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  酒と琵琶

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 二人の養子に跡継ぎの件を話して数日経った。
 明日か明後日、家臣たちの前で布告しようと思っている。
 そんな日の夜。
 謙信は縁側に座り、月を見ながら酒を呑む。
 そしてゆっくり琵琶を奏でた。

 ポロン、ポロン。

 若き日、こういう音色が好きではなかった。
 哀しげな音が、好きではなかった。
 若い頃は、哀しい事を知らなかったからだ。
 哀しい事は、哀しかったからだ。
 
 例えば親しい者の死。

 金津新兵衛義旧が死んだ時、唯々哀しかった。
 どうしようなく、哀しんだ。
 しかし歳を取り、多くの哀しい事に出会い、哀しみを感じるのではなく、知ることが出来る様になった。

 妙な話だ。

 若い時は哀しい事が、唯々哀しかった。
 今は哀しい事が、哀しい事として受け止められる。
 哀しくないというのでは無い。
 泣く事もなくなり、辛くも無い。
 ただ哀しい事として、受け止められるようになったのだ。

 若き日に戻りたいか?

 哀しい事を、ただ哀しいと思えた頃に。

 どうだろう。

 若い頃は戦さに、闘争にこの身を焼いていた。
 今も戦さには出ている。
 だが静かに戦さに出ている。

 勝つ事も負ける事も、あまり拘らない。
 勝てば次にこういう手を打つ。
 負ければ負けたで、次にこいう手を打つ。
 勝ち負けそのものに、意味も価値も無い。
 次に打つ手が変わるだけ。
 そんな風になっている。

 昔はもっと、勝ち負けに意味があった。
 今が嫌という訳では無い。
 ただ十五の時に、こんな風になるとは思わなかった。
 或いはこんな風に感じることを、老いだと言って否定したかったのか。


 手を見る。
 四十九の老いた手だ。
 皺とシミのある手だ。

 何を成した?
 
 そんな事を考えそうになり、笑ってしまう。

 若い頃、そんな事を決して考えなかった。
 ただ為していた。
 決めて、為して、戦っていた。
 自分が何を成したかなど、考える事は無駄だと思っていた。

 もう四十九。
 人は六十になると、赤子に戻るという。
 後十年生きれば、赤子に戻る。

 ふふっ、と笑う。

 翁が翁のような事を考えている。



 ポロン、ポロン、と琵琶を奏でる。
 盃に手をやる、クッと呑む。

 段蔵め、なぜ来ぬ。
 謙信は心の中で、そう呟く。

 一人で酒を飲んでいるとたまに加藤段蔵が現れ、あれこれ喋りながら酒を呑み、気が付いたらいなくなっている。
 現れれば、鬱陶しい奴め、と思うのだが、来なければそれはそれで、なぜ来ぬ、と思ってしまう。

 無性に誰かと呑みたかった。
 段蔵は鬱陶しいが、それでも構わない。

 誰と呑みたいかと問われればどうだろう?

 金津義旧の顔が浮かんだ。だが呑めば説教になる。
 それにもう、この世にいない。

 本庄実乃は生きている。だが寝たきりだ。
 小島弥太郎貞興は、小島の里にいるのかもしれない。或いはもういないかもしれない。 
 久しく会っていないので、分からない。

 呑むなら斎藤朝信か北条高広だろう。
 何度か呑んでいるが陽気な酒だ。
 しかし二人とも今は忙しい。
 関東に侵攻する事を、二人に伝えてある。
 康光の策は伏せている。
 朝信は伴い、高広は留守を命じている。
 それぞれ仕事があるだろう。
 酒が呑みたいから来いとは言えない。

 二人の養子、景虎と景勝ならどうだろう?
 呑みたいなどと言えば、変に二人とも勘繰るだろうし、一人だけ呼べば余計にまずくなる。

 ふっ、と謙信は笑う。
 酒を酌み交わす相手もいないとは、君主とは孤独なものだ。
 
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