きく、期待するだけ無駄だろう。
別に玲音に挨拶する必要もない。そう、色々な意味で、玲音に挨拶をする必要はないのだ。そして、いつもなら挨拶せずに群れの横を通り過ぎている。
――だが。
(会いたい)
なぜだか今日は、玲音の顔を一目見たかった。声を聞きたかった。そんな自分の気持ちに、はてどうしたのだろう、と疑問が募る。
未練がましくも真愛が群れの一員になった時、スピーカーから可愛らしいメロディが流れてきた。メロディが終わるとプツリとマイクが入る音がする。
『みんなー! 下校の時間だよー!』
高くなく低くなく、耳に優しいクリアな声が学園を包んだ。
生徒が、薔薇が、学園内に存在する全ての生物が、息を止めて耳を澄し、その美声を一言も聞き漏らさないように一切の音を立てない。
『部活のある生徒は部活に向かってね! 応援してるよ! 用事のない生徒は早めに家に帰ってね! 気をつけて帰るんだよー! じゃあまた明日ね!』
放送が終わった。しかしほとんどの者がその余韻から抜け出せず、恍惚とため息を吐くばかり。真愛も玲音を探すのを忘れて聞き惚れていた。
短い言葉を数個並べた帰りの放送は、決して長いとは言えない。その短い時間に声だけで生徒たちを魅了したのは三王子の一人・津田芹香である。三王子の一人として数えられているものの、芹香はれっきとした女だ。『姫王子』と呼ばれ、男女の人気を集めていた。
女にしては高身長、女にしては低めの声、女にしては胸がない。それらの男性寄りな特徴にプラスして整った美人顔と中性的で不思議な響きを持つ美声。話題にならないはずもなく、噂を聞いた先輩たちの手によってスカートの代わりにスラックスを穿かされ、王子様が出来上がったわけだ。自由な校風の愛華薔薇学園では全ての生徒がスラックスとスカートのどちらもを着用できるため、芹香がスラックスを穿くことに問題は何一つなかった。
「聴覚は芹香にくれてやるよ……けどな、視覚は俺のものだ! そうだろう!」
誰も彼もが夢心地に固まっている中、投下された自信を多分に含だ声。声に操られて、群れは揃って同じ場所を向く。
何対もの視線を群れの中央で受け止めるのは、艶やかな黒髪とそれと同色の力強い瞳を持つ一人の男子生徒だった。口元にはやんちゃな笑みが浮かんでいるのだが、その様子はどこか艶っぽい。
本人が断言した通り、周囲の人間は彼に釘付けとなった。
後頭部と後頭部の間から、やっと玲音の姿――それも悩殺スマイル付き――を拝めた真愛の心拍数はドドドッと跳ね上がった。うるさい心臓を抱えて、真愛は首を捻る。
(何これっ? こんなの初めて……!)
呼吸が苦しくなるほどの胸の高鳴りに、経験少ないながらも真愛は一つの仮定にたどり着く。
もしかして……これが恋……? しかし。
――そんなわけないでしょ。
頭の冷たい部分が即座にそれを否定した。
――真愛は玲音に恋をしない。
真愛自身のものなのか別人のものなのかはっきりしない声が頭の中で響き、騒がしかった胸が落ち着きを取り戻していく。いつの間にか握りしめていたブラウスの胸元を放すと、じわっとした感覚が指先に起こった。
(私は玲音くんに恋をしない)
胸のうちで復唱すると、ファンに混じって玲音に熱視線を送っていた自分が馬鹿馬鹿しく思え、彼から視線を外し踵を返した。真愛の瞳は冷静というよりももっと冷めた目をしていた。
群れを迂回し、正門へと歩み始める――と、その時。
「あたしは全部玲音様のものです!」
一つのうわずった声が群れの中心に近い部分から上がった。一歩踏み出しただけで再び足を止め、真愛は顔を人込みへと向ける。
「視覚だけじゃありません! あたしは……聴覚も嗅覚も触覚も味覚も、五感の全部が玲音様のものです!」
声の主である女子生徒の近くにいた別の生徒が、「ちょっと貴女」と非難した。
