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第七章 限界突破のソウルサクリファイス
1・吹き荒れる嵐
しおりを挟む涙が流れないのは、相変わらずだった。
今の僕は砂漠に転がる獣の死体だ。
熱に焼かれ血肉は蒸発し、骨も内臓も何もかもが渇いた物体になっている。
何も無い。人の形をしているだけの、ただのモノだ。
どうすればいいか、分からなかった。
今までのような先に進むべき道が見えないのではなく、全てが闇に閉ざされていた。
過去も未来も現在も、思考も感情も記憶も、何もかもが無へと溶けていく。
屈辱と苦痛しかなかった二か月前。僕は悪魔と契約し、時間を戻すすべを手に入れた。
契約の力は僕に生きる希望を与え、そして世界を変えてくれた。
もちろん、苦難は山ほどあった。九行さんとの出会いと死。何度ものリセット。
全てを乗り越え僕が得たものは、かけがえのない友人と、そして大切な人だった。
僅か二ヶ月。
六十日あまりの出来事。
その全ての記憶が、感情と一緒に消えていく。
口の悪い悪魔、賢く強い少女。心の痛み、耐えがたい後悔、詠うような悪魔の声、彼女の手のぬくもり、生きるよろこび。
もう、僕には何も無い。
何もかも消えてしまった。
悲しみも、激情も、嘆きも、後悔も、憎悪も、何も無い。
その中でただ、たった一つ残っている物があった。
《執念》。
「……失って、たまるもんか」
伯父にあてがわれた部屋でひとり呟く。縋るように、足掻くように。
熱風にも似た感情の嵐が心を渦巻く。戦え、抗え、飛び出せと叫び続ける。
希望を、家族を、友を、恋人を取り戻せと。
全ての道は失われた。グリードからの連絡は無い。
ならば僕に出来る事は一つだけだった。
残酷な運命から全てを奪い返すためならどんなことでもしよう。
それが、例え《家族をもう一度死なせる事になろうとも》。
世界をリセットし、家族の死の原因を見届ける。
出来る事なら、直接殺人犯を押さえる。そこから、《死の引き金》を推測し、次のリセットで取り除く。もはや道はそれしか無かった。
警察の捜査は当てにならない。
未だに一件目の事件さえも全く手掛かりがつかめていないのだ。
唯一の手掛かりであるグリードからの連絡も無い。
冷静な人間ならば、きっと待つことが正解だと僕に言うのだろう。
確かに正論だ。
だが、いつまで待てばいいと言うのだ。数日か、数週間か、数か月か、数年か。
先が見えない暗闇の中でただ待ち続けることがどれほどの苦痛であるのか、理解できるのはこの世界に僕しかいない。
もう、限界だった。
――違う。もう、限界なんてとっくに超えてるんだ。
だからこそ、僕は今《電動ドリルを握り締めているのだ》。
リセット条件である《眼窩から脳を串刺しにしての即死》を達成するために。
ドリルは拳銃の形に似ていた。銃口に当たる場所からは錐の様な刃が伸びている。錐と違うのは先端部分がうねっていることと、長さが十五センチはあることだろう。
引き金を、引く。
バッテリー駆動のドリルは振動と共に針の様な先端を高速回転させた。
――今から僕は、こんなものを目に突っ込むんだ。
意思とは無関係に指が引き金から離れた。同時にドリルの回転も止まる。
ドリルで頭を掻きまわした後、僕はどうなるのだろうか。
グリードがもし既に死んでいれば契約は無効だ。
例えメールの条件通りに死んだところで僕はただ死ぬ。
物言わぬ躯に、肉の塊になる。
――それでも、構わないじゃないか。
何を怯えているのだ。
家族を、九行さんを、そしてグリードを失った世界で生きるのなら、死んだ方がましだ。
ただ、この世界に神がいるのなら祈ろう。
どうか、リセットを成功させて欲しい、と。
親指に力を込め、ドリルの引き金を引く。
再びけたたましいモーター音が狭い部屋に鳴り響き、振動がを腕を震わせる。
ちらりとドリルを見ると、渦を巻く先端が高速回転していた。
――やれる、やってやるさ。
以前なら全身に鳥肌が立っていたことだろう。だが、今の僕は何の感慨も無かった。
やらなければならないからやる。
それだけだ。
重い腕を上げ、両の手で持ちなおす。指が離れても大丈夫なように、止め具をかける。
眼は見開いたままだ。先端部分が無情に回転している。
うねり、けたたましい音を鳴らし、今か今かと僕を串刺しにする瞬間を待っている。
瞳は、閉じない。閉じるつもりは無い。
焼き付けておきたかった。
痛みを、死の瞬間を、乾ききった絶望を、心に刻みつけておきたかった。
息を止め、腕に力を込める。
迫る凶器。近付く棘。回転する刃。
終わりを招く死の螺旋が僕の黒眼へと触れ、抉りだす。
「あっ、あがっ……がっ」
ドリルが眼球表面を引き裂き、内部の水分をかきだしていく。
頭の中で奇妙な音が響いた。破裂したような不気味な、響き。
大丈夫。まだ、大丈夫。痛いだけなら耐えられる。
あっさりとドリルは眼球の中心に到達。
振動が頭蓋をかき乱し、激痛を走らせるが気にしていられるものか。
――このまま、突っ込む!