『三王子不可侵の掟』なるものが暗黙のうちに存在する。三王子はみんなのもの、抜け駆けをして告白などしてはいけないという、ファンの間で決まっているルールだ。それが今、破られようとしている。
「だって、こんなに好きなのに! あたし……玲音様の、かの」
その先は言葉になることを許されなかった。
興奮して暗黙の掟に抵触している彼女の唇に、玲音はそっと手を添えた。瞬間、きゃあともぎゃあとも聞こえる悲鳴が正門付近一帯を覆い尽くす。
――ズキン。
声こそ上げなかったものの、真愛の右手はまたも胸の辺りでブラウスをきつく握りしめていた。先程とは違う胸の音。今度のそれは痛みを伴っている。
(本当に、まるで恋みたい)
玲音が他の女子に優しく触れたのを見て傷つくだなんて、これを恋と言わずになんと言うのだろう。
――真愛は玲音に恋をしない。
脳裏にまたも浮かぶ声。その声は暗示のように真愛の感情に響き、安心感を与えてくれる。その言葉に悪いものを感じられず、声に身を預けた。
(私は玲音くんに恋をしない)
先程したように不思議な声を心の中で復唱する。
妖艶な笑顔を女子生徒向ける玲音を意図して視界から外し、真愛は今度こそ群れを脱して正門へと向かう。歩く速度は、いつもよりも速い。
(私は玲音くんに恋をしない)
言い聞かせるように重ねて復唱する。何度も繰り返しながら、正門を通り抜けた。
「私は玲音くんに恋をしない」
正門を出てしばらくして、真愛は小声ではあるもののついに声に出して言い聞かせた。声に出したり胸の内でだったり、何度もしつこく復唱しているうちに真愛は平常心を取り戻しつつあった。家に着く頃には、もうほとんどいつもの真愛だった。
甘い香りに胸を満たし、真愛は軽やかな足取りで正門へと向かった。正門まではまだ距離がある。
愛華薔薇学園は都内の一等地に立つ、私立の学校だ。幼稚舎から大学院まで揃っている超マンモス校。有数の学者や有名企業の社長を輩出している。
人材育成の実績もさることながら、愛華薔薇学園が一目置かれている理由には、学園内のいたるところにある薔薇の生け垣が挙げられる。見る者の心を華やがせる、美しく咲き誇る薔薇。外部の人間にとってはまさに地上の楽園と言えた。
しかし、現在の愛華薔薇学園にはもう一つ、華麗な薔薇よりも人々の心を惹きつける存在があった……。
「キャアアアアアアアァァァァァァァァァ――――ッッ!」
鋭く甲高い悲鳴の束が空気を震わせる。慣れているため「なんだろう」とは思わない。
(誰だろう?)
代わりにそんな疑問を持ち、両手で耳を押さえ、視線を声のした方を見やると、そこには人だかりができていた。
(根岸くんか)
女子が円形の群れを作るその中央に、頭ひとつ高い人物が見える。三王子の一人、根岸優その人だった。
三王子とは、現在愛華薔薇学園の生徒たちを夢中にさせている三人の生徒を指している。
真愛の視界で女子に囲まれている優は、王子の称号に相応しい、涼やかな様子でファンの生徒たちと談笑していた。さらさらと揺れる銀髪は陽の光を受けて宝石のように輝き、細いフレームの眼鏡をかけた目元は知性を感じさせる。神秘的で近寄りがたい美しさから、彼についた二つ名は『氷雪王子』だ。
氷雪王子は真愛の友人の一人ではあったが、人の群れに突っ込んで行ってまで別れの挨拶をする気にもなれず、真愛はそのまま正門の方へ顔を戻す。
薔薇の生け垣に沿って歩いていると、門が見えてきた。が、それ以外のものも同時に視界へ飛び込んできた。
正門付近で、先ほど優が作っていたものに近い群れができている。規模は同等、違うのは人の種類だ。優のファンは八割女子なのだが、今度は女子生徒と男子生徒が半々の割合でその群れを形成していた。
男子生徒の頭が邪魔をして中心にいるのが誰だか確認は出来ない、けれど男女半々のその特徴で推測は可能だ。
(玲音くんかな?)
首を伸ばして彼の顔を探すが、人が多すぎて全然見えやしない。声でも聞こえればいいのだが、歓声が大きく、期待するだけ無駄だろう。
別に玲音に挨拶する必要もない。そう、色々な意味で、玲音に挨拶をする必要はないのだ。そして、いつもなら挨拶せずに群れの横を通り過ぎている。
――だが。
(会いたい)
なぜだか今日は、玲音の顔を一目見たかった。声を聞きたかった。そんな自分の気持ちに、はてどうしたのだろう、と疑問が募る。
未練がましくも真愛が群れの一員になった時、スピーカーから可愛らしいメロディが流れてきた。メロディが終わるとプツリとマイクが入る音がする。
『みんなー! 下校の時間だよー!』
高くなく低くなく、耳に優しいクリアな声が学園を包んだ。
生徒が、薔薇が、学園内に存在する全ての生物が、息を止めて耳を澄し、その美声を一言も聞き漏らさないように一切の音を立てない。
『部活のある生徒は部活に向かってね! 応援してるよ! 用事のない生徒は早めに家に帰ってね! 気をつけて帰るんだよー! じゃあまた明日ね!』
放送が終わった。しかしほとんどの者がその余韻から抜け出せず、恍惚とため息を吐くばかり。真愛も玲音を探すのを忘れて聞き惚れていた。
短い言葉を数個並べた帰りの放送は、決して長いとは言えない。その短い時間に声だけで生徒たちを魅了したのは三王子の一人・津田芹香である。三王子の一人として数えられているものの、芹香はれっきとした女だ。『姫王子』と呼ばれ、男女の人気を集めていた。
女にしては高身長、女にしては低めの声、女にしては胸がない。それらの男性寄りな特徴にプラスして整った美人顔と中性的で不思議な響きを持つ美声。話題にならないはずもなく、噂を聞いた先輩たちの手によってスカートの代わりにスラックスを穿かされ、王子様が出来上がったわけだ。自由な校風の愛華薔薇学園では全ての生徒がスラックスとスカートのどちらもを着用できるため、芹香がスラックスを穿くことに問題は何一つなかった。
「聴覚は芹香にくれてやるよ……けどな、視覚は俺のものだ! そうだろう!」
誰も彼もが夢心地に固まっている中、投下された自信を多分に含だ声。声に操られて、群れは揃って同じ場所を向く。
何対もの視線を群れの中央で受け止めるのは、艶やかな黒髪とそれと同色の力強い瞳を持つ一人の男子生徒だった。口元にはやんちゃな笑みが浮かんでいるのだが、その様子はどこか艶っぽい。
本人が断言した通り、周囲の人間は彼に釘付けとなった。
後頭部と後頭部の間から、やっと玲音の姿――それも悩殺スマイル付き――を拝めた真愛の心拍数はドドドッと跳ね上がった。うるさい心臓を抱えて、真愛は首を捻る。
(何これっ? こんなの初めて……!)
呼吸が苦しくなるほどの胸の高鳴りに、経験少ないながらも真愛は一つの仮定にたどり着く。
もしかして……これが恋……? しかし。
――そんなわけないでしょ。
頭の冷たい部分が即座にそれを否定した。
――真愛は玲音に恋をしない。
真愛自身のものなのか別人のものなのかはっきりしない声が頭の中で響き、騒がしかった胸が落ち着きを取り戻していく。いつの間にか握りしめていたブラウスの胸元を放すと、じわっとした感覚が指先に起こった。
(私は玲音くんに恋をしない)
胸のうちで復唱すると、ファンに混じって玲音に熱視線を送っていた自分が馬鹿馬鹿しく思え、彼から視線を外し踵を返した。真愛の瞳は冷静というよりももっと冷めた目をしていた。
群れを迂回し、正門へと歩み始める――と、その時。
「あたしは全部玲音様のものです!」
一つのうわずった声が群れの中心に近い部分から上がった。一歩踏み出しただけで再び足を止め、真愛は顔を人込みへと向ける。
「視覚だけじゃありません! あたしは……聴覚も嗅覚も触覚も味覚も、五感の全部が玲音様のものです!」
声の主である女子生徒の近くにいた別の生徒が、「ちょっと貴女」と非難した。
『三王子不可侵の掟』なるものが暗黙のうちに存在する。三王子はみんなのもの、抜け駆けをして告白などしてはいけないという、ファンの間で決まっているルールだ。それが今、破られようとしている。
「だって、こんなに好きなのに! あたし……玲音様の、かの」
その先は言葉になることを許されなかった。
興奮して暗黙の掟に抵触している彼女の唇に、玲音はそっと手を添えた。瞬間、きゃあともぎゃあとも聞こえる悲鳴が正門付近一帯を覆い尽くす。
――ズキン。
声こそ上げなかったものの、真愛の右手はまたも胸の辺りでブラウスをきつく握りしめていた。先程とは違う胸の音。今度のそれは痛みを伴っている。
(本当に、まるで恋みたい)
玲音が他の女子に優しく触れたのを見て傷つくだなんて、これを恋と言わずになんと言うのだろう。
――真愛は玲音に恋をしない。
脳裏にまたも浮かぶ声。その声は暗示のように真愛の感情に響き、安心感を与えてくれる。その言葉に悪いものを感じられず、声に身を預けた。
(私は玲音くんに恋をしない)
先程したように不思議な声を心の中で復唱する。
妖艶な笑顔を女子生徒向ける玲音を意図して視界から外し、真愛は今度こそ群れを脱して正門へと向かう。歩く速度は、いつもよりも速い。
(私は玲音くんに恋をしない)
言い聞かせるように重ねて復唱する。何度も繰り返しながら、正門を通り抜けた。
「私は玲音くんに恋をしない」
正門を出てしばらくして、真愛は小声ではあるもののついに声に出して言い聞かせた。声に出したり胸の内でだったり、何度もしつこく復唱しているうちに真愛は平常心を取り戻しつつあった。家に着く頃には、もうほとんどいつもの真愛だった。
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