頭の中に響くのは音、音、音。
改めて持ち手を握り締め、思い切りドリルをねじ込む。
それが、失策だった。
「がっ! あがっ、ああああああああああああああああッッ!!」
柄を持ちなおした事でドリルの軌道がずれる。
当然だ。激しく震える機械は二キロ近い重さがあるのだ。栄養不足の細腕で安定させられるはずが無かった。
斜めに走った金属の錐は僕の眼窩下部、頭蓋へとめり込み削り取っていく。
もはや、悲鳴さえも上がらない。
何が何だか、分からない。
思考が定まらず、体をどうやったら動かせるのかも良く分かっていない状態。
ただその中で唯一、確かな物があった。
今の僕の中にたった一つ残された揺るぎないもの。
――助ける。絶対に。死ぬ、助ける。死ぬかも。構わない。それでも。
「助けるんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
願いと言う名の執念が燃え上がった。
手首に力を込め、先端を引き上げる。唸る刃が肉を、骨を吹き飛ばし、神経を引き裂く。
ぐりんっ。
眼窩の中でぼろぼろになった眼球が回転した気がした。
きっと気のせいだ。
気持ち悪い。痛い。
うるさい。知るか。気にしてられるか。
軌道を修正し、ドリルを思い切り押し込む。
感触は、何も無かった。
あっさりとドリルはあたまの奥までたっした。
多ぶん脳にとどいた 思う。
豆腐につっ込んだ、らこんな、かん、じ?
ささる。えぐ。る。
ひびく。
ことば、かたち、ならない。
ひびく、おと。
きゅいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん。
うる い。
きゅいぃぃぃぃぃぃぃぃぃん。
いたい。
きゅいこぃぃぃいぃぃん。
こわい。
きゅいぃぃぃぃぃ。たすけ。
ぶつん。
■
息が、荒い。
久々のリセットに全身が震えている。
目を押さえ、ベッドの上でのたうちまわる。
未だにドリルが眼球を抉っているようだ。頭の中を殺人的なモーター音が支配している。眼球が破裂した感覚、骨が削り取られる感触。消えない。消えない。消えない。
「ああああああああああああああああああっっ!!」
転げ、這いずり、叫ぶ。
右目を、触る。ある。目を開く。見える。考える事も、できる。大丈夫、大丈夫。
僕は生きている。
リセットに、成功したのだ。
『戻ったか』
ぜえぜえと息を吐く僕へと、懐かしい声がかけられる。
成功したなら当然だ。彼は生きている。
例え動けないほどの傷を負わされようとも、十一月二十五日の彼は無傷なのだから。
理屈では分かっていたが、胸にこみ上げる熱いものを押さえる事が出来なかった。
「……戻ったか、じゃない。何があったのさ!」
頭に響く異音も忘れベッドから飛び出し、モニターを引っ掴む。
グリードが生きていた。どうしようもなく嬉しい事実だ。
だからこそ、疑問だった。
どうして彼はこんなにも平然としていられるのだろうか。
『おいおい、落ち着け。落ち着くんだ。いつも通りの《儀式》をしろ』
「できるもんか! 何でそんなに落ち着いてんだよっ! グリード、君は……君は死んだんだぞ!?」
グリードの様子がいつもと変わらない事に苛立ちを覚える。
何が儀式だ。こんな時に筋道立ててリセット前に起きた事を話している余裕など無い。
何故、彼は何事も無かったのようにいられるのだ。それどころか、グリードは凄まじい剣幕でまくし立てる僕に困惑しているようだった。
耐えがたい違和感が胸をざわめかせる。
『……何を言っているんだお前は。むしろ、聞きたいのはオレの方だ。いきなり《リセット》したような素振りを見せたと思えば訳のわからない事を言って。そもそも、お前はいつリセットした?
いや、そもそも本当にここでセーブしたのか?』
「えっ?」
どう言う、事だ。
停止しそうな思考の糸を必死に手繰り寄せる。
待て、待て、待て。考えろ、整理しろ。
「……今日は何日?」
『十一月の二十五日だ』
間違っていない。
僕がセーブした日の記憶と寸分違わない。気を利かせたグリードが点灯させたモニターにも日付と、午前五時四十五分と言う文字が表示されている。
「グリード。今日、何が起きるか知っている?」
『だから何を言っているんだ。質問したいのはオレの方だと言っているだろう』
やはり、おかしい。
首筋を、ヒルが這いまわるような感触が走った。
予感が確信へと近づいていく
『なあ、ミライ。お前は《いつから来た》? それにどう言う意味だ。オレが死んだと言うのは』
間違いない。もう、疑いようのない事実だった。
《グリードの記憶は継続していない》。
僕が九行さんとデートする事どころか、自分が襲われる事さえ、何も知らないのだ。
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